琥珀色の戯言

3000冊以上の【書評】と500作以上の【映画感想】を、ちゃんと読んで、観て書いてきたブログです。話題になったあの本や映画の感想が、たぶんあります。新書、ノンフィクション、インターネット関連本が多め。

今週のお題「私がブログを始めた理由」


新年あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。

実はこれ、4年前くらいに書いたものなのですが、ちょうどこういう「お題」があったのと、ここであらためて「サイトをはじめた理由(ブログじゃなくてすみません。古い人間なので)を振り返ってみるのも意味があるのではないかと思って、まとめてみました。

僕の場合は、とにかく箸にも棒にもかからない「閑古鳥サイト」をやっていた時期が長くて、そこから少しずつ人が来てくれるようになりました(とはいえ、10年くらいやっていて「この程度」ですけど)。もしかしたら、「これからブログやサイトを始めようと思っている人」や「ブログをやっていたけれど、なかなかうまくいかずに諦めてしまった人」に、何か参考になるところがあるかもしれませんし。


<序章:サイト開設まで>

 僕のネット歴というのは、今から14年くらい前にさかのぼる。それまでは、パソコンは持っていたのだが、あくまでも仕事用のものだった。

 ワープロができれば、御の字だったのだ。

 ネットワークに繋ぐ必要性を感じていなかったし(だいたい、その頃のネットの用途というのは、イメージ的にはパソコン通信の延長で、マニアたちが夜な夜なフォーラムに入り浸る、というようなものだったから。もっとも、パソコン通信自体も、大昔に「ログイン」の後ろのほうの寺島さんという人のマンガで読んで、マニアな世界だなあ、と思っていたくらいだ。あとは、アダルト用途くらいのものか。

 世間知らずで、機械に疎かった僕にとっては、思い立ってNECのラヴィ(当時は25万くらいした。Pen2で、333MHz、当時としては、かなりハイスペックのパソコンだった。重かったけど)を買うことにした。

 それまで使っていたMACでは、もうゲームができなくなってきたからだ。

 もちろん、仕事にも使おうと思っていた。

 店員にも勧められて(「いまどきパソコンがあるのにネットやらないなんてもったいないですよ」とかなんとか言われた)、ISDN用のTA(ターミナルアダプタ)も一緒に購入。幸運なことに、当時僕が住んでいた官舎には前任者が引いていたISDN回線が解約されずに残っていたのだ。もっとも、僕がそれを引継ぎで聞いたときには、「ISDNって、アメリカの核戦略か何かかな?」と内心思っていたのだけれど。相手に聞き返さなくて良かった。

 それで、説明書を読んで、一生懸命にTA経由でネットに接続してみた。

 その日は繋がらずに、なぜか翌日同じようにつなげてみたらあっさりプロバイダーのホームページが表示された。今日は機嫌がいいんだな、って感じだった。

 そして、何時間かは、オススメのページとか、ゲームのサイトとかを検索して読んだりしたのだが、正直、ネットというものに魅力は感じなかった。

 玉石混合、とはいうけれど、石ばっかりのような気がした。

 使われている言葉も独特で、とっつきにくかったし。

 もちろん、いきなり見ず知らずの誰かと接触する気にもなれなかった。

 当時は、ネットには面白いものがゴロゴロしている、と思い込んでいたのだけれど「面白いサイトを探す」には、それなりの技術と経験が必要なのだ。

 少なくとも、マウスを漫然とクリックしているだけでは、面白くもなんともない。

 たまに彼女から来るメールを受信することくらいが、僕のパソコンの仕事だった。

 今から考えると信じられない話なのだが、「先週送ったメール読んだ?」なんて彼女から電話がかかってくるようなこともあったくらいだ。

 「インターネットなんて、あんまり面白くない」

 それが、僕のインターネットに対する正直な第一印象だった。

 まず最初はサイトめぐり、それは誰もが通る道だろう。

 そしてそこで、道は2つに分かれていくのだ。

 ひとつは、インターネットをツールとして使っていく、という道。

 なんのかんの言っても、家から一歩も出ずに「美味しいハンバーグの作り方」が調べられたり、贔屓のマイナー野球チームの試合経過が、観たくもない巨人戦中継を観ずにリアルタイムでわかる、というのが、ものすごく便利なのだ。

クロス探偵物語」なんて、ネット無しでは永久にクリアできなかったと思う。だいたい、なんなんだあの柱は。

 話がまたそれた。

 もうひとつのインターネットとの関わり方は、「自分で何か『繋がり』を求めていくという道だ。
 

 最初は、「知らない人とやりとりするのはなんだか不安」という印象を持っていた。インターネットの社会には、実社会よりキツイ物言いをする人間が多いみたいだったし、なんだか独特の閉鎖社会があるような感じで、初心者が気軽に入り込めるような感じがしなかった。顔文字も苦手だったし。

 たぶん、僕は前者の道を行くはずの人間だったと思う。もともと自己主張がそんなに強いわけでもないし、語るべきものは、何も持っていないような気がしたからだ。受け手として利用する、それで、充分なはずだった。

