琥珀色の戯言

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第139回芥川賞選評


文藝春秋 2008年 09月号 [雑誌]

文藝春秋 2008年 09月号 [雑誌]

今号の「文藝春秋」には、受賞作である楊逸さんの『時が滲む朝』の全文とともに、芥川賞の選評も掲載されています。以下、恒例の抄録です(各選考委員の敬称は略させていただきます)。

今回の選評は、前回(第138回)の選評と比べると、いっそう楽しんでいただけるかと。
(前回の選評はこちら)

石原慎太郎
楊逸氏の『時が滲む朝』は中国における自由化合理化希求の学生運動に参加し、天安門で挫折を強いられる学生たちの群像を描いているが、彼らの人生を左右する政治の不条理さ無慈悲さという根源的な主題についての書き込みが乏しく、単なる風俗小説の域を出ていない。文章はこなれて来てはいても、書き手がただ中国人だということだけでは文学的評価には繋がるまい。」

羽田圭介氏の『走ル』は実に面白く読んだ。

(中略)

 ともかくも、読みながら辺りの風景が次々に流れて変わっていくという一種の快感は稀有なるものだった。
 ただ物置に長くほうりこんであった中古のロードレーサーで青森まで走って、途中パンクなどのトラブルが無い訳はなさそうだ。そんなシークエンスがあれば作品の印象はいっそうふくらんだに違いない」

高樹のぶ子
「『時が滲む朝』は天安門事件の時代に青春を過ごした中国人男性の、その後の20年を描いた個人史である。この間、日本はゆるやかに下降し、劣化し、行き詰った。同じ20年がかくも違うものなのかと思った。久しぶりに人生という言葉を文学の中に見出し、高揚した。40年前、このように必死で社会や国について考え議論し、闘い挫折し変節した青春があった。それを描く文学風土があった。いつから小説の中の若者は、カスミか観念を喰って生きるようになったのだろう。

(中略)

 今、『カラマーゾフの兄弟』や『蟹工船』が読まれているのだとか。プレカリアートの増加に伴い、文学が実存の切実さに向かってやがて大きく流れを変えていく可能性もある。中国の経済はいまや否応なく日本に大波をもたらしているが、経済だけではなく、文学においても、閉ざされた行動範囲の中で内向し鬱屈する小説や、妄想に逃げた作品は、生活実感と問題意識を搭載した中国の重戦車の越境に、どう立ち向かえるのか。今回の受賞が日本文学に突きつけているものは大きい。」

池澤夏樹
芥川賞は新人賞である。優れた短編を選び出して顕彰し、その書き手の将来に期待する。言い換えればよい作品を書きそうな手にペンを手渡して、次へ進むよう促す。授賞は、この人が書くものを我々はもっと読みたいという意思の表明である。
 その意味で、今回の候補作の中で最も授賞に値するのは楊逸さんの『時が滲む朝』であった。巧拙を問うならば、これは最も完成度の高い作品ではなかったかもしれない。欠点はいくつかある。前半と後半で話の密度が異なるし、タイトルも上手とはいえない。文章にはまだ生硬なところが残る。
 しかし、ここには書きたいという意欲がある。文学は自分のメッセージを発信したいという意欲と文体や構成の技巧が出会うところに成立する。」

村上龍
「『時が滲む朝』の受賞にわたしは賛成しなかった。前作『ワンちゃん』のほうが、小説として優れていたと思った」

「今回の候補作は全体的にレベルが非常に低く、また例によって「どうしてこんなことを小説として書かなくてはならないのか」というような些末で閉鎖的なモチーフの作品が目立ったので、中国の民主化運動という歴史的背景と、長い時間軸を持つ『時が滲む朝』の小説としてのスケールも、選考会で評価された印象もある。」

