琥珀色の戯言

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【読書感想】戦争と平和 ☆☆☆

戦争と平和 (新潮新書)

戦争と平和 (新潮新書)

内容(「BOOK」データベースより)
日本は絶対に戦争をしてはいけない。日本人ほど、戦争に向かない民族はいないのだから―。「ゼロ戦」と「グラマン」の徹底比較から見えてきた、私たちの致命的な欠点とは何か。ベストセラー『永遠の0』に秘めた、本当の想いとは。作家が「何としても戦争を回避しなければならない」という強い想いから真摯に綴った、圧倒的説得力の反戦論。


 『戦争と平和』といっても、トルストイの歴史に残る名作ではなくて、百田尚樹さんが書いた新書のほうです。
 僕は百田さんの小説は、取材したことをあまり加工せずに書いているものは、なかなか良いな、と思うことも多いのですが、オリジナリティが増すほど、肌に合わないと感じるんですよね。
 この『戦争と平和』は、「圧倒的説得力の反戦論」とオビに書かれており、内容には頷けるところも少なからずあるんですよ。

「平和」について語るには、「戦争」を知る必要があると、私は考えています。
永遠の0』を書いた時、大東亜戦争について徹底的に調べました。個々の戦争から大局的な戦略、さらに当時の軍事や平気についても研究しました。その結果、見えていきたものは——「日本人は戦争に向いていない民族であった」というものでした。これは驚きでもありましたが、同時に、これが日本人の本来の姿なのかもしれないという不思議な安心感を覚えました。

 前述したようにゼロ戦グラマンF4は、いずれも艦上戦闘機です。ゼロ戦の実戦配備は昭和15(1940)年7月です。グラマンF4の実戦配備は同年の12月です。ちなみに大東亜戦争が始まったのは昭和16(1941)年12月です。当然、両者は真っ向からぶつかります。
 ところが、同じ艦上戦闘機なのに、両機のフォルムはまったく似ていません。
 ゼロ戦の見た目は非常に美しい。その美しさはどこから来ているのか。これはアール(曲線、カーブ)が多いからです。なぜそんなにカーブが多いのかといえば、最大の理由は空気抵抗を少なくできるからです。これは現在でも、スピードを必要とする乗り物に求められる特徴です。
 史実に忠実な物語ではありませんが、このあたりのことはアニメ映画『風立ちぬ』にも出てきたので、後存知の方も多いのではないでしょうか。映画では、ゼロ戦の生みの親である堀越二郎が、サバの骨を見て、そのカーブの美しさを参考にしたと描かれていました。このエピソードが象徴するように、ゼロ戦は、直線が殆ど無い、カーブばかりでできた機体の戦闘機です。
 一方で、グラマンは対照的に直線ばかりで設計された機体です。羽にしてもハサミで垂直に切ったような形状です。実は米軍の設計者に直線中心で構成したいという意向があったわけではありません。理想的なスピードを出し、旋回能力を発揮するには、理想的な曲面やカーブを用いたほうがいいことはわかっていたはずです。流体力学等の観点から考えても、直線のほうがいいという結論にはなりません。
 それがわかっていなかがらも、アメリカ軍は理想的なカーブを描くことにこだわらず、敢えて直線を多用する設計を採用したのです。
 それはなぜか——作りやすさを重視したからです。


 ゼロ戦は優れた性能の戦闘機ではあったけれど、性能を向上させるためにさまざまな工夫をしたために、一機つくるのにコストと時間がかかる飛行機になってしまったのです。
 アメリカは、性能を突き詰めるよりも、大量生産できることを重視して、グラマンを設計しました。
 日本のものづくりのこだわり、と言えば聞こえは良いけれど、ただでさえ経済力に差があるのですから、アメリカの物量に日本は圧倒されてしまいました。
 百田さんは「クオリティを追求したゼロ戦の弊害」を詳しく説明してくれていて、管轄の違いから、つくられたゼロ戦が、工場に飛行場が隣接していなかったために、牛に引かれて飛行場まで運ばれた、という話や、撃墜されたパイロットの命を守り、その経験を活かそうとしたアメリカ軍と、「撃墜されないようにしろ、捕虜になるなら自決しろ」という日本軍とでは、熟練パイロットの数の差が開いていったことも紹介されています。
 この点では、百田さんの指摘は正しいと僕も思うんですよ。
 ただ、日本がアメリカと同じように「作りやすい飛行機を大量生産する」という思想で戦ったとしたら、もともと経済力に大きな差があるのだから、結局、勝つことは難しかったのではないか、という気もします。
 そういう意味では、量で競ってもかなわないから、一機の質で数を補う、というのは、差別化という意味では「ありうる戦略」なのかもしれませんね。
 不利な状況で戦争をした時点で、負けていた、とも言えるのですけど。


 この新書の第二章には「『永遠の0』は戦争賛美小説か」というテーマが書かれています。
 百田さんは、もちろん戦争を賛美しているわけではない、と仰っていますし、僕もそうだと感じました。戦争を題材にした小説に、カッコいい人物が出てきたら、全部「戦争賛美小説」というわけでもないでしょう。
 正直、百田さんがいろいろ他人を挑発するようなことを言わなければ、「右傾エンタメ」なんて批判も、「石田衣良さんの嫉妬じゃないの?」て済んでいたような気もします。
 