 しかし、僕は、いともあっさりとネットにハマってしまった。

 それは、「出会い系」に手を出してしまったからだ。

 職場が田舎の病院であたこともあって、夜に時間ができれば、酒を飲まない(もしくはオンコールで飲めない)日にやることは、本を読むかテレビゲームをやるくらいしかなかったから。

 彼女とも離れていたし、なんのかんの言っても、寂しかったのかもしれない。

 誤解を招かないように言っておくと、この「出会い系」は、純粋にメールフレンドを募集するもので、僕は実際に相手に会おうという気は、全然無かった(もちろん、その条件でメール相手を募集していた)。

 言葉は悪いが、これはけっこう面白かった。

 何が面白かったかというと、要するに、それは駆け引きだったからだ。

 「こんな人には、こんなふうなメールを出せば、返事がもらえるんじゃないか?」

 それが見事に的中したときは、やっぱり嬉しい。

 「あっ、返事が来た!」って。

 それは、友達作りというより、まさにコミュニケーションゲームだった。

 中には、何年かずっとやりとりを続けた人もいた。

 確率はものすごく低かったけど、実際に、メールのやりとりをするのが楽しくなった人もいたのだ。

 まあしかし、大概において、メール交換というやつは、僕を失望させた。

 自分の自慢ばっかり語りたがるヤツや一行返信(これは女性に多かった)。

昨日は1日ずっと当直で、20人くらい患者さんを診たと思います。

中には重症の人もいて、結局、4時くらいまで一睡もできませんでした。

医者不足だというけれど、これで明日も朝から普通に仕事なんて…

>たいへんでしたね(相手の返事)

昨日は、「タイタニック」を観に行ったのですが、あの冷たく暗い海に、どうしようもないままに沈んでいくしかなかった人々がいたということを想像すると、とても悲しい気持ちになるのです。

>そうですね(相手の返事)

 お前は「赤ペン先生」かっ!!(赤ペン先生に失礼ですね)

 女性はこんな人がけっこう多かったのだ。

 相手の引用に、一行返信の連続。

 あと、顔文字ばっかりで内容が全くないメールとか。

 こんなのコミュニケーションじゃない!

 僕も次第にイヤになってきて、コピー&ペーストの文章プラスアルファ、くらいのメールしか送らなくなっていった。

 結局、人間というのは、自分が与えたほどのものを相手から受け取ることはできない、と常に感じ続けているものなのかもしれないが…

 それにしても、さすがに疲れた。

 僕は、メール友達には、もう飽き飽きした。

 ごく一部のちゃんと話をしてくれる人たちとは、しばらくはやりとりしていたけれど。

 そうして、僕とネットとの距離は、また少し遠ざかった。

 

 しかし、転機は突然にやってきたのだ。

 それは、当直中のことだった。

 けっこう忙しい病院で缶詰になった僕は、「何か面白いこと」を探していた。

 その当直室のマンガは読みつくしたし、競馬も外れた。

 そこで、なんとなく、「ネットで日記を書く」ことにした。

 もちろん、誰かに読ませる気持ちはあまり無かった。

 内心は、誰かに読んでもらえることを少しは期待していたのかもしれないけど。

 しかし、最初の頃の日記を読み返すと、どう考えても単なる鬱憤晴らしだな。

 競馬の結果に対する文句とかを延々と書いているし。

 で、書いていれば何らかのリアクションがあるんじゃないかと期待していたのだけれど、現実には、何もなかった。本当に、何も無かったのだ。

 カウンターも、1日10アクセスもあれば、「何かあったんじゃないか」と思ったくらいだ。要するに、「ひそかな愉しみ」レベルであり、読まれることを期待も希望もしていなかったのだ。まあ、家の鍵を厳重にかけまくって、中でひとりでストリップショーをやっているようなものだった。

 書いたり書かなかったり、書かなかったり。というか、気が向いたときに、書きたいことを書くくらいだった。2ヶ月くらいほとんど書かなかったこともある。めんどくさくても、閉鎖する必要すらなかった。そんな状態が、1年くらい続いた。



<第1章>「プロジェクトF」誕生


 というわけで、当初の日記は内容もかなりリアルで、危険だった。

 実際、誰も読まない日記であれば、あまり危機管理なんて考える必要もなかったし。

 しかし、ある夏の日、僕は突然、「サイト作り」に目覚めたのだ。

 お盆期間というのは、比較的田舎の病院ではヒマになり(外来も少なく、入院患者さんも外泊したがる人が多くなるため)、さらに運のいいことに、その年は重症患者さんがいなかったのだ。

 というわけで、僕は20時くらいには家に帰り、なんだか悶々としていた。

 家でネットサーフィンをやったり、ネット雑誌を読んでいると、たまに面白いサイトを見つけることができた。

 「L****」という、20歳そこそこの女性のサイトなのだけど、彼女はなぜか「ご遺体」に興味を持って、葬儀屋でバイトをしていて、そこで出会った御遺体のことを日記形式で書いていたのだ。

