琥珀色の戯言

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アニメ作家としての手塚治虫―その軌跡と本質 ☆☆☆☆

アニメ作家としての手塚治虫―その軌跡と本質

アニメ作家としての手塚治虫―その軌跡と本質

参考リンク:津堅信之『アニメ作家としての手塚治虫』(by 夏目房之介の「で」?(07/4/29))

「アニメが作りたいからマンガを書いている」とまで言った手塚治虫
彼が日本のアニメーションに与えた影響を豊富なインタビューを交え、総合的な視点からとらえなおす。

第1章 アニメへの開眼―手塚治虫の出発点
第2章 虫プロ設立まで
第3章 『鉄腕アトム』の背景
第4章 実験アニメーションの成果
第5章 手塚アニメの語られ方
第6章 大衆か実験か
第7章 手塚アニメとは何だったのか
手塚が日本のアニメーションに与えた影響とは? その功罪を改めて評価する。

この本にも引用されているのですが、手塚さんが亡くなられた1989年に、宮崎駿監督が、

「アニメーションに対して彼(手塚治虫)がやった事は何も評価できない。虫プロの仕事も、ぼくは好きじゃない。好きじゃないだけでなくおかしいと思います」
「昭和38年に彼は、1本50万円という安価で日本初のテレビアニメ『鉄腕アトム』を始めました。その前例のおかげで、以来アニメの製作費が常に安いという弊害が生まれました。それ自体は不幸のはじまりではあったけれど、日本が経済成長を遂げていく過程でテレビアニメーションはいつか始まる運命にあったと思います。引き金を引いたのが、たまたま手塚さんだっただけです。ただ、あの時期彼がやらなければあと2、3年は遅れたかもしれない。そしたら、ぼくはもう少し腰を据えて昔のやり方の長編アニメーションの現場でやることができたと思うんです」

と、「手塚アニメ批判」をされてから、手塚治虫という人は、「日本のアニメーション関係者を貧乏にした元凶」のように言われ続けてきましたし、僕もそういうイメージを持っていたのです。
 手塚治虫は、自分の理想のために、たくさんの人を犠牲にしてきたのだ、と。

 しかしながら、この本を読んでみると、確かに、手塚治虫がアニメの『鉄腕アトム』を安売りしていたのは事実なのですが、その一方で、手塚さんは「アトム」によるキャラクタービジネスなどで、それなりに収支は合わせているんですよね、全体としては。それに、著者や参考リンクでの夏目さんもおっしゃっているのですが、「待遇」の問題を手塚さんひとりの責任にしてしまうのは、あまりに理不尽なことなのです。そもそも、手塚治虫以後にも、待遇改善の機会はあったのでしょうし、この問題に関しては、宮崎駿監督自身だって、むしろ「批判されるべき立場」でしょう。
 ただ、手塚治虫という人は、「最高のマンガ家」であった一方で、「経営者としては問題があった」のも事実で、「自分の苦手なことは人に任せる」ことができないタイプの人だったというのは、「不幸のはじまり」ではあったのでしょうけど。

 僕はこれを読んで、『鉄腕アトム』が、「国産初の帯番組のテレビアニメーション」として賞賛されている一方で、毎週放送するために、「アニメーションとしてのクオリティ」をかなり犠牲にしていた面があった、というのをはじめて知りました。コストや時間削減のために動画の枚数を減らしたり、キャラクターの「動き」そのものを少なくしたり、「使いまわし」と積極的に行っていったり……
 こういう作品をみせられることは、宮崎駿監督のような「キャラクターの動きにこだわってこそのアニメ」という人たちにとって、ものすごく歯がゆかったに違いありません。そんな「手抜き作品」が「初の国産アニメーション」として認知されてしまったがために、質という点では、日本のアニメのスタート地点は、かなり低いところからになってしまったのでしょう。ちなみに、『鉄腕アトム』以前にも、海外のアニメーション作品は日本のテレビでいくつも放送されていたそうです。それもこの本を読んではじめて知りました。

 ただ、手塚治虫が日本のアニメーションに残した功績は非常に大きなものである、ということだけは、まぎれもない事実ではあるんですよね。いろいろ問題点はあったものの、「誰かがやらなければ、はじまらなかったこと」であるのは間違いないのだし。

 この本については、正直、著者が自分の「斬新な結論」にこだわるあまり、せっかくの資料を捻って解釈しすぎているのではないか?と思うところもあるのです。

東映動画の『西遊記』において、手塚がストーリーボードを多用するディズニー的なスタイルをとろうとしたのは、それが「東洋のディズニー」を標榜する東映動画の傘の下での仕事だからであって、手塚のアニメーションにおける本質的な志向によるものではなかったのではないだろうか。

 なんていうのは、「本質的な志向」云々ではなくて、手塚さんはディズニーの仕事ぶりをどこかで知って、単に自分でも同じようにやってみたかっただけじゃないかと思うのですよ。手塚治虫という人は、やっぱりディズニーが好きで、でも、今の自分が置かれている状況ではディズニーに勝てないことを悟っていて、それで「自分がいちばんになれるところ」を目指して、「実験アニメーション」をやったりしていたのではないかと。普通の商業アニメーションでディズニーに勝てそうだったら、手塚治虫という人は、そちらを志向していたような気がするのです。

 ちょっと値が張る本なのですが、「権威」であるがゆえに一方的な批判の対象にされてきた「手塚アニメ」についての非常に興味深い研究書として、手塚治虫ファン、アニメファンには、ぜひご一読をおすすめします。宮崎駿サイドから「手塚治虫の罪」を語りがちな、「ジブリファン」にもぜひ。
 僕はこれを読みながら、宮崎駿監督も、将来、「アニメーションをやたらと大掛かりなもの、教育的なものにしてしまい、その表現の幅を狭めてしまった罪」を問われる日が来るのではないかな、と考えてしまいました。

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