- 作者:諭, 石戸
- 発売日: 2020/06/17
- メディア: 単行本
Kindle版もあります。
保守の星は"ヒーロー"か"ぺてん師"か。見城徹、花田紀凱、小林よしのり、西尾幹二、藤岡信勝らが実名証言。「ニューズウィーク日本版」大反響特集に大幅加筆。本人独占インタビュー5時間半。本人が初めて語った「百田尚樹現象」の"本質"とは?
百田尚樹さんという作家は、「作家」という枠組みをこえて、「日本の右傾化」や「嫌韓・嫌中の象徴」のようにみられているのです。
Twitterなどでは、炎上してしまうような「右翼的発言(というか、左翼批判)」も少なからずみられていますし、大ベストセラーとなった『日本国記』では、記述に歴史的事実との違いがあるにもかかわらず、修正や正誤表の添付に応じない、といった問題もあります。やしきたかじんさんについて書いた『殉愛』では、争っている片方からの取材で、偏った(誤った)記述が多々見られるということで裁判で敗訴しています。
ただ、僕自身はこれまで百田さんの小説を読んできて、作家としては、駄作もあるけれど素晴らしい作品もあるし、本人のキャラクターによって、作品まで歪められて解釈されがちだとも感じているのです。
『永遠の0』は、「右傾化エンタメ」ではなくて、少なくともあの時代の日本軍の上層部に対しては批判的な内容だとも思いますし。
この『ルポ 百田尚樹現象』では、日本の作家としては珍しく「右派の論客」としての影響力を「持ってしまった」百田尚樹という作家について、本人や関係者へのインタビューもまじえて詳しく分析されているのです。
読んだ感想としては、せっかく百田尚樹さん本人や見城徹さん、小林よしのりさんといった、こういうインタビューを受けているのを見かけない人たちに取材しているのだから、彼らの話を、断片的なものではなくて、もっとちゃんと収録してほしかった、というのはあるんですよ。この取材が実現したのは、著者の真摯な努力と『ニューズウィーク日本版』の力であり、インタビューの内容は『ニューズウィーク』のほうに掲載されているのかもしれませんが、「百田尚樹さんに5時間半も独占インタビューして、使っているのは、これだけ?」という印象は否めませんでした。
それに、タイトルの割には、後半は、ほとんど「百田尚樹前」の話で、小林よしのりさんの『戦争論』のインパクトや「新しい歴史教科書をつくる会」の話なんですよね。
1990年代半ばからの「自虐史観」とされるものを克服しようという運動、そして新しい歴史教科書をつくる会』の活動は「今まで、左翼側にしか市場はないと考えられていた」出版会・言論の世界に、「右翼側でも売れる下地がある」ことを証明することになりました。
著者は、その活動と「百田尚樹現象」には、地続きのところもあれば、断絶している面もある、と考えているようです。
ただ、いち読者としては、百田尚樹さんのことを読みにきたのに、百田さん以前の歴史を延々と読まされてしまった、という感じもするんですよね。
僕は『戦争論』を20代半ばで読んで、これまでの「太平洋戦争で、日本は欲望にかられて侵略戦争をし、多くの人々を苦しめた」という歴史観を見直した記憶があるので、あらためて小林よしのりさんが、あのときの話をされていたのは、とても興味深くはあったのですが。
小林さんが「情の人」っていうのはまさにその通りで、その「情」が強いあまりに、一度会って好きになってしまった人には過剰なくらいの思い入れや支援をするし、逆に一度嫌いになってしまうと徹底的に悪く描いてしまうような気がします。
AKB48のメンバーへの肩入れなどは、「かわいい女の子にデレデレしちゃってさ……」くらいのものなのですが、山尾志桜里さんへの入れ込みなどは「小林さんって、けっこう人を信じやすいタイプなのかな……」と思うのです。
薬害エイズ事件で活動していた若者たちが、左派系の組織に取り込まれ、「運動のための運動」をするようになってきたのをみて、『ゴーマニズム宣言』に「日常に戻れ」と描いていたのもすごく印象に残っています。
ああ、僕も「百田尚樹現象」の本の感想を書くはずだったのに、小林よしのりさんの話ばかり書いてしまった……とりあえず、当時の「よしりん」には、そのくらいの影響力があったんですよ。
百田尚樹さんへのインタビューのなかに、こんな話が出てきます。
印象に残っているのは、百田自身も大絶賛したデビュー作『永遠の0』の映画版について聞いた時のことだ。映画の肝心なシーンで、日頃から百田、そして右派がこだわって使う「大東亜戦争」ではなく、「太平洋戦争」という言葉が平然と使われている。なぜ、これだけ歴史観を主張していながら「太平洋戦争」を受け入れたのか。しかも、右派が批判の対象とする朝日新聞も製作委員会に名前を連ねている。思想にこだわりを持つのならば、拒否する選択もあったはずだ。
「朝日が入っていても嫌ではなかったです。『大東亜戦争』にしてほしいという気持ちはありましたが、映画は何億円もかけて、多くの人が関わるビジネスです。自分がお金を出しているわけではないのです。
『大東亜戦争』という言葉を使うことで拒否感を持つような方もおられますので、こだわりがマイナスになります。用語はもちろん大事ですが、多くの観客にとってはどうでもいいことです。たかだか用語一つでこの映画を見てみらえないことのほうが嫌でした。一人でも多くの人に見てほしかったですね。
僕は細かいことを気にしないんですよ。大事なのは本質でね。コアな部分を見てもらうことが大事なのです。僕は『大東亜戦争』と常に使いますが、『太平洋戦争』と呼ぶ人がいたところで、大きな声で間違っているという気はないんですよ。映画は娯楽なんです。本質はあの戦争をどう考えていくかでしょう」