 その文章に対しては、文章読みとして「面白い」という感慨と医者として「不謹慎」という2つの感情を僕は持っていた。

 そのサイトに対するリアクションも、僕が抱いた2つの感情に大別されたようだった。

 そういったサイトを観ているうちに、僕の中の「表現力」とかいうやつが、たぶん抑え切れなくなったのだと思う。

 医者の仕事というのは、基本的には、「通例に従って」やるものだ。

 10回に1回の120点の仕事で、40点のときがあるよりは、常に80点の仕事が求められる。

 僕もサイトをつくってみよう、この仕事としては、比較的時間があったこともあって、そう思った。

 最初に決めたことは、「自己紹介をつくらない」ということ(自分を護るため)と絶対に現実世界の知り合いにはサイトのことを教えない、ということだった。

 知り合いの顔が浮かんできては、僕には日記なんて書けるわけがない。

 最初は、雑誌の付録についていた「ホームページビルダー」の体験版で作成した。日記とレトロゲームレビュー、旅行記、掲示板、メール送信フォームだけのサイトで、リンク集なども存在していなかった。リンクなんて、勝手に貼っていいものかどうかわかんなかったし。

 こうして、「プロジェクトF」は産声をあげた。

 2001年、8月12日。

 ちなみに、サイト名の由来は、当時流行っていた「プロジェクトX」の影響だ。こんなどうでもいいようなネーミングをするくらい、僕にとってのこの時点でのサイトは、どうでもいい存在だったのだ。

 しかし、今から考えると、雑誌の付録のホームページサンプルのテキストだけ変えたような、まさに「つまらない個人サイト」の典型例だった。

 もともとデザインのセンスなんて無かったし、それはもう「ダサい!」の極致。

 旅行記などは、「どこでも配置モード」で作ったため、職場に置いてあったMACで観たら、画面とテキストが重なって、何がなんだかわかりはしない。

 おまけに、当時は画像圧縮の技術を知らなかったため、写真が表示されるまで、とんでもない時間がかかった。

 それでも人間は、1枚の画像が表示されるのに、5分や10分は待てるものなのだ。

 …ただし、自分のサイトの場合に限るけど。

 いちばん悲惨だったときには、トップページに牧場で撮ったオグリキャップの画像を圧縮することなしに、画面いっぱいに貼り付けたこともある。

 「綺麗になった」と自分では満足したが、さすがに自分でも遅すぎると判断してこれは没。

 悲しいことに、そういうときに「それじゃ遅すぎ!」と指摘してくれる人すらいない零細サイトの宿命。

 作成と同時に、いろんな検索エンジンに登録してみたり、無謀にもヤフーに登録依頼してみたりもした。

 日記・旅行記4本、ゲームレビュー10本、限りなく格好悪いデザイン。

 今から考えると、「落ちて当然」だ。

 サイトを公開したら何かが変わるんじゃないかと自分では想像していたけれど、もちろん、何も変わらなかった。

 アクセスは、日に10人もなく(というより、ほとんど自分だけだった)

 掲示板を覗いても書き込みは皆無だし、メールも全く来なかった。

 でも、そんな「当然のこと」が、不当な気がしていたのだ。バカだよなあ。

 そういえば、変な勧誘メールはときどき舞い込むようになったけど。

 どのくらい人の気配が無くて寂しかったかというと、

「面白いサイトですね。私はこのサイトで彼氏ができてドキドキです(顔文字とアドレス)」

 というような、最初にサイトに書かれたいわゆる「業者の宣伝書き込み」に喜びのあまり「ご訪問ありがとうございました」なんてまともにレスをつけてしまうくらい。

 そんななか、あの「NY同時多発テロ」が起こった。

 直接は何の関連も無かったのだろうけれど、僕のやる気は、急速に失われた。なんだか、「それどころじゃない感」にしばらく支配されていたような気がする。

 サイトは2ヶ月更新されずに放置され、たまに行くと、自分が行った回数だけカウンターが回った。

 もはや、「プロジェクトF」は、風前の灯火だった。

 僕自身ですら、このサイトはこのままネットのプランクトンになるものだと確信していたのだから。



 どんなに宣伝してもほとんどリアクションもなく、掲示板は閑古鳥(今から考えたら、アダルトサイトの業者にすら「書き込む価値なし」と判断されていたのだと思う。悲惨だ…)の状態だった「プロジェクトF」の命運は、まさに風前の灯火だった。

 たまに思い出したように更新したが、だからといって何かが起こるわけでもない。

 8月中旬に開設したサイトのアクセス数は、12月の終わりに、やっと合計1000を超えた。しかも、カウンターはリロードも数えられるタイプだったから、おそらく、自分で回したのが半分以上だったと思う。

 まさに、典型的な泡沫サイトだった。

 このまま閉鎖しようか、と思っていたのだが、ちょうど、2001年の正月は、オンコールで外にも出られず、比較的時間ができる状況だった。そして、僕はなんとなく自分のサイトをいじってみようと思い立ったのだ。

