琥珀色の戯言

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【読書感想】無理難題が多すぎる ☆☆☆

無理難題が多すぎる (文春文庫)

無理難題が多すぎる (文春文庫)


Kindle版もあります。

無理難題が多すぎる (文春文庫)

無理難題が多すぎる (文春文庫)

内容紹介
週刊文春の好評連載エッセイ「ツチヤの口車」をまとめた一冊。「妻になる!」「老人の生きる道」など笑い渦巻く60篇。
内容(「BOOK」データベースより)


「ぼっち席」、「幸福に目もくれない生き方」、「老人の生きる道」、「善人になる方法」、「運転免許の更新」、「住み心地の問題」、「よくわからない野球解説」、「矛盾との闘い方」など、今日もツチヤ教授のまわりには、一筋縄ではいかない無理難題がいっぱい!読めばたちまち問題解決するかも!?な傑作ユーモア・エッセイ。


 土屋先生のエッセイ、けっこう前から、年に1回くらい、思い出しては手に取っている、という感じなんですよね。
 飄々としていながらも、風刺や奥様へのまわりくどい愛情が詰まった珠玉のエッセイ集……なのですが、僕は正直、土屋先生のエッセイは文庫本でまとめて読むと、飽きてくるのです。
 週刊誌の連載として、いろんな記事のなかの気分転換にするには良いのだけれど、これだけを読み続けていると、「ああ、またこのパターンか……」と言いたくなってきます。
 「愛妻イジリ」も、これだけ頻繁だと、かえって、「まあ、ネタにできるくらい仲良しでラッキーですね」という気分になるのだよなあ。

 女は「超論理法」を使う。 どんな乱暴な男でも論理は守る。「おれは乱暴だから乱暴ではない」などと考えることはない。だが女ははるかに乱暴だ。論理を無視するのだから。
 男も論理を破ることはあるが、意識的に破るわけではない。たとえば若い男が「親の束縛から逃れたくてね、一人暮らしを始めるつもりで実家を出たんだけど、彼女と別々に暮らすのももったいないと思って結婚しちゃった」とうれしそうに話す場合、束縛を逃れようとしてさらに強く束縛されていることに気づいていないだけなのだ。
 女は意識的に論理を無視する。フライパンを買って帰る女が一緒にいる男に「このフライパン、重いからもってくれない?」と言い、男が「おれは両手に重い荷物をもってるんだ。お前はフライパンしかもってないじゃないか」と抗議すると、「大丈夫、風船みたいに軽いから」と答えて男にもたせる。
 お茶をいれるのは妻の分担だ。お茶を頼むと、妻はテレビを見ながら、「いまお茶をいれる気にならないから自分でやってよ。やる気にならないことはだれにもあるでしょう? 郵便を出してくれ? それはあなたの仕事でしょう。自分の仕事は何があっても責任をもってやりなさいよ。どうせ暇なんでしょ。忙しいの? 忙しいときって仕事が一つ増えても負担に感じないものなのよ。なーんだ、テレビが見たいの? 忙しいと言ったり暇だと言ったり論理を無視しないでよ。テレビを見る暇があるなら郵便物ぐらい出しなさいよ。テレビの前で動かずにいるより、郵便局まで歩けば身体にいいのよ。第一、このテレビ番組なんてちっとも面白くないんだから。何、熱があるの? 三十七度? 大丈夫。大事にしているとよけい悪くなるわよ。わたしもこの前六度七分あったから出前のピザを食べて寝込んでいたら、よけい悪くなっちゃった」と言ってテレビを見続ける。
 そこへゴキブリが出ると、女は飛び上がる。「早く! 何とかしてよ。怖いんだから。何? あなたも怖いの? どこが怖いのよ。ゴキブリは毒も何もないんだから大丈夫、安全だから」


 たぶん、こういうエッセイって、20年、せめて10年前であれば、「面白い!ほんと女ってこうだものなあ!」あるいは、「『悪妻と結婚したから哲学者になった』というソクラテスへのオマージュみたいな感じだな」と、男性のひとりとして楽しく読めたのではないかと思うのです。
 でも、いま、2020年に読むと(ちなみにこの文庫が出たのは2016年)、「よくこんな『女性様への悪口』が書けたなあ。まあ、いま70歳を越えた土屋先生に、そんなことを言ってもどうしようもないか」という気持ちになってしまうんですよね。
 2020年は、男であることも、けっこうめんどくさい。

 現実に脅迫罪や恐喝罪の罪に問われる者が多いのが不思議である。ちょっと考えると、脅迫罪で訴えられても、次のように釈明できそうな気がする。
「たしかにわたしは<金を出さなきゃ命がないぞ>と言いましたが、金を出しても出さなくても人間の命はいつかなくなるという事実を指摘しただけです。<お前がいま連れている女の命も保証できない>と言ったのも、他人の命の保証はだれにもできないという事実を述べたにすぎません。<オレの言う通りにしないとどうなるか分かってるのか>とも言いましたが、言う通りにしなければわたしが逃げるつもりでいることを知っているのかを質問しただけです。<お前の家族の身に何が起こっても知らないからな>と言いましたが、どんな家族がいるのかも知らないのだから何が起こるかを知りようがありません。<この前オレに逆らったやつはいまだに入院中だ>と言ったのは、以前、議論で対立していた相手が病気で入院していることを客観的に述べただけです。<オレがこれまでに奪った命は一つや二つじゃない>とも言いましたが、蚊やゴキブリを何匹も殺したのは事実です。<ムショから出てきたばかりだ>と言ったのは、税務署からの帰りだったからです。<オレのバックにはコワイのがいる>とも言いましたが、うちのコワイ妻にいつ後ろから攻撃されるか分からないという不安を打ち明けたにすぎません。いけなかったでしょうか」
 こんな弁明が通用したら脅迫罪も恐喝罪も成り立たなくなるだろう(なぜ通用しないのか疑問は残るが)。


 もちろん、土屋先生はこんな弁明が通用するとは思っておらず、思考実験として書いておられる(と思う)のですが、これを読むと、哲学者というのが、一部の人に尊敬されるのと同時に、世間の人々に疎まれるのがわかるような気がします。そりゃ、ソクラテスも嫌われるよなあ。

 きっと、こういうエッセイを読んで、フフッ、とか笑っていられるのがユーモアのわかる大人の男ってやつなんだろうな、と思いつつ読みました。


日々是口実 (文春文庫)

日々是口実 (文春文庫)

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