琥珀色の戯言

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ソーシャル・ネットワーク ☆☆☆☆


映画『ソーシャル・ネットワーク』公式サイト

あらすじ: 2003年、ハーバード大学の学生マーク・ザッカーバーグジェシー・アイゼンバーグ)は、学内で友人を増やすためのサイトを親友のエドゥアルド・サヴェリン(アンドリュー・ガーフィールド)と共に立ち上げる。サイトは瞬く間に学生たちの間に広がり、ナップスター創設者ショーン・パーカー(ジャスティン・ティンバーレイク)との出会いを経て、社会現象を巻き起こすほど巨大に成長していくが……。

2011年3本目の劇場鑑賞作品。
公開2日目・日曜日の夕方の回を観たのですが、観客は50人くらいでした。


映画館で、この予告を観て以来、僕はこの映画の公開を楽しみにしていたのです。

僕はもともと伝記映画が大好きで、デヴィッド・フィンチャー監督も好きだし、「世界最大のSNSFacebook』誕生の裏側を描く」というテーマにも興味がありました。
それに加えて、これまでにさまざまな映画賞を受賞し、「アカデミー賞最有力候補!」とまで言われているとあっては、観ないわけにはいきません。


観終えて、まず感じたことは、率直なところ、「良い映画ではあるけど、ちょっと期待しすぎたかな……」だったんですけどね。

冒頭の、主人公・ザッカーバーグと(元)恋人・エリカとの会話(口論?)のシーンは素晴らしい!
ものすごく早口で、さまざまな話題をあちこちザッピングしながら語りまくるザッカーバーグ
エリカの母校をバカにしまくり(でも、エリカは「ボストン大学」なのに!)、自分のことしか喋らない男。
(で、本人はハーバード大学の学生だったりするから、またイヤミなんですよこれが)
「あなたがモテないのは、オタクだからじゃなくて、人間性に問題があるからよ!」というエリカの捨てゼリフに、僕も心の中で拍手してしまいました。
これほど主人公のキャラクターが観客に伝わる導入部というのは、滅多にないような気がします。
2人は、バーで飲みながら、ただ喋っているだけなのに(だからこそ、ザッカーバーグは「こういうことを日常的に喋っている男」だというのがわかるのです)。

この映画、予告編を観たときの印象では、「Facebookを創りあげた天才・ザッカーバーグが、そのあまりにも大きな成功のために、周囲とうまくいかなくなり、人間関係に苦しむようになっていく」という哀しい人間ドラマだと思っていたんですよ。
予告編のBGMもすごく印象的でしたし。

でも、実際に本編を観てみると、ザッカーバーグという人は、能天気というか、ほとんど「苦悩」なんてせず、Facebookを成長させることばかり考えているのです。
それでも、その才能でFacebookがあまりに大きくなってしまったがために、周囲の人々はザッカーバーグに振り回されていきます。
「どうしてザッカーバーグは、自分たちの気持ちをわかってくれないんだ?」
この映画でのザッカーバーグは、そういう「他者への気配り」みたいなのが、基本的に欠落している人間です。
本人は、ただFacebookを進化させられる環境があればいい。
しかしながら、これだけの大きな組織になると、「友達とのサークル活動」の延長ではやっていられなくなるのも自明の理ですよね。


僕は、この映画の登場人物たちに、ほとんど感情移入できませんでした。
「他人の気持ちがわからない男」ザッカーバーグ
「良い奴で、いちばん共感しやすそうだけど、Facebookを切り盛りするだけの才覚はない(でも、自分ではそれを認めたくない)男」エドゥアルド・サベリン
「無視されたことがないエリートが、無視されてしまったことによってプライドを傷つけられ、『復讐』を望むようになった」ウィンクルボス兄弟
「すごい能力とセンスを持っているけれど、人間的にはだらしなく、目的のためなら手段を選ばない男」ショーン・パーカー
みんな、「友達になりたくないタイプ」なんですよ本当に。
登場人物が白黒分かれていないというか、「黒に近い灰色」ばかり。

ザッカーバーグとともにFacebookを立ち上げたサベリンは、Facebookのために多額のお金を自腹で供出し、スポンサー探しのために身を粉にして奔走します。
でも、彼の「懸命の努力が生んだ、ささやかな成果」は、ナップスターをつくった「IT業界の有名人(問題児、でもあるのですが)」ショーン・パーカーの「知名度」と「人脈」の前に、あっさり吹き飛ばされてしまうのです。
ザッカーバーグを利用して、遊んでばかりいる」ように見えるショーン・パーカーのような人間のほうが、大きな企業になってしまったFacebookにとっては「有用」であるというのは、それが「現実」であるだけに、すごく悲しいことです。
ただ、それはデヴィッド・フィンチャー監督が描くまでもなく「いまの世の中の真実」なんですよね。


この映画、予告編で予想されたような「悲劇性」は乏しく、訴訟に関しても『アビエーター』みたいな激しいやりとりはありません。
ザッカーバーグは「面倒だから、もう、さっさと終わらせようよ。みんなが自分を責めなければ、お金を出すのは構わないから」という態度を貫きます。
いや、貫く、というよりは、彼は最後まで「なんで自分がこんなふうに訴訟を起こされているのか、理解できていない」と言った方が正確なのかもしれません。
そういう、ずっと趣味の延長でパソコンをいじっていた「才能とひらめきだけの人間が、世界の『欲望』に突然さらされる」のも「IT社会」の一面なのでしょう。

あるシーンで、ザッカーバーグが見せる「自分でもよくわからない孤独感」が描かれるのですが、同じようにパソコンの前に座ってしまう僕にも、あの気持はなんとなく伝わってきました。
ただ、あれはFacebookを使ったことがない人には何をやっているのかよくわからないと思われますし、いちいち解説すると興醒めだし、そもそも、Facebookそのものが日本ではあまりメジャーではないのが、この映画にとってはつらいところではありそうです。
アメリカの有名大学の「クラブ」なんて、日本人である僕にはイメージしにくかったですし(あれはエリートたちの「社交クラブ」みたいなものだと考えればいいんですよね」。

本編が終わり、スタッフロールが流れ始めたとき、僕は「えっ、もうこれで終わり?」と思いました。
120分、大爆発シーンや鬼気迫るやりとりがあるわけでもないのに飽きさせない作品ではありますが、関係者がまだみんな存命どころか、ザッカーバーグはまだ25歳なだけに、消化不良な終わりかたも、いたしかたないところではあるのでしょうけど。


「さまざまな条件で検索しあえる、5億人のネットワーク」をつくることと、「目の前にいてくれる、信頼できる一人の友人」をつくること。
ソーシャル・ネットワーク」は、本当に人々に「幸せ」をもたらしているのでしょうか?
あのシステムが生みだしているのは「限りない欲望」と「往生際の悪い希望」そして、「単なる時間潰し」だけのような気もします。
ただ、もしかしたら、みんなが求めているのが「目の前の自分の思い通りに動いてくれない友達」じゃなくて、「そういう、もっと曖昧で形のない、自分の思いのままになるもの」だからこそ、「ソーシャル・ネットワーク」は広がり続けているのかもしれません。

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