- 作者:野口 悠紀雄
- 発売日: 2020/03/26
- メディア: 新書
Kindle版もあります。
内容紹介
「最近、本の質が落ちた」と感じる人が多いと聞く。無類の読書家であり経済学者の著者は、そんな人にこそ「古典を強くすすめる」という。「古典に新しい情報はない」と思うのは早計だ。組織のメカニズムを知りたければトルストイの『戦争と平和』、人を説得する術を知りたければシェイクスピアの『マクベス』。人が作った組織や人間の心理は昔から基本的に変わっておらず、トルストイやシェイクスピアといった洞察力を持った作家が書いたものは、現代人に多くのことを示唆するのだ。著者が推薦する本を読めば、そのめくるめく世界観に心浮き立つだけでなく、仕事で役立つ知識も身につくこと、請け合い!
聖書、トルストイ、シェイクスピア、ゲーテ……
この新書では、著者が触れてきた、いまの時代にも読み継がれている古典的名作が紹介されています。
読みながら、村上春樹さんの『ノルウェイの森』の登場人物、「死後30年以上経った作家の本しか読まない」永沢さんのことを思い出していたのです。
僕も古典に興味はあるのだけれど、いざ手に取っても、けっこう読みにくいんだよなあ、長いし。正直、「面白い」とは言い難い作品も多い。
著者は「古典」を読むメリットについて、こう言っています。
いま多数刊行されている経営書やノウハウ書に比べて、古典のほうが遥かに有用な知識を教えてくれます。
例えば、第1章で述べるように、聖書は、説得術の最高の教科書です。
「組織がどのように動いているのか」のメカニズムを知りたいのであれば、経営学の本を読むよりは、第2章で取り上げるトルストイの『戦争と平和』を読むほうが、ずっと効率的です。
人を操る術策を知りたいのであれば、第3章で紹介するシェイクスピアの『マクベス』を開き、魔女たちがどうように巧みにマクベスを誘導したかを見ることです。人間操縦法という触れ込みで書かれている本を100冊読むよりも、遥かに効率的でしょう。
もちろん、昔書かれた本には、スマートフォンやインターネットをどう使うかという類のことは、書いてありません。そうしたことについては、いまの時代に発行されている書籍を読むしか方法はありません。
しかし、それ以外のことについて言えば、人間の心理や人間が作った組織は昔と基本的に変わっていないのですから、トルストイやシェイクスピアのような洞察力を持った人が書いたものを読むほうが効率がよいことは、明らかなのです。こうした本は、未来の社会においても生き続けるでしょう。
ひとりの人間の体験に基づくものや、あまりに具体的なノウハウ本というのは、時代が変われば応用が利かなくなりがちなのです。
読み継がれてきた文学作品は、「役に立つ」と言われているものではなくても、多くの人が「人間というものを知る」あるいは「共感できる」というものだったと考えられます。
人は、基本的に「面白い」か「役に立つ」本しか読まないものですし。
ただ、著者はこれらの古典を鵜呑みにするだけではなくて、ツッコミを入れながら読んでもいるのです。
(新訳)聖書について、著者は「イエス・キリストは人類史上で最強の説得者」としており、その「説得術」を学ぶテキストになる、と述べています。キリストは比喩の名手だ、とも。
聖書の比喩の中で最も有名なのは、「種蒔く人」でしょう(マタイ伝、第13章、4‐9)。
これは、ミレーやゴッホが絵画で描いていますし、岩波書店のマークにもなっています。
ここでイエスは、布教活動を麦の種を蒔くことに譬(たと)えて、「路の傍らに落ちた種は、鳥が食べてしまう。石の地に落ちた種は、芽が出るけれども枯れる。よい土地に落ちた種は、実って何十倍にもなる」と言います。
イエスが弟子たちに解説したところでは、これはつぎのような意味です。
路の傍らに落ちた種とは、悪い人が来て、信仰を邪魔する場合です。石の地に落ちた種は、教えを聞いたときには喜ぶが、身に災いなどが生じるとすぐに信仰が潰えてしまう場合です。そして、よい土地に落ちた種とは、教えを聞いて悟り、信仰が育つ場合です。
この比喩も効果的です。
仮に、「信仰が挫折する場合もある」と抽象的に言われただけであれば、「ああそうか」と聞き流されてしまったことでしょう。
しかし、「鳥に食べられる」とか「折角芽が出たのに、途中で枯れてしまう」と具体的なイメージを示されたので、弟子たちはその様子を想像することができました。そして、「何と残念なことだろう」と感じ、「そうなりたくない」と心を固めたのです。ここで、つぎの点に注意してください。
それは、「信仰と麦をなぜ同一視してよいのかは、説明されていない」ということです。
「屁理屈」と思われるでしょうが、つぎのように考えてみましょう。
仮に信仰が、麦のように有用なものではなく、雑草のように有害なものであるとしましょう。そうであれば、鳥に食べられたり、石の地に落ちて枯れてしまうのは、むしろ望ましいことだと言えるでしょう。
「信仰を育てるのは重要だ。途中で枯らしてはならない」という結論は、「信仰は麦のように有用」ということを認めるからこそ、導かれるものなのです。
では、なぜ「信仰は麦のように有用なもの」なのでしょうか?