「日本語を母語としない外国人作家の受賞は確かに画期的なことだ。だが、当然のことだが、そういったことは作品としての評価には関係がない。前作『ワンちゃん』は、おもに日本語の稚拙さが問題にされて受賞に至らなかった。しかし『時が滲む朝』の日本語は前作とほとんど変わりがないと思う。そもそも小説に、モデルと成り得る日本語の使い方など存在しない。もっとも美しい日本語で書かれた小説は何か、という問いに答えられる人がいるのだろうか。伝えるべき価値のある情報が、もっとも伝わりやすい文体で物語に織り込まれることが重要なのだ。
 おそらくわたしの杞憂に過ぎないのだろうが、『時が滲む朝』の受賞によって、たとえば国家の民主化とか、いろいろな意味で胡散臭い政治的・文化的背景を持つ「大きな物語」のほうが、どこにでもいる個人の内面や人間関係を描く「小さな物語」よりも文学的価値があるなどという、すでに何度も暴かれた嘘が、復活して欲しくないと思っている」

川上弘美
「小説が、好きだ。候補の7作を読みながら思った。いつも思っているわけではない。時折は(いやだな、小説)と思ったりもする。感じ悪い小説を読んだ時だ。そしてそれは、小説なんて書くのは甘っちょろいぜ、と作者が思っているらしい時に、受ける感じだ」

黒井千次
楊逸氏の『時が滲む朝』は、他の候補作とは質の異なる作品である、との印象を受けた。それは古めかしいともいえそうなリアリズムの作風のためもあるが、同時にその書き方が、一人の中国人青年の生き方を時代と民族意識のもとに捉えようとする主題とうまく重なり合って力のこもった作品世界を生み出していたからである。荒削りであっても、そこには書きたいこと、書かれねばならぬものが充満しているのを感じる。」

「ただ、激動する時代を生きる人間の歳月をこのような書き方で描くとしたら、それは長篇小説がふさわしかったろう。その素材を中篇という長さに押し込んでしまったところに構成上の無理がある。主人公が日本に来てからの日本人との接触も書かれれば、作品はより立体的な陰影を帯びただろう。日本語の表現に多少気になるところはあるが、それは書き続けて行く中で克服されていくに違いない」

宮本輝
「受賞作となった楊逸氏の『時が滲む朝』が前作より優れているとは思えない。小説の造りという点においても、あまりに陳腐で大時代的な表現においても、前作とさして差はないと思った。私は芥川賞もまた文章の力というものが評価の重要な基準と考えているので、唾を飲み込んで「ゴックン」などと書かれると、もうそれだけで拒否反応を起こしてしまう」

小川洋子
「『眼と太陽』が受賞に相応しいと、一生懸命奮闘したつもりだが、力及ばず、残念だった。」

『時が滲む朝』に出てくる浩遠の苦悩は、内側に深まってゆかない。残留孤児二世との結婚、来日、子供の誕生と、外へ外へと拡散する方向にのみ動いてゆく。最初、その点が不満だったが、国家に踏みにじられる状況をただ単に嘆くのではなく、一歩でもそこから脱出しようとする彼の生気のあらわれだとすれば、納得できると思った。
 湖に向かって叫ぶ主人公たち、明け方の湖畔で本を読む学生、あるいは「……勉強って楽しいぞ」と言う浩遠の父親、彼らの姿には学ぶことの素直な喜びが映し出されている。平成の日本文学では書き表すことが困難なさまざまな風景が、楊さんの中には蓄えられているに違いない」

山田詠美
「『走ル』。こういうのを、青春の輝きとみずみずしさに満ちている、と評する親切な大人に、私はなりたい……なりたいのだが、長過ぎて、お疲れさまと言うしかない。自転車で青森まで行っちゃう主人公は偉いが、突き当たり(稚内)まで行った『ハチミツとクローバー』の竹本くんの方が、もっと偉くて魅力的だ」