 まず、アクセスアップ関連のサイトを見て「READ ME!」のことを知った。

 HPビルダー頼みの僕にとっては、アイコンを設置することすら至難だったが、なんとか設置することができた。

 もっとも、初期のころは1日10アクセスあったら万々歳だったので、リドミで自分のサイトの順番を見つけるのも一苦労だったけど。

 それは、今までに自分でカウンターを回していて「誰か来ているつもり」になていた僕にとっては、悲しく情けない現実だった。

 それに、末端サイトにとっては、リドミはアクセス向上にはつながらない。

 「新作リスト」に載っている間、ちょっと効果があるくらいだ。

 あと、いろんなサイト紹介のメールマガジンに投稿してみたのだが、その効果もよくわからなかった。あまりにたくさんのメルマガがありすぎて、自分のサイトがいつどこに載ったか、本当に載ったかすらわからなかったし、効果を実感したことは無かったように思う。

 結局、何万部と言っても、宣伝したい人だけが見るメールマガジンでの広告には、あまり意味がない、というのが結論だった。

 それは、1月1日、元旦のことだった。

 今のこのサイトでは、決定的にコンテンツが弱い、ということにようやく気がついた僕は、サイトで新しいコンテンツを立ち上げることにした。

 それが、「活字中毒。」だった。

 しかし、これはあくまでも正月に思いつきではじめたもので(だから、タイトルだって適当じゃないですか、実際)、「その日自分が読んだ本のことを記録する」という趣旨のものだった。僕は活字が大好きなので、内容に触れなくても、実際に読んだ本のタイトルとかページ数だけでも記録したら面白いんじゃないかな、と思ったのだ。

 しかし、このコンテンツは、後にどんどん変容していくことになる。

 当初の「内容には触れず、本のタイトルやページ数だけを列挙」というスタイルから、どんどん逸脱していくのだ。

 よく「いいかげんに作ったコンテンツほど流行る」と言われる。

 「プロジェクトF」は、まさにそんな感じだった。

 「活字中毒。」は、後にサイトの看板になったし(というか、今でも看板であり続けている)、「Doctor's Ink」も最初は思いつきだった。

 2002年の1月中旬には、サイトにとってのステップアップのきっかけが訪れた。

 「さるさる日記」の読者の一部に配信される「さるさるマガジン」に「当直日誌」のある日の分が全文掲載されたのだ。

いまから読み返すと、当時の当直日誌は面白い。知り合いには読ませられないけど。

で、この「うしとみしよぞ」って、いかにも「メルマガに全文掲載するのにふさわしい」という豆知識&小ネタ系で、いまさらながら自己嫌悪です。

しかし、これが載ったことによって、「当直日誌」の読者数は激増した。

1日100人以上とか。

あまりに嬉しくて、自分で何回かリロードして「アクセス数ランキング」に載るようにしたくらいだ。

そして、待望の掲示板への知らない人からの書き込みもあった。

なんとなく、自分のサイトがネットに繋がった、そんな感じがした。

もちろん、「当直日誌」のアクセス数は、掲載後しばらくして減っていったが、それでも掲載前は一桁だたのが、常時20〜30アクセス/日くらいはいくようになったのだ。

「プロジェクトF」に流れてくる人も、少しずつ増えだした。

もちろん、リドミで1日10カウントいけば万々歳、という状況が続いてはいたのだけれど。

 それでも、リアクションが出始めたことによって、僕の更新意欲は高まっていった。日記と「活字中毒。」を極力毎日更新するようになったのだ。

そして、「プロジェクトF」に2回目の飛躍の時が近づく。


<第2章>『活字中毒。』と『Doctor's Ink』

 まだ第1回からのログが全部残っているのだけれども、『活字中毒。』を書きはじめたのは、2002年の1月1日だった。

 お正月だから、ということで書き始めたわけではなくて、せっかくの正月なのに出かける場所もなく、『プロジェクトF』も閑散としていたので、偶然お正月スタートになっただけだ。そもそも、そんなに気合を入れてはじめた企画ではなかったし。

 なかなかサイトに来てくれる人が増えず(この頃はユニークアクセスが30人いればすごく喜んでいた記憶がある)、なんらかの形での「テコ入れ」が必要だと考えていたのだが、正直、何をどうやっていいのかわからなかった。当時の『プロF』のコンテンツは日記と「ゲームミュージアム」(昔のゲームについて個人的な思い出を語りちらすコーナー)が10話くらい、そうそう「旅行記」なんていうのもあったな、あとは掲示板くらいのもので、今から考えれば「あれで客を呼ぼうなんて甘すぎる!」というシロモノだったのだけれども、まあ、こういうのって管理人の贔屓目ってやつで、当時は「なんでこんなに誰にも見向きもされないのかなあ……」と真剣に悩んでみたりもしたのだ。当時は「インターネット雑誌」というのが「Yahoo!!」の他にも「あちゃら」などたくさん出ていた時代で、そういった雑誌を見て、『一発太郎』に登録してみたり、いろんな「アクセスアップサイト」を読み、「アクセスランキング」に登録したりもしてみたのだが、それもことごとく不発だったし。

