日清戦争に始まり、アジア太平洋戦争の敗北で終わった帝国日本。日中開戦以降、戦いは泥沼化し、国力を総動員するため、政府・軍部・報道界は帝国の全面勝利をうたい、プロパガンダ(政治宣伝)を繰り広げた。宣伝戦はどのように先鋭化したか。なぜ国民は報道に熱狂し、戦争を支持し続けたのか。錦絵、風刺画、絵葉書、戦況写真、軍事映画など、戦争熱を喚起したビジュアル・メディアから、帝国日本のプロパガンダ史を描きだす。
「帝国日本のプロパガンダ」といえば、太平洋戦争時の「大本営発表」を思い出します。
軍部の暴走によってはじまった太平洋戦争で、戦況が悪化するにつれて、大本営は国民に「嘘の戦勝報告」を行ない、「敗走」を「転進」、「全滅」を「玉砕」と言い換えるようになっていったのです。
「大本営発表」に関しては、上記の本に詳述されているのですが、この『帝国日本のプロパガンダ』でも、陸軍と海軍の連携不足もあり、「大本営発表」では沈んだはずの敵艦があらわれて、現地の部隊が狼狽した、という事例が紹介されています。
この『帝国日本のプロパガンダ』では、太平洋戦争中の「戦意高揚(あるいは、戦意低下を防ぐ)ための虚偽のメディアからの発信」に至るまでの歴史的な経緯が、1894年に起こった日清戦争から経時的に語られています。
なぜ帝国日本はプロパガンダにとりつかれ、「戦争熱」を持ちつづけたのか。国内外への印象操作は、どのようにおこなわれたのか。手がかりとなるのは、19世紀末に始まったビジュアルな報道である。
近代日本の歴史をひもとくと、幕末にはすでにビジュアルな報道が誕生していた。知られているのは、かわら版や錦絵、さらには歌舞伎など大衆芸能をとおしてである。とりわけ木版刷りの印刷メディアは、庶民が好んで求めた情報源であった。
つづく明治時代に発展を見せたのは、石版印刷(リトグラフ)やコロタイプ印刷などの印刷技術である。特筆すべきは、日清戦争期(1984~95年)に巻き起こった錦絵のリバイバルブーム。極彩色の錦絵に描かれた戦争報道は、石版印刷によって大量印刷が可能となり、国民に鮮烈なイメージを植えつけるとともに、「戦争熱」を煽るきっかけとなる。そして、日露戦争期(1904~05年)に登場した写真は、銅板写真製版(フォトエッチング)などの技術が用いられ、さらに第一次世界大戦期(1914~18年)に、新聞や雑誌、絵葉書、幻灯機に利用されるようになり、主要なビジュアル・メディアとしての地位を築いた。
もうひとつ忘れてはならないニューメディアが活動写真=映画である。20世紀初めに映画館の建設ブームを迎え、全国に普及していった。1930年代に活動写真は、音声と融合したトーキー・フィルムとして生まれかわり、庶民の最大の娯楽となる。映像と音声が醸し出す臨場感と娯楽性は、それまでのメディアとは比ぶべくもないものであった。日中戦争期、国民はニュース映画や軍事映画に酔いしれ、政府や軍部が推進する国家プロパガンダによって、総動員体制、とりわけ徴兵制や軍需動員を受け入れていく。
むろん、プロパガンダによる世論操作は日本だけの特技ではない。本書では、各国のプロパガンダ術とビジュアル・メディアが果たした役割も演じている。おもに帝国日本と対峙した中国(清、中華民国)、ロシア、米国のビジュアル・メディアである。
錦絵、新聞、写真、映画など、「市民の娯楽や情報拡散の手段」は、「戦争」によって技術的に進歩し、世の中に広まっていった面が確実にあるのです。
「プロパガンダ」には「国や公権力からの強制」というイメージがあるのですが、実際には、戦況を採りあげたり、自国の勝利を報じたほうが売れる、というメディア側の自発的なものが多かったこともわかります。
大日本帝国だけがプロパガンダを積極的に行っていたわけではなく、日清戦争後のフランス、ドイツ、ロシアの「三国干渉」には、日本を危険視する「黄禍論」の影響があったとされ、それを受けて日本でも「メディア戦略=プロパガンダ」の研究が盛んになったのです。
(日露戦争で)軍部が講じたプロパガンダ戦略に呼応したのは新聞や雑誌といったメディアであった。日露双方とも、自らの戦略の失敗を示さず、「戦勝」を讃えるというプロパガンダ情報を流すことで世論を操作した。この時期の新聞社は、検閲によってではなく、自らが忖度して情報を流していた。こうした手法は、その後も長く踏襲されていく。
著者は、ロシア側のプロパガンダについても、当時の史料を示しています。
この本の魅力は、当時の絵や写真などの「ビジュアルでわかるプロパガンダ」がたくさん紹介されており、それが日本のものだけではない、ということなのです。