このことは、説明されていません。
最も重要なポイントは、「信仰は麦のように有用なものである」のか、それとも、「信仰は雑草のように有害なものである」のか、ということなのです。
それにもかかわらず、イエスは、証明なしに「信仰は麦のように有用なものである」と仮定して話を進めているだけなのです。
つまり、「なぜ信仰は有用なのでしょうか?」という最も重要な問いに対して、イエスは何も語っていないのです。「有用であると信ぜよ」と言っているだけです。
したがって、「種蒔く人」の譬えは、よくよく考えてみれば、錯覚を利用したトリックです。
著者は、「これは『種蒔く人』にかぎったことではなく、どんな比喩も、程度の差こそあれ、同じ性質を持っています」とも述べています。
こういう見方ができるのも、著者や僕がキリスト教を信仰していないから、なのかもしれませんが。
敬虔な信者であれば「神を試してはいけない」で済んでしまうのでしょうし。
まあ、揚げ足取りっぽい感じではありますが、うまい比喩のおかげで、多くの人は「信仰は有用なものである」という前提を疑うことに気付かなかった、ということなのでしょう。
古典に対しても、鵜呑みにするのではなく、現代的な批評を加えていくのは、悪いことではありません。
むしろ、ちゃんと書いてあることを読もうとしすぎるから、読み辛くなってしまうような気がします。
トルストイは、ナポレオンとクトゥーゾフという2人の指揮官を、対照的な人物として描写しています。
ナポレオンは戦場を精力的に巡視し、地形を観察して周到に戦闘計画を練ります。八月二十五日をナポレオンは終日、馬上ですごし、地形を観察したり、元帥たちの提出する計画を審議したり、将軍たちに自ら命令を授けたりしていた。
(『世界文学大系 第39』中村融訳、筑摩書房、1959年、第3編、第2部、27)
ロシアの歴史家さえ、彼を偉大な指導者、天才的な戦争指揮官と評価せざるをえません。
しかし、トルストイによれば、ナポレオンの天才的な作戦指令は、戦場において一つとして実行に移されることはありませんでした。その指令は一つとして実行されるはずもなく、また現に実行されなかった。
トルストイは、この言葉を何度も繰り返し、その理由を詳細に説明しています。
なぜ実行されるはずはないのか?
それは、60万人とも言われる巨大な軍勢を率いたナポレオンの本営は、終始戦場から遠くに位置していたため、いかにナポレオンが精力的に巡視して地形を観察したところで、その時々のリアルな戦況は知りえなかったからです。
そして、現実の戦闘の結果は、戦闘に参加する個々の兵士たちの瞬間ごとの判断によって決まるからです。ロシアの総指揮官クトゥーゾフ将軍は、作戦会議で居眠りしてしまうほどの老いぼれで、皇帝のおぼえも将官の評判も芳しくありません。
歴史家も彼を評価しません。しかし、戦争全体の運動法則を正しく把握していたのは、彼だけだったのです。
周囲のすべての将軍たちの意見に反して、ボロジノ戦は勝利であり、モスクワを失ってもロシアを失ったことにはならないと確言しました。
そして、フランス軍が退却しつつあったとき、彼一人だけが、決して追撃してはならぬと主張しました。クトゥーゾフだけが、歴史法則を正しく洞察しえたのです。これから分かるのは、沢山の情報を持っているからといって、事態の本質を正確に評価できるとはかぎらないことです。
重要なのは、大量の情報ではなく、背後にある運動法則を正しく把握できるかどうかなのです。
目先の情報に踊らされてはいけない、というのは、実感としてわかるのです。
でも、こういう「運動法則を把握できるようになるには、どうしたら良いのか?」という問いには、明確な答えはないんですよね。それこそ「センス」とか「才能」としか言いようがない。ナポレオンも、そういう「センス」を持っていた人だと思うけれど、長い戦いと立場の変化によって、それが鈍ってしまった。
本を読めば読むほど「人間の力では、どうしようもないことがある」とか、「最後は運なのかな」と僕は思うことが多くなりました。
まあでも、そういう人生観の構築への影響も含めて、古典というのは読んでおいて損はないと思います。