 『活字中毒。』というのは、初回(初期は本当に「読書日記」のつもりだったので、日付をタイトルにしていたのです)を読めばわかっていただけると思うのだけど、筒井康隆さんの「腹立半分日記」みたいなやつをサラリと書いてみたいなあ、と思いながらはじめたのだ。でも、書いているうちに、「読んだ本のなかから、印象的なフレーズを抜き出す」という作業がけっこう楽しくなってきて、その「抜き出す」内容も、どんどん長くなってしまった。だから、今のスタイルというのは、最初に想定していたものとは、かなり違ってしまっている。そもそも、「引用」としては限りなく黒寄りのグレーゾーンでもあるし。

 ちょっと話を先に進めすぎたみたいなので、「活字中毒。」を始めた頃に戻る。

 あの時代は、それまでの「WEB日記」の主流であった『さるさる日記』の覇権がちょうど揺らぎ始めてきた時期で、「自分でHTMLを組めない人、ホームページビルダーが使いこなせない人でも運営可能で、しかも『外向きの繋がり』が持てるレンタル日記」が、雨後のタケノコのように乱立しはじめた時代だった。

 そういえば、『活字中毒。(今は『活字中毒R。』)は、まず企画ありきではなくて、流行りの『エンピツ』というレンタル日記を借りたので、そこで何かできないかと思ってはじめたものだったんだよなあ。そもそも『活字中毒。』というベタでありきたりのタイトルこそが、当時の僕のこの新コンテンツへの期待の薄さを物語っている。たしか「良いタイトルが思い浮かぶまでの仮タイトル」のつもりだったのではなかろうか。いままで「当直日誌」で使ってきた『さるさる日記』には「1日のアクセス数」を見ることと、読んだ人からの「メールを送る」という機能くらいしかなく、自分のホームページ内のコンテンツとして利用するのでもないかぎり、「ただパソコンに向かって日記を書き続けるだけの作業」に終わってしまうことがほとんどだった。

 それに比べて、最初に『エンピツ』を体験したときには、「世の中にはこんなにすごい日記サービスがあるんだ!」と感動してしまった。アクセス解析ではリンク先のアドレスがアクセス数の順番に表示され、「どこからどれだけの人が来ているのか」が一目でわかるし、自分のお気に入りの日記と登録したり、相手から登録されたりすることによって繋がれる「My登録」というシステムも新鮮だった。ただ、この「My登録」に関しては、僕のほうは「ちょっと気になるからしばらく追っかけてみようかな」というような軽い気持ちで登録した人から、わざわざ「My登録ありがとうございます!」なんていうメールが来たりして、そういう「意識の違い」に困惑することも多かったけれど。

 そして、『エンピツ』で『活字中毒。』を書き始めるのと同時期に、僕は「たくさんの人に読んでもらうための企業努力」をやっていたのだが、正直なところ、いろんな「宣伝サイト」「ランキングサイト」のなかで、僕にとって「ここからは間違いなく人が来てくれた」と言えるところは、

日記才人

・テキスト庵

・Read Me!

の3つだけだったと思う。これらのサイトが今でも続いているというのは、何よりもその事実を証明しているのではないだろうか(……って、2011年1月現在では、生き残っているのは『テキスト庵』だけになってしまいました。

 なかでも『テキスト庵』は、僕のお気に入りだった。最初にここを見たときには、「なんて素っ気ないサイトなんだろう」と思ったものだったのだが、当時の『テキスト庵』は、まさに「テキスト書きたちの梁山泊」だったのだ。もちろん「玉石混合」であるのは今とそんなに変わりはないのだが、あの頃の『テキスト庵』には、高校の文芸部のような「ツマランものを書いて報告したら恥ずかしい」というような雰囲気が溢れていた。そして、全体の平均的なレベルも、そこらへんの「自己紹介と行間の長さだけが売りのサイト」ばかりの「ランキングサイト」に比べれば、はるかに高かったような気がする。

 僕はこの『テキスト庵』で、『活字中毒。』の更新報告を続けていくことにした。もちろん、更新報告するだけで、1日に何百人もの人が……というわけでもないけれど、確実に1日あたり10人前後の人を僕が書いたもののところに連れてきてくれる『テキスト庵』は、当時の僕にとっては、まさに「福の神」だったのだ。

 当時の『テキスト庵』には、「テキスト風聞帳」という、登録者が気になったテキストを紹介しあうというコンテンツがあった。

 『活字中毒。』がほんの少しブレイクしたのは、この「テキスト風聞帳」で、

2002年2月20日。

↑が、僕が書いたものとしては初めて他の人に取り上げられたのがひとつのキッカケだった。その日は、「風聞帳」経由で30〜40人くらいの人が来てくれて、それ以降も『テキスト庵』の「風聞帳」では何度も『活字中毒。』を取り上げてもらった。もともと「誰かが書いた(言った)気になる言葉」の引用からはじまっているテキストなので、たぶん、言及しやすい内容だった、という面もあったのだろう。