この発言には、内心かなり驚いた。右派言論をリードしている「論客」だと思っていた人物が、柔らかい大阪弁であっさりと「作家」としての正論を述べる。しかも大事なはずだと私が勝手に思っていた先の戦争の呼称と「たかだか用語一つ」といい、映画館に足を運んでもらうことばかりに気を配るのだ。
ツイッターの言動から攻撃的な人物を想像していた私は正直、面食らっていた。印象は決して悪くなかった。百田はたった一人でやって来て、どんな質問にもすべて答えた。待ち合わせ場所に指定されたホテルに迎えにいき、タクシーに乗り込んだ時は、さすがに緊張していた様子で口数は少なかったが、一度話し出すともう止まらなかった。一人称は「私」か「僕」で、横柄な態度は一切なく、冗談を連発し、常に笑いを取ろうとする姿は善良な「大阪のおっちゃん」そのものだった。事実、取材に同行した編集者やフォトグラファーは何度も笑わされることになった。
もちろん、「会ってみたら『いいひと』だった」からといって、公的な場所での言動がノーカウントになる、というわけではありません。
でも、この本を読めば読むほど、百田尚樹さんにとって大事なのは「思想そのもの」よりも、「多くの読者に読んでもらうこと」ではないか、という気がしてくるのです。
『永遠のゼロ』は「戦争賛美の右傾化エンタメ」と呼ばれ、『海賊とよばれた男』は、ブラック労働を称賛しているようにも感じられますが、登場人物たちの姿は、たしかに、多くの「普通の読者」を感動させているのです。
百田さんにとっては、「読まれるため、ウケるために有効なネタかどうか」というのが、イデオロギーよりも大切なことなのかもしれません。
いや、それは百田さんに限ったことではない、それが現代の日本での「経済・人気至上主義者」の当然の振る舞いなのだ、とも言えそうです。
右派的な本が売れているから、ビジネス戦略として『日本国紀』を出したのではないかとの問いにだけ、見城はやや語気を強めて反論した。
「そんなことは1ミリも思っていない。僕にはビジネス的に右派が売れているから右派の本を出そうという考えは全くない。右派的な本や雑誌ばかりが売れるのはどうかと思っている。もちろん、売れることは大事だ。売れる本があるから、全く売れないとわかっていても世に必要な本が出せる。僕が元日本赤軍、極左の重信房子の本を何冊も出していることからわかるでしょう。その時は批判なんて来なかった。僕は右でも左でもない。見城という『個体』だよ」
百田もまたこの本は学術的な歴史書だとは認識していない。日本の歴史を「私たちの物語」として書いたのだと語る。その上で、「売ることが一番大事」と断言した。
百田の証言──「(『日本国紀』は)学術的な本ではないです。僕が日本という国の物語を面白く書いた、という本です。民族には物語が必要です。日本には素晴らしい物語があるのに、これまで誰も語ってこなかった。歴史的事実を淡々と書いたところで、それは箇条書きと同じです。
僕は歴史で大切なのは解釈だと思っています。事実は曲げられませんから、事実に基づき、史料と史料の間を想像力で埋めて書いたのが、僕の解釈による通史です。日本の歴史書はこうあるべき、なんて思うことはないですね」
「売れることが一番大事。そのためにやっています。売れなくてもいいならブログに書いていたらいい。僕の本で、変種者、製本会社、書店、営業……。多くの人がご飯を食べているんです。売れなくてもいいから本を出そうとは思いません」
「百田尚樹という作家は、とにかく『セールス至上主義』なのだ」ということをみんなが理解していれば、ここまで批判されたり、称賛されたりすることは無かったような気がするんですよ。
『殉愛』をノンフィクションとして売り出すのは問題でしょう。
でも、「正確だけど面白くなくて、誰も手に取らない本」よりも、「多少の脚色や独自の解釈があっても、みんなが読んでくれる本のほうが存在価値がある」というのは、それなりに筋が通った主張だと思います。
この日、見城は堂々と「正論」を語った。
「通史が詳説のように面白く読めたら、それは売れるでしょう。『面白い』は大事に決まっているじゃないか。これがダメだって言うなら、批判する側が、批判するだけでなく通史を書いたらいい。それぞれの歴史観を打ち出せばよくて、後は読者が評価する」
「売れるのが、多くの人に読まれるのが正義」という思想と「読んでもらうために事実を脚色したり、スキャンダラスに書いたりするのは、間違っている」という理念の葛藤は、小説だけではなくて、雑誌の記事やネットニュースにおいても、議論され続けています。
そして、現実は、「そうやってお金を稼いでくれる悪趣味なコンテンツが稼いでくれるおかげで、時間とお金、人の手をかけた良質なものを提供できている」のです。
そもそも「読者(視聴者)のニーズがある」というのは、それだけで正しい、とも言えます。
噓や脚色は推奨できることではない。でも、どんなに正しくても、「読まれない」ものに存在意義はあるのか?
まあでも、正直なところ、「作品と作家を別物として考える」のは僕にとっては難しくて、百田尚樹さんの小説は、最近読んでいないんですよね。
もしかしたら、今の状況というのは、百田さん自身にとっても「不本意」なのかもしれません。
ニューズウィーク日本版 Special Report 百田尚樹現象〈2019年 6/4日号〉[雑誌]
- 発売日: 2019/05/28
- メディア: Kindle版