琥珀色の戯言

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第138回芥川賞選評

今号の「文藝春秋」には、受賞作である川上未映子さんの『乳と卵』の全文とともに、芥川賞の選評も掲載されています。以下、恒例の抄録です(各選考委員の敬称は略させていただきます)。

池澤夏樹
「なぜか最近の候補作には、寝そうで寝ない男女の仲をゆるゆると書いた話が多い。今回で言えば津村さんの『カソウスキの行方』も中山さんの『空で歌う』も山崎さんの『カツラ美容室別室』もそうだった。自分の日常に近いと思って親近感で読む読者がいるのかもしれないが、小説というのはもっと仕掛けるものではないか。
 川上未映子さんの『乳と卵』は仕掛けとたくらみに満ちたよい小説だった」

小川洋子
「『ワンちゃん』の日本語が、日本人が書いたのと変らない美しい文章である必要はないと思う。むしろある種のたどたどしさにより、今まで日本人に気付かれなかった日本語の秘密があぶり出される、という奇跡、かつてアゴタ・クリストフが『悪童日記』で示したような奇跡を、私は求めたのかもしれない」

村上龍
「『ワンちゃん』は、ユニークさと切実さでかなりの評価を得たが、日本語表現が「稚拙」という理由で受賞には至らなかった。だがわたしは、移民二世や在日外国人による今後の日本語表現にモチベーションを与えるという意味でも受賞してほしかった。芥川賞受賞作としてどのような稚拙さが問題なのかは主観的なイシューだと思う」
「それにしても、ヒロインの中国人女性の視点で描かれた日本の地方の「惨状」はリアルだった。地方で頻発する陰惨な事件の背景が、はじめて小説で描かれたといってよいかもしれない」
「『カツラ美容室別室』は非常に好感が持てる作品で、最初から最後まで破綻がなく面白く読んだ。国家や共同体から共通の希望が失われた現代を生きのびようとする人びとが過不足なく描かれていた。特に、「疲れる女といるよりも、アパートで牛乳を温める方がいい。」という一節は、正統な欲望・欲求を持ち得ない成熟社会の若い男の台詞として象徴的だと思った。だが他の選考委員の評価は低く、「スカスカで何もない」という批判が多かった。しかしこの作品は、まさに「スカスカで何もない」時代状況を映し出す優れたドキュメントとしても読むことができるのだが、理解はまったく得られなかった。

黒井千次
「(楊逸氏の『ワンちゃん』には)日本人のあまり書かなくなってしまった世界を突きつけられたような感慨を覚えた。日本語の表現に致命的な問題があるとは感じなかった。今回の候補作の中では内容において異彩を放っていたのだから、次作にも期待を寄せる」

高樹のぶ子
「作家は自分の中に絶対文学といも呼べるものを持っている。ほとんど生理的なレベルで。心酔する文学に出会うと、この絶対性に変化が訪れるけれど、文学賞選考の場でそうした僥倖はまず起きない。となると、自分の中の絶対文学と候補作の距離が許容されるものかどうか、許容されるには何が必要か、ということになる。実作者が受賞作を選ぶということは、こうしたある種の妥協を、意識的にであれ無意識的にであれ、行うことだ。

(中略)

 一方で、文芸ジャーナリズムは、この絶対文学の対極にある。ジャーナルとは記録、動いているものをキャッチし、時代性のファイルに収めること。「メディアの話題性」とは峻別されなくてはならない。小説が持っている情報の社会的鮮度と質量を、文学の重要な要素とする感覚のことで、これが無くては芥川賞は生き延びて来なかったと思う。中国女性の心の情報を発信した『ワンちゃん』は、私にはぎりぎり許容できたが、ぎりぎりアウトの選考委員もいた。その線引きは日本語としての文章への許容度だったと思う。あるいは盛り込まれた情報に対する、評価の軽重か」

宮本輝
「高く評価する委員もいた楊逸氏の『ワンちゃん』は、とにもかくにも日本語が未熟すぎた。母国語以外で小説を書いたからといって、その粗さを大目に見るというわけにはいかない。小説の構成も粗くて、今日的な素材に対する作家としての繊細さに疑いを持たせてしまった。今後も日本語で小説を書きつづけていくのなら、優れた文章で書かれた名作をむさぼり読んで、たくさん書くことだ」

川上弘美
「たくさんの人に会ったような気分である。
 それら、たくさんの人たちは、みな候補作の中にいた。そこにいて、喋って、笑って、怒って、茫然として、しみったれたことを考えて、後悔して、平然として、とにもかくにも、いろいろと独自のうごきかたをしているのであった」