それまで自分が書いたものに対して「反応らしい反応」をもらったことがない僕は、アクセス数だけではなくて、「他の人に読まれ、言及される喜び」のようなものを感じるようになってきたのだ。その後も『テキスト庵』で知り合ったテキスト書きの人たちとは交流が続いている、「雑文祭」にも何度か参加させていただいた。もっとも、『テキスト庵』には僕にとって付き合いやすい人ばかりがいたわけではなく、何度かはバトルめいたことをやったり、ネガティブ言及されたりして落ち込んだりもしたのだが。

 そうそう、『テキスト庵』で僕が教わったことがもうひとつある。それは「タイトルのつけかた」だ。

「教わった」というより、「意識するようになった」と言うべきなのかもしれないが、実際に見ていただけば一目瞭然なのだが、『テキスト庵』というのは、「サイト名」+「一行の宣伝コピー」とう形式で「あたらしいテキスト」の「更新報告」が行われており、これは基本的にすべてのサイトに対して公平になっている。その中で、自分が書いたものを読んでもらうために工夫するポイントがあるとすれば、その「更新報告の内容」しかないわけで。これも、目の肥えた「テキスト書き」の人たちにとっては、あからさまなエロ更新報告はかえって敬遠されるし、その一方で、あまりに平凡な「今日の出来事」みたいなタイトルだと目にも留めてくれないしで、その「匙加減」というのはかなり微妙なものなのだ。僕は毎日ここで「更新報告」を繰り返し、それに対する「アクセス数」というリアクションを感じていくうちに、「アクセスしたくなるようなタイトルのつけかた」を学んだような気がするのだ。いや、もちろんこれは僕の主観であって、読んでいるあなたは「下手くそ!」と嘲笑っておられるかもしれませんが。

 「サイトのコンテンツは、テキトウに作ったものほど繁盛する」という風説があるのだが、それにしても、『活字中毒。』が、こんなに長く続いて、しかも、こんなに大勢の人に読まれるようになるとは、はじめたときには夢にも思わなかった。そして、5年あまりでこんなにもブログが流行って、昔はアクセスランキング入りするのに1日100カウントは必要だったはずの『エンピツ』が、こんなに斜陽になってしまうとも予想していなかったよなあ(ちなみに今は50カウントくらいあれば200位以内には入ります)。

 ところで、『テキスト庵』というのは、さきほど書いたように「高校の文芸部」みたいなもので、全体のレベルは高く、お互いに切磋琢磨しあっていても、そこにいる「部員」たちの数は限られている。つまり、「テキスト庵」でそれなりにメジャーになってしまったところで、「頭打ち」になってしまうのだ。そこで、僕はまた悩んでしまった。『テキスト庵』でどんなに頑張ってみても、『活字中毒。』は、1日に100人の壁を超えられなかったし、『プロジェクトF』も、50人前後をウロウロするばかりだった。

 そんな中、「新コンテンツ」として打ち出したのが『Doctor’s Ink』だった。サイトをはじめたとき自分で決めていたことは、「あまり『医者属性』を打ち出したコンテンツを作るのはやめよう」ということだったのだが、ここまでサイト運営にハマってしまい、そして、ハマっているにもかかわらず、全く期待した通りの反応を得られない、という状況に置かれてしまうと、「何かやらなくては……」という焦りばかりを感じてしまう。そして、僕に書けそうなことといえば、あとは仕事の話しかないわけで。当時は、医療関係者のサイトそのものがそんなに多くはなく、そして、その中でも「オレは凄い医者なんだぜ!」という自慢話ではない、等身大の「普通の医者が日々感じていること」を書くというのをコンセプトにすることにした。いや、「コンセプト」とか言ってるけど、リアクションが無ければいつのまにか「なかったこと」にされていた可能性も大きかったのだけれども。

 この『Doctor's Ink』は、『活字中毒。』のような「目をつぶって振ったら大ホームラン!」というような幸運はもたらさなかったが、僕のサイトのひとつの「柱」として今でも続いている。

 こうして考えてみれば、僕にとって「それなりの成功」をもたらしたコンテンツであり、今の『いやしのつえ』の二本柱である『活字中毒R。』と『Doctor's Ink』は、いずれも「思いつき」や「行き当たりばったり」で始まったものなのだよなあ。あらためて振り返ってみると、本当に、サイト運営ってわからないよなあ、とつくづく思う。

 まあ、こんな感じで、2002年は過ぎていった。サイトに来てくれる人の数も徐々に増えてはいったのだが、それでもトータルで1日70〜80人、ユニークアクセスはその3分の2。『活字中毒。』も、『テキスト庵』界隈では少しは認知されたものの、そこから外へはなかなか広がっていかない状態。良く言えば「安定期」悪く言えば「停滞期」、そんな状況で、『プロジェクトF』は、2003年を迎えたのだった。

 『侍魂』や『ろじっくぱらだいす』は、「まだ遠い」どころか、どんどん遠ざかっていく一方で。


<第3章>「テキストサイト」の時代

こうして、それなりには人が来てくれるようになった『プロジェクトF』だったのだが、2002年の後半から2003年のはじめくらいは、まさに「頭打ち」の状態になってしまっていた。もう、「読むべき人たち」には読まれ尽くしているのではないか、などとも思った。いろんなところでアピールする方法も考えてはみたのだが、「2ちゃんねる」に晒すとか、宣伝書き込みをしまくる、というようなのはやっぱり恥ずかしいので実行することはできず、「そろそろ限界かなあ」と煮詰まった気持ちにもなっていたのだ。

