2010年最後のエントリということで、今年書いたもののなかで、僕自身の思い入れが強いもの、反響があったものをまとめておきます。
「だって、自分を否定する人のために、何かをしてあげようとは、思わないよね?」
ちょっとした接し方の違いなんだけど、そういう「違い」の積み重ねが、どんどん大きな差になっていくんだろうなあ。
これって大事なことだよなあ、と読み返して反省。
僕はいま一部で盛り上がっている(しかしながら、僕の周りには、そんな話を日常会話でしている人はひとりもいないんだけど)、都の「表現規制」について、こんなことを考えているのです。
実際に表現そのものは、法的に規制されるべきではないと思うし、そんな規制が必要ない世界が理想だとは思う。
でも、「フィクションの(実在しない)女の子がレイプされるのだったら、被害者はいないのだから全然悪くないだろ!」と声高に叫ぶ人たちの姿をみると驚愕せざるをえないんですよ。
えっ、そういうのって、人間としてどうしようもない欲望みたいなものなのだろうけど、大声で社会に向かってアピールできるようなカッコいいことなの?
レイプは法律に触れるし、それ以前に、現代社会において、「人としてやってはいけないこと」ではないのかね。
相手が「非実在」であるという理由で、その行為に「うしろめたさ」を感じない人間が増えていくのは、危険だと思わない?
本当は、相手が「非実在」だって、やるべきじゃないことのはず。
ひとつだけ言えることは、「木村拓也」というひとりの地味な野球選手が打ち上げた優しいセンターフライは、緒方選手だけでなく、僕みたいな「一番得意だった事がうまくいかない。それでも、生きていかなければならない人間」にも、ちゃんと届いている、ということです。
キムタクのお子さんにも、きっと、届いているはずです。
王・長嶋にはなれなくても、キムタクのように「必要不可欠な存在」になれる可能性はある。
もちろんそれは、簡単なことではないけれど、人は、挫折しながらでも、自分の居場所にたどり着くことができる。
本当に「ありがとう」としか言いようがなくて。
月並みで申し訳ないけれど、オグリキャップには、やっぱりこの言葉を捧げたい。
夢を、ありがとう。
僕がこれを書いたのは、「あなたがイジメられているのは、あなたが悪いわけじゃない。駒として利用されているだけなんだ」と、伝えたかったからです。
そして、そういう目にあっているのは、あなただけじゃない。
正直、「自分だけじゃない」とわかっても、どうにもならないことも多いんだけど、少なくとも、こういう「仕組み」みたいなものを知っていれば、少し自分を見なおせるんじゃないか、とは思うのです。
あなたは、あなたが思いこまされているほど、つまらない人間じゃない。
「マナー」は大事なんだけど、その一方で、「マナー原理主義」のおかげで、世界はちょっと息苦しくなってきているんじゃないかなあ。
とくに「ネットの人々」は、「社会におけるマナー」に厳しい印象を受けます。
酔っ払いにゲロを吐かれたり、暴力団に絡まれたりするのは「受け入れがたい」けれど、まだ年端もいかない子どもが騒ぐくらいの「マナー違反」は、なんとか許していただけないものでしょうか。
もちろん、僕もなるべく寛容になれるように努力しますから。
そして、社会はどちらが正しいかを決めようとするよりも、「黙って我慢している人たち」を、もっともっと褒めてあげるべきなんじゃないだろうか。
ネットって、「意見を書いている自分」の姿が外からは見えない(ように思える)から、自分でもできないようなことで、他者を厳しく責め立てることが多いような気がします。
そうやって、「ハードルを上げる」ことで苦しむのは、将来の自分自身かもしれないのに。
東浩紀さんとカンニングとtwitterの「不当な量刑」 (9/4)
そもそも、こういう事例をみるたびに「リテラシー」について訳知り顔で語る人がいるけれど、本当に「リテラシー」がある人って、こういうときに嬉々としてしゃしゃり出てくるのだろうか?「情報」として存在しているのは、その学生が言ったとされる、ツイートだけなんですよ。
マスメディアの報道に対して、「まだ証拠も揃ってないのに」、ブログの内容に対して、「これはブログ主の勝手な想像だ」って「批判」する一方で、こういうときには、「既成事実」として対象者を大バッシング。それは「リテラシー」じゃなくて、「叩きやすい他者を叩いて、優越感に浸りたいだけ」じゃないの?
こんな「鼻くそほじりながら、安全な場所(だと本人は信じているところ)で、他人を責めることができる」twitter(あるいはネット社会)って、すごく怖いよ僕は。
とくに「失うものが多い人」にとっては、百害あって一利あるかどうか。
この新書、インタビューされている人たちは、僕が予想していたよりもはるかに率直に『踊る大捜査線』が日本映画に与えた影響について語っていて、なかなか面白かったです。
『踊る大捜査線』は、「日本映画を安易な方向に押し流してしまった」のか、それとも、「暴力とセックスに囚われた、時代錯誤の映画人たちに引導を渡した」のか?
あらためて考えてみると、この12年間、日本映画は『踊る大捜査線』の呪縛から、逃れられていないのかもしれません。
「友達至上主義」はバカバカしい。
でも、「(どんな薄っぺらい友情であれ)友達がいない人生は、けっこうキツイ」のもまた事実。
「友達らしいこと」をやろうとすればするほど、僕にとっての理想的な「友情」とは、かけ離れていく。
「完璧な友情」っていうのは、結局のところ、想像の中にしか無いのだろうか。
僕は、話しかけられると、「気力や精神力あるいは情報という自分の資源を略奪されていると感じる」というよりは、「自分と全く違う価値観を持つ人の話を、逃げられない状態で聞かされるのは辛いし、それを辛いと感じてしまう自分がイヤになってしまう」のですよね。要するに「他人に、否定されたり、媚びられたりするのが怖い」のです。不粋なことを言って軽蔑されるよりは、黙っていたい。
ヤンキートークに頷かされるくらいなら、話しかけないでほしい。
でも、話しかけられたら、無視したり、相手の話を全否定したりするのは「失礼」だと思ってしまう。
彼女と働きはじめた頃の言葉に、印象的だったものがある。
「私、『自分から積極的に何かを変える』ってタイプじゃないんだと思います。いまの結婚相手とも、『別れる理由もないから付き合い続けて、そのまま結婚した』って感じだし。世の中には長年つきあっていると、『刺激がなくなってきたから別れる』っていう人と、『別れるのもめんどくさいから、特別な理由がないかぎり、付き合い続ける』という人がいて、私は後者なんですよね。ずっと、今のままで良いのなら、それがいちばんラクというか」
<総括>
今年は前半は比較的穏やかに本の感想を書いていたのですが、後半はけっこういろんなことがありました。
ネットで書き続けていくことがイヤになることもあるし、何か現実でトクしたことがあるわけでもないのだけれど、結局、今年も書き続けてしまったな、という感じです。
これはもう、僕にとっての「生存証明」みたいなものなのかもしれません。
とりあえず、来年もあまり一喜一憂せず、自分にとって書くべきことを書いていきたいと思っています。
Twitterもだらだらと続いております。ときどき豪雨に見舞われつつ。
http://twitter.com/fujipon2
それでは皆様、よいお年を!