- 作者: 田川建三ほか
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2014/08/11
- メディア: 新書
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Kindle版もあります。
- 作者: 田川建三ほか
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2015/02/20
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内容紹介
なるほど。そう読めばいいのか!
「史上最大のベストセラー」には、なにが書かれているのか。聖書学者や作家、批評家らがその魅力や勘所を語る。
「新約聖書の個人全訳」という偉業に挑む聖書学者・田川建三が、その格闘の歴史を語った貴重なインタビュー、池澤夏樹、橋本治、内田樹、吉本隆明ら、作家や批評家がひもとく文学や思想との関係など、すぐれた読み手たちの導きによって、もう一歩聖書に近づけば、2000年以上にわたって生きながらえてきた力強い言葉の数々に出会うことができる。「何となく苦手」と思っている人にこそ読んでほしい聖書入門。
大好評だった「考える人」2010年春号特集「はじめて読む聖書」、待望の新書化!
【目次より】
誰がどのように読んできたのか――松家仁之
I 聖書ってどんな本?――山形孝夫
II 読み終えることのない本――池澤夏樹
III 旧約聖書は意外に新しかった――秋吉輝雄
IV レヴィナスを通して読む「旧約聖書」――内田樹
V 神を信じないクリスチャン――田川建三
VI 聖書学という科学――山我哲雄
VII 旧約的なものと新約的なもの――橋本治
VIII マタイ伝を読んだ頃――吉本隆明
IX 聖書を読むための本 山本貴光
この新書のタイトルをみて、「ああ、『聖書』の内容が、かいつまんでまとめられている新書なのだな」と思ったのですが、読んでみると、「聖書そのものの入門書」ではなくて、ちょっと戸惑ってしまいました。
これ、もともとは『考える人』という雑誌で、聖書の研究をしたり、聖書についての文章を書いている人たちが、それぞれ「自分からみた『聖書』」を語った特集を新書化したものなのだそうです。
「聖書の内容そのものの入門書」というよりは、この人たちは、どのようにして「聖書」に興味を持ち、長くつきあっていくことにしたのか、を知るための本なんですよね。
出てくる人たちは、あくまでも「聖書の研究者」的なスタンスであり、聖書の内容にとにかく従う、という信仰のしかたとは、ちがっているのです。
疑ったり、ツッコミを入れたりしながらも、「聖書」を大切なものと考え、自分の人生の基盤としている人々。
なぜ、この日本に生まれて、「聖書」に興味を持ったり、研究の対象にしたりするのだろう?
僕は「そういう人たち」のことが、けっこう疑問だったんですよ。
もちろん、いろんなものに惹かれる人がいるのは、事実なんですけど。
でも、実際に「ハマってしまった人たち」の話を聞いていると、きっかけは千差万別なのですが、「聖書」という本には確かに魅力があるし、信仰を持つというのは、特別なことではないな、と考えさせられます。
松家仁之さんは、こう仰っています。
たったいまのわたしたちの日常的実感は、宗教的なものからはるかに遠ざかって生きている、というものではないか。しかし、ほんとうにそうだろうか。
近年、つぎつぎと出版され、読者の数を増やしているのは、「このようにすれば、こうできます」という自己啓発本である。80年代前半のアメリカで「セルフヘルプ」本、すなわち自己啓発本が大流行となっていることを知った当時、どこまで本気なのかと奇異な印象を持った。しかし気がつけば90年代後半あたりから、日本の書店にも自己啓発本の波が押し寄せ、それは増えてゆくばかりに見える。
非宗教的に生きていると思いながら、「基本的に命令の言葉で綴られている」自己啓発本をいわば宗教の代用品として無意識に求めている、ということはないだろうか。だとすれば、宗教に似て非なる、お手軽な「命令」を読み、やがてあとかたもなく忘れてしまうよりは、二千年ものあいだ生きながらえ、くりかえし読まれてきた言葉がならぶ聖書を、時間をかけじっくり読んでみたい。あらためてそう思う。
僕自身も、子どもの頃、夕方に放映されていた聖書のエピソードのアニメなどを観て「なんか宗教くさいなあ」(宗教なんですけどね)と敬遠していたのですけど、こうして年を重ねてくると、キリスト教でいえば、2000年ものあいだ、多くの人々の規律となった「聖書」というものの存在感について考えずにはいれれませんし、信じる、信じないはさておき、一度はちゃんと読んでおくべきなのではないか、と思うようになりました。
40過ぎて、というのは、ちょっと遅すぎた感はありますが。
でも、この「聖書にはどんなことが書かれているか」というのは、欧米の多くの小説や映画などを読み解くための、基礎知識でもあるんですよね。