創めたころの「1日10人自分の知らない人が来てくれていたら万々歳」という状況を思えば贅沢極まりないのだけれども、人間の欲望というのは限りないもので、「せっかく書いているのだから、もうちょっといろんな人、もうちょっとたくさんの人に読んでもらえないものか……」と悶々とする日々だった。また、当時はデスクワーク中心の研究室勤務になったため、私生活でも正直スランプだったのだ。誰も知っている人がいないところで、今までやったこともない仕事をやるというのは、環境の変化に弱い僕にとっては、ものすごくストレスフルだった。今から考えると、あのときは、「重度のネット依存」だったのではないだろうか。

ある夜、いつものように「テキストサイト界隈」を巡回していて、僕の目に留まったネット上の「お祭り」があった。

それは、「テキストコンテスト」という「テーマに沿ったテキストを10人の参加者たちが書いて発表し、読んだ人たちが面白かったものに投票して勝負する」というもの。それまで、第1回、第2回が行われていたらしいのだが、僕がこのイベントの存在を知ったのは、この「第3回」がはじめてだった。

しかし、その存在を知った後も、正直、自分で参加するという気持ちには、なかなかなれなかったのだ。当時の「テキコン」は、「もともと仲良しだった人たちが内輪で盛り上がっているイベント」のように見えたし(いわゆる「テキコン界隈」ってやつ)、どう考えても僕がやっているサイトは「場違い」だろうな、としか思えなかったし。

でも、ある夜、僕は不意に「決断」してしまったのだ。少し酔っ払っていて勢いで参加表明をしてしまったような記憶もある。

たぶん、「なんでこんなサイトが出てきたんだ?」と、主催者のTAKEXさんも首をひねっていたのではなかろうか。

こうして、「サイト運営に閉塞感を感じていた男」の無謀な挑戦が始まった。

参考:『第3回テキストコンテスト』

話せばものすごく長くなってしまう話なので、興味がある方は、

テキストコンテスト戦記

を読んでいただきたい。しかし、「読んでいただきたい」とか書いたけれど、あまりに自意識過剰な文章で、あらためて読み返してみたら激烈に恥ずかしいな。あと、デッドリンクだらけなのもどうか御容赦ください。ネットの世界にとって、3年半というのは、いろんなものを風化させたり、変化させたりするのに十分な時間なのだから。

それにしても、当時の僕は、とにかくいろんなものに噛み付いてばかりだったように気がするので、関係者各位には、あらためてお詫び、そしてお礼を申し上げたい。「テキストコンテスト戦記」にも書いたのだけれども、このイベントのいちばん凄いところは、「ネットで行われたさまざまなテキスト関係のイベントにおいて、数少ない『完走』したもの」であったということだと思う。ほんと、あの頃はテキストサイト華やかなりし頃で、いろんなテキスト競争とか雑文祭り、ネットウォッチサイト(一度くらい『ダークマター』に取り上げてもらいものだなあ、とか思ってたんですよね)が乱立していたのですが、とにかく中途半端なものが多くて、募集はしたものの発表されないとか、主催者が内部抗争をくり広げたりとかで、本当に「完結」したものは、ごくごくわずかだったのです。「テキコン」の結果発表のイベントがロフトプラスワンで行われているのを、職場で仕事をしながら(途中で仕事は手につかなくなったのですが)ヘッドホンで聴いていたのは、今でもよく覚えている。

テキストコンテスト」によって、確実に僕の世界は広がりました。今まで来てくれていた「医療関係者」「テキスト庵で知り合った人たち」とともに、いわゆる「テキストサイトの人たち」「テキストサイトを愛する人たち」にも少しは読んでもらえるようになったという手ごたえがあったし、アクセス数も、盛況なときは「トータル200/日(ユニークはその3分の2)」くらいまで増えた。僕は本が大好きで、文章を書くのも大好きだったので、こうして「テキストサイトの人たちの世界」の隅っこに小さな居場所を確保できたというのは、とても嬉しいことだった。まだ仕事にも職場の人たちにも慣れておらず、やたらと淋しくて辛かった時もあり、もし『プロジェクトF』があの時代になかったらどうなっていたのだろう?と今でも考えることがある。もしかしたら、もっと仕事に邁進してすごい論文とか書いてた可能性も……ないかやっぱり。

しかし、今から「歴史」の一部として「テキストコンテスト」を振り返ってみると、あれはまさにネット上で「テキストサイト」という文化が上げた最後の花火だったのかもしれない。

さかのぼってみると、この『琥珀色の戯言』が最初に書かれているのが2003年の2月17日。当時はまだなんだかよくわからなかったけど話題にはよくのぼっていた「ブログ」を「『はてな』というサービスが、500人(だったかな、確か)限定でβテストをやるらしい」ということを聞いて、借りてみたのが、ちょうどこの第3回のテキコンの開催と同じ年だった。