石原慎太郎
「外国人が書いた小説という特異性?の故に前評判の高かった楊逸氏の『ワンちゃん』は、日本語としての文章が粗雑すぎる。同じ外国人の日本語としての作品としたら、中原中也賞を得たアーサー・ビナード氏の詩集の日本語としての完成度と比べれば雲泥の差である。選者の誰かが、「こうした素材を描いた小説が文藝春秋の本誌に載ることに意味がある」などといっていたがそれは本来文学の本質とは全く関わりない。そうした舞台としてはむしろそこらの週刊誌の方がふさわしかろう。
 受賞と決まってしまった川上未映子氏の『乳と卵』を私はまったく認めなかった。どこででもあり得る豊胸手術をわざわざ東京までうけにくる女にとっての、乳房のメタファとしての意味が伝わってこない。前回の作品の主題の歯と同じだ。一人勝手な調子に乗ってのお喋りは私には不快でただ聞き苦しい。この作品を評価しなかったということで私が将来慙愧するということは恐らくあり得まい」

山田詠美
「『カソウスキの行方』。仮想好き、イコール、カソウスキ。本来、漢字、平仮名で表記する言葉を片仮名にして雰囲気を持たせるやり方は、もう、ちょっと古い。そして、ちょっと古いものは、一番、古臭い。内容も追従」
「『ワンちゃん』。候補作の主人公の中で、一番応援したくなる<ワンちゃん>。でも、つたない。たどたどしさを魅力に導くのは、技巧を凝らしてこそ。そして、マスコミにひと言。文学は政治を題材にできるが、政治は、文学を包容し得ない。選考と政治は無縁なり」

 相変わらず「浮世離れ」している川上弘美さんの選評はさておき、今回の選評では、受賞作である川上未映子さんの『乳と卵』以上に、楊逸さんの『ワンちゃん』に対する言及が目立っていました(『乳と卵』に関しては、石原慎太郎さん以外は、「今回の候補作のなかでは抜けているので、とくにあれこれ言う必要はないだろう」という雰囲気でした)。
 今回の選評は、結果的に『芥川賞』と「外国人が書く日本語の小説」に対する、各選考委員のスタンスが浮き彫りになっています。
 作品への評価とは別に「こういう作品に授賞することが、日本語を母国語としない人たちへの日本語での創作のモチベーションになるのではないか」と主張した村上龍さんと、「とはいえ、日本語として稚拙なものに対して授賞するわけにはいかない」という宮本輝さん、石原慎太郎さん、山田詠美さん。「小説」とか「文学」というものを「社会に対してアピールするためのひとつの『アイテム』だし、もっと社会に対して文壇側から仕掛けていくべきだ」と考えているようにみえる村上さんと「選考(あるいは作品への評価)と政治は無縁」だと考えている山田さんたち。
 まあ、これはどちらが正しい、というものではないのかもしれませんが、僕は今回に関しては、「石原慎太郎もけっこう良いこと言うよなあ」と思いました。前回(137回)の選評での「軒並みタイトルが面白くなさそう」というのも「慧眼」だったし、「無茶苦茶なことも言っているけど、ある意味すごい人だなあ」と最近は感じています。
 いやまあ、僕は『ワンちゃん』を読んでないので、あれこれ言うのは失礼なのは承知の上なのですが。

 今回の選評のなかでとくに印象に残ったのは、小川洋子さんの

『ワンちゃん』の日本語が、日本人が書いたのと変らない美しい文章である必要はないと思う。

 という言葉でした。「日本語が稚拙である」と切り捨てるのではなく、そこに「政治的な意義」を見出すのでもなく、「その『たどたどしさ』もまた、『文学的表現』となりうるのだ」という考えかたもあるのだな、と。その一方で、山田詠美さんは、同じ作品を「たどたどしさを魅力に導くのは、技巧を凝らしてこそ」と一刀両断にしておられます。このお二人は現代を代表する「日本語作家」であるだけに、そのスタンスの違いがすごく際立っていました。
 僕はどちらかというと、「小川洋子さんの見かたのほうが好きだな」と思ったのですけど。

 あと、山田詠美さんの

本来、漢字、平仮名で表記する言葉を片仮名にして雰囲気を持たせるやり方は、もう、ちょっと古い。そして、ちょっと古いものは、一番、古臭い。

 という言葉には、ものすごくインパクトがありました。そうなんですよね、今流行っている誰かの真似をしようとすると、どうしても、「ちょっと古い、そして、一番古臭いもの」になってしまうんだよなあ。
 村上春樹さんは学生時代に(当時多くの学生に読まれていた日本の作家の作品ではなく)アメリカの現代文学を中心に読んでいたそうですし、川上未映子さんは哲学を勉強していたそうです。人と違うものを受信していかないと、人と違うものを発信していくのは難しいのかもしれないな、と最近つくづく思います。


文藝春秋 2008年 03月号 [雑誌]

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