 余談ですが、私が『永遠の0』を書いたもの一つの動機は、「昭和の『壬生義士伝』を書いてみたい!」という思いです。『壬生義士伝』は吉村貫一郎という無名の新選組隊士の一生を描いた、浅田次郎氏の傑作小説です。物語は、子母澤寛がモデルと思われる大正時代の新聞記者が新選組の生き残りを訪ねて、吉村の人生を聞くというスタイルを取っています。


 『永遠の0』と『壬生義士伝』の両方を読んだ僕にとっては、なるほど、と思うエピソードでした。
 真田信繁新選組の話は「右傾エンタメ」「戦争賛美」と言われないのは、もう、日本人にとっては「歴史」となってしまっているから、なのでしょうけど、あと何十年かで太平洋戦争を実際に体験した人はいなくなってしまうことを考えると、近い将来、太平洋戦争も「歴史」になっていくはずです。
 「次の戦争」が起きれば、その前の戦争は、否応無しに美化されたり反省材料にされたりすることになるので、日本にとって、太平洋戦争が「もっとも近い戦争」であり続けてほしいと僕は願っているのですが。


 個人的には、本当に戦争について話を聞いておくべき人は、あの戦争で戦地や日本で苦しんで命を落とした人だと思うんですよ。
 生き延びた撃墜王の話は、『機動戦士ガンダム』の世界のアムロやシャアの英雄伝みたいなものでしかありません。
 ジムとかボールに搭乗して「じゃまだ!」って蹴られて爆死した人のほうが、多数派なわけです。
 突き詰めていえば、ジムやボールに乗れるパイロットだって、エリート兵士なのだし。

 ただ、無名の兵士が苦しんで死ぬ話というのは、エンターテインメントにはなりにくいですよね。
 そういう意味では、戦争で活躍した人を描くというのは、すべて「右傾エンタメ」の要素を持っている、とも言えるのかもしれませんね。


 で、第三章の「護憲派に告ぐ」は、もう全編挑発、という感じの厭味たっぷりの文章で、これまでは「頷けるところもあるな」と思いながら読んでいた僕も、「うんざりして、読む気が失せる」内容でした。
 百田さんって、「余計なことを言って、他人を不快にさせる天才」なんじゃないかと思うんですよ。
 

 私は以前、講演で、国防軍の大切さを話した際、軍隊を「防犯用の鍵」と譬えたことがあります。この時、国防軍を持たないナウルやバヌアツを「家に譬えるなら貧乏長屋で、盗まれるものはない」と発言しました。この「貧乏長屋」が両国を揶揄する発言だとして時事通信社に全国配信されました。それを受けた各新聞社の多くが問題発言として紙面で私を非難しました。中には「国際問題になる」と書いた新聞社もあります。
 馬鹿馬鹿しいとしか言いようがありません。侵略戦争の究極の目的は「国土や資源の強奪」です。南太平洋に浮かぶ島嶼国には、地政学的な意味から見た国土も、前述したようにめぼしい産業や資源もありません。それで私は、「防犯用の鍵(国防軍)をつける意味がない」ということで、「貧乏長屋」と言ったのですが、ここには両国を揶揄する意味がない」ということで、「貧乏長屋」と言ったのですが、ここには両国を揶揄する目的は一切ありません。つまり私が本当に言いたかったことは、国土や資源を守るためには、国防軍が必要であると言いたかったのです。「貧乏長屋」はその譬えにすぎません。私は小説家ですから、講演の時には、こうした譬え話を交えながら話します。


 僕も「そのたとえ話は不適切だ」と言われることが少なからずあるのですが、この百田さんの話を読んでいて、胸糞悪くなってきました。こんな人の講演の内容を報道して、不快になる人を増やすことの是非も問われるべきだと思うのですが、「貧乏長屋」という言葉に、両国を揶揄する目的は一切ありません、って、その言語感覚、おかしくない?
 自分の家や国が「貧乏長屋」って、他人に言われたら、不快になる人のほうが多いよそれは。
「貧乏」って、ネガティブワードだし、日本というそれなりの大国の人からそんなふうに言われたら、相手は少なくとも嬉しくはないはず。
 自分で「いやー、うちなんで兎小屋ですから」なんて謙遜することはあっても、他人からそう言われれば腹が立ちますよ。関西人の言語感覚って、こういうものなのだろうか(関西の人すみません。たぶん違うと思うので、あらかじめ謝っておきます)。
「私が本当に言いたかったことは、国土や資源を守るためには、国防軍が必要であると言いたかったのです」
 それなら、そのまま言えばいいだけの話です。
 他者をバカにするようなたとえででウケを狙おうとするから、不快になる人がたくさんいるんですよ。
 ただ、いわゆる「護憲派」も、そろそろ、「憲法九条は絶対変えてはならない」と繰り返すだけではダメになってきていることに気づくべきだとも感じます。
 「聞く耳を持たない者どうしが、お互いをバカにしあっている状態」というのは、ものすごく不毛であり、だからこそ、百田さんみたいな、声が大きく、押しが強くて相手を揶揄するだけの人が一方の「代弁者」になってしまっているんですよね。
 僕は実際に戦争に行った人たちが「戦争はもうしたくない」と言ってきたことを、あらためて考えるべきだと思いますし(百田さんも、戦争賛成派じゃないんですよ。この人は、ただ、護憲派を茶化したいだけの人です)、永遠に戦争が起きない世界はありえないとしても、せめて、自分とその子どもが生きている時代くらいは、平和であってほしいと願っていますし、そのために必要な戦略について、憲法の改正も含めて、お互いに歩み寄って議論しても良いと思っています。


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永遠の0 (講談社文庫)

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