「ちょっとパソコンに詳しい高等遊民のサロン」だった「テキストサイト」は、少しずつ「パソコンの知識が無くても運営できて、他の人とも繋がりやすい」という「ブログ」の波にのまれていくのです。当時の僕たちは、「ブログなんて邪道だ」なんて、胸を張っていたのだけど。

ようやく「中堅(テキスト)サイト」に成り上がったかのように思えた『プロジェクトF』。しかしながら、その直後に、僕はこのサイトを閉鎖することになってしまうのだった。


<最終章>ある中堅サイトの終焉

 『テキストコンテスト』の効果もあって、そこそこ人が来てくれるようになった『プロジェクトF』だったのだが、そうやって少し人気が出てきてくれたことに「喜び」があったのと同時に、「まだまだ」というような欲がさらに増してきたのも事実だ。

 僕が最初にサイトを作り始めたとき(2000年くらい)には、「個人サイトは1日30アクセス、月間1000アクセスあれば『成功』といえる」と言われていて、当時の僕には、その数字すら夢のような世界だったのだが、結局のところ、その10倍くらいの人が毎日来てくれて、自分で「宣伝活動」をしてまわらなくてよくなり、「人が人を呼んでくれる」ような状況になってさえも、そこで満足することは難しかったのだ。僕は自分では「アクセス厨」ではないと思っていたし、あからさまにアクセス稼ぎをするような宣伝書き込みやHなタイトルをつけたりするのは恥ずかしいと考えていたのだが、少しずつ「もっと過激なことを書かなくては……」というような強迫観念に駆られていったのかもしれない。

 破綻は、いきなりやってきた。

 ちょうど夏休み、家でゴロゴロしていたときに、その「サイトバレ」が発覚したのだ。

 「そんなに簡単にバレるわけない」「これだけたくさんの人がいるのだし、気をつけているのだから、大丈夫大丈夫」と自分に言い聞かせてきたにもかかわらず、それはある日、突然に起こったのだ。しかも、単に「知り合いにバレた」のであれば「まあいいか」と気を取り直して継続することもできたのだろうが(でも、当時の僕は、「知り合いに読まれている」と思うだけで書くことに躊躇してしまって本当に当たり障りの無いことしか書けなくなってしまったと思う)、そのバレたときの内容というのは、上司の噂話を書いたもので(もちろん実名を出したりはしていないが)、冷静になって考えれば「そんなことがバレたら大きな問題になることは目に見えている」ようなものだった。そういうことを「社会に告発する!」(ってほどのことでもないんだけど)というような覚悟があったわけでもなく、ただ「こういう業界の内輪話のほうがウケるかな?」というような感覚で、僕は「暴走」してしまったのだ。

 ちょうどサイトの勢いも「右肩上がり」だったし、僕自身もサイト運営が楽しくてしょうがない時期だったので、当時は「余計なこと伝えてくれて……」とその「報告者」を少し恨んだのだけれど、今から考えれば、あの時気づいて注意してくれる人がいなければ、僕の「暴走」は続き、もっと火種が大きくなってから大爆発を起こしてしまった可能性も高い。それこそ、あの「ヤクで眠らせちゃうよ」の人みたいに、社会的に「大炎上」していた可能性も十分にある。

 該当ログだけ削除しようか、とも思ったのだけれど、知っている人に読まれている以上、もう書きたいことを書くことはできまいと考えて、すぐに『プロジェクトF』は閉鎖することにした。いままでそれを作り上げるのにかかって手間や時間に比べれば、それを「削除」するのは拍子抜けするほど簡単だった。閉鎖のページには、メールだけ送れるようにしておいたのだが、こういうのは「未練」だったのだなと思う。僕のなかでは「閉鎖」すらひとつのイベントだったのかもしれない。どんな反応が返ってくるのだろうか?と少し期待していたりもしたのだ。本当に失礼な話なのだが。

 サイトに縛られて自分の時間が無かったように思うこともあったけれど、実際にそれが無くなってみると、とてもとても淋しくなってしまった。「閉鎖」したときは気分もネガティブに高揚していたのだけれど、時間が経ってくればくるほど、その「淋しさ」を語る場すらないことが、さらに淋しさに拍車をかけた。

 結果的に、僕はわずか1ヶ月後に、また新しいサイトをはじめることになる。「たった1ヶ月!」なのだけれども、正直、その1ヶ月はものすごく長かった。


 なんだか尻切れトンボみたいな終わり方になってしまったけれど、僕が「中堅サイト」をやっていた時代の話はこれで終わりだ。「どこにでもある普通のサイトの開設から閉鎖までの歴史」でしかない。僕自身も「どこにでもいる普通の人間」でしかないから、いたしかたないところなのだが。

 それでも、今から考えると、僕にとっては「いちばんインターネットが面白かった時代」だったのかもしれない。



 予告:明日は、「いまのブログ界、そしてtwitterについて考えていること」を書いてみようと思っています。

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