「『時が滲む朝』。前作同様、この作者は応援したくなる人間を描くのが上手い人だ。しかし、女の子の瞳に<泉にたゆたう大粒の葡萄>などという大時代的な比喩を使われては困る。この、ページをめくらずにはいられないリーダブルな価値は、どちらかと言えば、直木賞向きかと思う」


 というわけで、ほとんど、楊逸氏の『時が滲む朝』一色、という感じの「選評」なのですが、前回授賞するかどうか議論の中心となった「日本語の稚拙さ」については、「ほとんど変わりない」というのが選考委員の見解のようです。「日本語が上手くなった」と言っている人はひとりもおらず(そういえば、石原慎太郎さんは「こなれてきた」と少しプラス評価かも)、下手になった、という人はゼロ、「あまり変わらない」という人が、村上龍さん、宮本輝さん、山田詠美さんの3人でした。
 それでも、候補が2回目ともなると、選考委員も慣れちゃったのかもしれないなあ、という気もします。それに、他の候補作に(選考委員にとって)あまり印象的なものがなかったのも幸いしたようです。
 しかし、今回の「選評」を読んで、中国人作家が、とか、日本語表現が、というようなことについては、今回の選考に関しては、いちばんのポイントではなかったみたいだな、と僕は感じました。
 今回も村上龍さんの選評がまさに「核心」をついておられます。

おそらくわたしの杞憂に過ぎないのだろうが、『時が滲む朝』の受賞によって、たとえば国家の民主化とか、いろいろな意味で胡散臭い政治的・文化的背景を持つ「大きな物語」のほうが、どこにでもいる個人の内面や人間関係を描く「小さな物語」よりも文学的価値があるなどという、すでに何度も暴かれた嘘が、復活して欲しくないと思っている。

 あえてこれを書かれたのは、「杞憂に過ぎない」と言いながらも、村上龍さんがある種の「危機感」を今回の選考に感じたということではないかと。
 高樹のぶ子さんの選評を読むと、「現代的な個人の内面をつきつめた『妄想的な文学』なんて、『社会的な問題を題材にした文学』の前では、価値が低いものなのだ」と考えている選考委員がいるのです。

 でも、僕は思うんですよ。
 最近の芥川賞の選考において、「社会的な問題を描くこと」よりも、「個人の内面を突き詰めること」を重視し、そういう「現代文学」を志向してきたのは、あなたたちなんじゃないの?と。

 『時が滲む朝』の物語としての「スケールの大きさ」は僕も感じました。豊胸手術の話で母と娘が卵をぶつけあったり、盗癖のある女の子が家でゴロゴロしてときどきセックスする話や「ニガー」なんて歌いながら介護している話よりは、よっぽど「ドキュメンタリー的な魅力」があるのは確かです。
 でも、そういう「入れ物の大きさ」で中身を評価するって傾向は、ちょっと違うんじゃないかなあ。
 そもそも、『時が滲む朝』って、スケールが大きな「名作大河小説」のダイジェスト版みたいな話で、「大風呂敷を広げているわりには、中身はスカスカ」な小説だと僕は思いました。

 ただ、「小さい世界で、小手先の『目新しさ』を競っている現代の『小説家の卵』たちを、選考委員たちは苦々しく感じている」のは事実なのだろうし、僕も芥川賞候補作の文庫を読んでいて、「だから、読者にとって何の意味があるの、この小説は?」と言いたくなることが多いんですよね。最近の芥川賞というのは、そういう「小さな物語」どうしでの、技術的な巧拙が問われている傾向がありました。最近の受賞作は、「文学マニア以外には、面白くない作品」ばかりだったのではないかなあ。

 「物語が小さくなりすぎていることへの反動」が、この、あまりにも前時代的な小説を「芥川賞受賞作」にしたのかな、とも思いますし、「こういう作品こそ、現代では『新鮮』なのだ」ということなのかもしれません。「個性的」という点では、『時が滲む朝』の受賞は、「妥当」なのかな、と今の時点では感じています。

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