ただ振り返ってみれば、日常空間のなかに戦争イメージを浸透させ、無意識に敵、味方相反する感情を醸し出すプロパガンダ術は、1900年代から始まっていたといえるのかもしれない。日露戦争期には、すでに米国のみならず、フランス、ドイツでも、チョコレート、タバコ、ココア、粉洗剤などの日用品のおまけとして、戦争を図案にした教育カードやトレード・カードが同封されていた。こうしたカード収集熱は、欧米で急速に広まり、見知らぬ地の戦争を身近に感じる効果を醸し出したといわれる。日本の絵葉書ブームより、少し前の出来事であった。
ともあれ、1910年代末に登場した米国のプロパガンダ戦略と技術は、1920年代以降、イギリス、ドイツ、ソ連でも実践され、次第に世界各国に広がっていき、やがて第二次世界大戦で「開花」することになる。
国民は、イギリスとともに戦った(第一次世界大戦の)日独戦争をどのように見ていたのだろうか。じつは、経済の回復や領土の拡張は、政府のみならず国民の側も心から期待していたことであった。新聞社は、世論に沿うかたちで競って報道合戦を展開し、出版界もこれに呼応。戦争を煽ったほうが、新聞も出版物もよく売れたからである。こうして報道界はビジネス化し、戦意高揚をはかるプロパガンダのシステムが形成されていく。その引き金としての役割を果たしたのが、ほかならぬ新聞や雑誌に掲載された戦況写真であった。
戦争を煽ったほうが「売れる」し、戦況の写真をなるべく早く掲載したほうが「売れる」。
マスメディアも「商売」なんですよね。お金や視聴率がすべて、ではないのかもしれないけれど、自らが食い詰めてまで「正確な報道」を貫くのは難しいのです。国民も、「正しいけれど面白くないニュース」よりも、「より刺激的で、感情を揺さぶられるニュース」にお金を出しやすい。
では満州事変は、帝国日本の報道界にいかなる影響をもたらしたのか、いま少し掘り下げていきたい。
大阪朝日の編集局長であった高原操などは、事変勃発までは普通選挙実施、軍縮キャンペーンの先頭に立ち、関東軍の拡大をくいとめようとしていた。しかし、高原は満州事変を契機に起こった朝日不買運動に直面して危機感を高め、事変後の1931年10月1日に社説「満蒙の独立、成功せば極東平和の新保障」を発表する(後藤1987)。この社説は、満州に暮らす日本人の苦しみを軽減するためには独立運動を支援し、満州という緩衝国を設置するほかないという論調であり、もとより関東軍の意向に沿うものであった。
朝日はそれまで、中国ナショナリズムを積極的に肯定し、また満州は中国の一部であるという認識に立っていた。そのいずれも捨て去り、軍部の行動を追認し、中国から満州の分離独立を容認する論調に転換したのである。さらに、10月12日の経営陣による会議では、こうした論調に即して、「社論を統一して国論を作る大方針」が決定された。こうして、満州事変を境に朝日創刊以来の社説が、軍部追従の社諭に大転換することになった。
その背景には、1920年代末に朝日の国内販売市場が頭打ち状態になっていたことがある。販売部数拡大のために、朝鮮や満州という新天地に目を転じたわけである。
この「社論の大転換」によって、朝日新聞の部数は飛躍的に伸びていったのです。
2022年から振り返ってみると、「カネのために公正な報道を投げ出してしまったのか」と思うのですが、多くの社員を抱えた新聞社にとっては、生き延びるためには、「中立・公正な報道」なんて言ってはいられなかった、という事情もあったのでしょう。
朝日新聞が信念を貫いたとしたら、単に潰れていただけかもしれないし、後世からその気骨を評価されていた可能性もあります。
メディアというのは、いつの時代も「経営」と無縁ではいられない、ということは、知っておくべきなのでしょう。規模が大きくなればなるほど、理想主義を貫くのは難しくなるのです。
現在、2022年には、インターネットによって、「マスメディアの嘘や傲慢」が暴かれるようになっています。
その一方で、「現場の一市民の肉声」のフリをして、インターネット経由で世論を動かそうとするプロパガンダも一般的なものになっているのです。
結局のところ、人が「情報」を得ることに快楽を抱ける生きものであるかぎり、プロパガンダが無くなることはないし、手法もその時代に適応したものになっていくだけなのです。
こんなものに騙されてはいけない、と言うのは簡単だけれど、「絶対に騙されない」というのは至難だし、みんながプロパガンダに踊らされているなかで、ひとりだけ「それは違う」と反論することが、その人の(少なくとも短期的な)幸福や生きやすさにつながるとも思えないんですよね……