自己啓発本は、確かに「お手軽」だし、怪しげなセミナーにハマったりしなければ、コストもある種の新興宗教に貢ぐよりははるかに安いと思うのだけれど、その一方で、自己啓発本で、死の苦しみから救われる、ということはないのです。
この新書のなかで、最も面白かったのは「神を信じないクリスチャン」田川健三さんのお話でした。
よりによって、国際基督教大学で、「キリスト教に対してとことん批判的」でありながら、聖書学を教えていたり(結局、学生運動への関与などもあって、クビになってしまったそうなのですが)、アフリカのザイール(現コンゴ)の大学に誘われ、教鞭をとったり。
ザイールで、「偉人」のはずのシュヴァイツァーの名前を講義で引き合いに出すと、教室中「アンペリアリスト!」(帝国主義者)の大合唱になったという話には、驚きました。
西欧的な視点からみた世界が、かならずしも、唯一の「正解」ではないのです。
インタビュアー:クリスチャンというのは何をもってクリスチャンというのか。資格の問題ではないわけでしょうから。洗礼を受けるということを少しわきに置くと、そのへんに私たちにはよくわからない部分があります。神は存在しないと考えているキリスト教徒があり得るんですか。
田川健三:私はあり得ると思います。あり得るというより、それが立派なクリスチャンだと思っています。まわりにクリスチャンがいらっしゃったら、一人一人お聞きになってみればすぐにわかりますよ。この人が考えている神様とあの人が考えている神様は全然違うということが。つまり神とはそれぞれの人間が勝手にでっちあげるイメージです。それだったらむしろ、神なんぞ存在しないと言い切る方がクリスチャンらしいじゃないですか。我々はもうそういう人間がでっちあげた神を信じる宗教信仰に頼るのはよした方がいい。それをやめたからってキリスト教が二千年間培ってきたものが全部消しとんでしまうわけじゃありません。彼らが古代人、中世人であった時には、神を信仰するのが当たり前な世界だった。しかし神を信じるという形式の中であっても、彼らが作ってきたものが実に豊かにあるじゃないですか。これに目を向けてもらいたい。これを十分に評価し、みずからのうちに受け取っていくことの方がキリスト教をよく継承する道だ、ということを書いたのが『キリスト教思想への招待』(勁草書房)です。
インタビュアー:あのご本を読んで、キリスト教思想へのすごい入門書だと思いました。初めのほうで、田川さんは創造信仰に触れています。大地に種を蒔いて、あとは夜昼、寝たり起きたりしている。そうすると人が知らぬ間に種は芽を出し、生長し、この大地におのずと実を結び、やがて収穫の時がくる。この世界は恐ろしいほど合理的ではないか。人間はこの精緻に合理的な世界のなかで生かされている存在である。人間は自分で自分を造ったわけではないし、この合理的な世界を造ったわけでもない。神など存在しなくても、人間が被造物であるのはたしかなことではないか。そういう考え方が、第一章の中核にありました。しかし、そうなると、神はこの不可思議にも合理的な世界を造ったものとして、ついすぐ先に存在しているのではないか、私にとっては、その思想が一番感動的でした。
万人にとって共通の「神」みたいなものは存在しないのかもしれない。
その一方で、人間という存在の成り立ちを考えると「神みたいなもの」がいるのは、当然なことなのではないか。
これは、もしかしたら、「自然科学への信仰」みたいなものなのだろうか。
正直、僕にはうまく言葉にできないのです。
でも、「そういうふうに考えると、神みたいなものは、たしかに、存在するのかもしれないな」と思えてくるのです。
それは、「かたち」にできるようなものではないのだとしても。
この本のなかでは、さまざまな人が、自分にとっての「神様」の解釈みたいなものについて語っておられますし、「聖書という書物の歴史」を研究しつづけている人の話も出てきます。
「聖書」ほど、多くの人に読み継がれ、翻訳され、解釈されつづけている本って、他にはありませんしね。
内田樹先生の、師匠であるレヴィナスの「神」についての解釈の説明も、興味深いものでした。
神は、幼児にとっての親のように、つきっきりで人間のそばにいて、人間たちの正しい行いにはいちいち報償を与え、誤った行いにはいちいち罰を下すのでなければ、ことの理非も正邪の区別もつかないような人間しか創造しえなかった――そう言い立てる者は、神をはじめから信じていないのである。
神は、神の支援ぬきで、自力で、弱者を救い、病者をいたわり、愛し合うことができ、正義を実現できるような、そのような可能性を持つものとして、われわれ人間を創造した。だから、人間が人間に対して犯した罪は、人間によってしか贖うことができない。神は人間にそのような霊的成熟を要求するのである、と。レヴィナスはそう告げたのでした。
「人間がちゃんとすることが、神の存在証明になる」なるほどねえ……と。
この新書を読んでいると、本当に「みんな、それぞれ違う神をもっている」ということを思い知らされます。
「聖書」そのものがわかるようになる本ではありませんが、「聖書」を読んできた人々の内心がうかがえる、そんな内容です。