琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

セクハラの誕生 ☆☆☆☆


セクハラの誕生: 日本上陸から現在まで

セクハラの誕生: 日本上陸から現在まで

内容説明
セクシャル・ハラスメントが日本に本格上陸してから30年、「流行語大賞」受賞から20年、そして今。
議論を呼びながら定着していった新しい概念は日本社会をどう変えたのか?
バブルと狂騒の80年代を背景に、〈セクハラ〉の上陸を決定づけた2つの裁判の当事者たちの証言から描き出す。
渾身のノンフィクション巨編!

 この本、「西船橋駅ホーム転落死事件」「福岡裁判」という、日本での「セクハラ」の概念をつくる大きなターニングポイントとなった2つの裁判を描いたノンフィクションです。

 1986年1月14日に起こった「西船橋駅ホーム転落死事件」のあらましは、以下の通りです(Wikipediaの「事件概要」より)。

 1986年1月14日23時頃、日本国有鉄道(現在のJR東日本)総武線西船橋駅の4番線ホームで女性(当時41歳)に対して泥酔した男性(当時47歳)が、頭を小突いたり罵声を浴びせたりした。更に男性が両手でコートを掴んできたためにもみ合いとなった。
その後女性は、男性の行為を回避するために、男性を突き飛ばした。男性は泥酔のためかよろめいて線路上に転落した。その場にいた他の客が引き上げようとしたが、男性は入線してきた電車にひかれ死亡した。
 女性が男性の暴力から逃れるために身体を小突いたとしても、正当防衛が成立する可能性がある。しかしこの事件では、泥酔した者を線路側に突き飛ばしたため、ホームから転落する恐れは予期できたのではないか、と指摘された。そのため捜査機関は女性を勾留するとともに、後述のように起訴猶予にせず刑事事件として立件した。

 こんなの、酔っぱらいが悪いに決まってるだろ……と憤りを感じながら読み始めたのですが、実際の裁判は、僕が受けた印象のようには、なかなか進んでいかなかったのです。
 この女性の職業がストリッパー、男性の職業が教師だということが報じられ、マスメディアでは個人情報が暴露されまくるなど、事件は「興味本位」に取り沙汰されてしまった面もあったのです。
 判決はここには書きませんが(できればこの本を読んでみていただきたいし、そうでなくても検索すればすぐわかります)、なんというか、こういう事件に巻き込まれてしまうと、そこでどう頑張ってもどうしようもなくなってしまうのかな、という暗澹たる気分になりました。
 もちろん、この事件が「セクシャル・ハラスメント」の概念だけでなく、「日本人の酔っぱらいに対する甘さ」とか「公共の場所での他人への無関心」とかへの大きな教訓になったのは間違いないことなのですけど。

 それにしても、「当事者」は、救われない。
 裁判に勝っても、「ようやくゼロの地点に戻れる」だけ。


 この本を読みながら、僕は「セクハラとは何か?」ということよりも、「なんて人間というのは孤独なんだろう……」ということを考えずにはいられなかったのです。

 「福岡事件」の被害者「原告A」こと晴野まゆみさんは、当時のことを、このように述懐しておられるそうです。

 晴野は自己を「分裂」させて奔走していた。原告A子は透明人間であったり、晴野まゆみであったり、無数の女性の象徴にもなったりした。一方の晴野まゆみ本人は原告A子になることもあれば、支援団体のメンバーとして原告A子を支え、そしてフリーライターとして働く日々も過ごしている。何の疑問も抱かずに、晴野は様々な場面で求められるキャラクターに「変身」してきた。
 ところが、ある一言が粉々に晴野を打ち砕いた。
 それは編集長の証言がよれよれになってきた頃のことだった。ひょっとすると、いいところまでいくのではないかと誰もが漠然とした期待を抱いていたが、そんな時期に交流集会が開かれた。
 集会終了後、茶話会が開かれ、傍聴者と支援団体の交流が行われた。メンバーの紹介役を務めた女性は一人一人の役割を傍聴者に説明していたが、晴野のところに来ると言った。
「そして、この人が何もしない被告」
 晴野は耳を疑った。冗談のつもりだったのかもしれないが、やはり晴野の心は深く傷ついた。それは、ある意味で支援者の言ったことが当たっていたからだった。原告A子は透明人間だった。姿も形も見えない人間が「何かできる」はずがない。それに、晴野はフェミニズムの知識が皆無だったため、支援団体の中では「意識の遅れた」「勉強をしなければならない」存在だった。
 それに何より、晴野は弁護料を支払っていなかった。全ては弁護士の「無料奉仕」と支援団体のカンパに頼っていた。しかも、この裁判は晴野のものではなく「全ての女性」のために行われているというのだから、確かに晴野は「何もしない被告」なのだ。結局のところ、晴野を傍聴者に紹介した団体のメンバーは、本人は意図しなかったかもしれないが、必要なのは「原告A子」であって、それが晴野であるかどうかはどうでもいいと言ったに等しいのだ。晴野、もしくは原告A子は、フェミニズム論者の担いだ御輿にすぎなかった。それは紛れもない事実であって、それを思い知らされたから晴野は傷ついたのだった。
 だが、晴野はあふれ出そうになる気持ちを必死に抑え付け、とりあえず何事もなかったように振る舞った。とはいえ、心の中にぽっかり穴が開いたようになってしまった。

 このような大きな裁判では、弁護士や支援者の力がなければ、闘っていくことは難しいでしょう。
 その一方で、「被害者個人」は、どんどん象徴化されてしまい、個人の気持ちは、顧みられなくなっていくのです。

 これは、「セクハラ裁判」に限らず、人が何か社会に対して「運動」を起こそうとする際には、かならず突き当たる壁なのかもしれません。
 結局、その裁判に勝っても、被害者が救われることはない。

 そういう立場になってしまうことそのものが「絶望的な不運」なのだろうか、と考えずにはいられないのです。
 そして、その「不運」に共感し、ともに闘おうとしてくれたはずの人たちも、どんどん「自分の信念」のほうが、かわいくなってきます。
 この本の後半で語られている、晴野さんと支援者たちの「断絶」は、「セクハラ裁判」だけにみられるものではないはずです。
 この裁判は、「たくさんの女性たち」を救ったのかもしれないけれど、「原告A子」は救えなかった。


 この本のなかで、1990年に作家の松浦理英子さん(『親指Pの修業時代』『犬身』を書いた人です)が『中央公論』に書かれた「セク・ハラが浮き彫りにしたもの」というエッセイが紹介されています。

「印象的だったことの一つは、例によってバカだのブスだのの罵詈雑言の混じった一部の男たちの猛反発だった」
 松浦は「セクシャル・ハラスメント」ではなく「セクシュアル・ハラスメント」と表記しているが、当初「仕事の妨害あるいは退職の強制を目的とした女性への性的暴行・愚弄」と定義されていたセクシュアル・ハラスメントが「職場で女性であるがために受ける軽視・侮辱・誘惑」へと拡大、かつ平板化したため、女性へのアンケート調査などに象徴されるように「該当事項」が増えてしまったとする。
 だからこそ男性社員は「全く下心のないアフター・ファイヴの誘いや雑談中の何気ないひとことも女性社員たちに厳しくチェックされセクシャル・ハラスメントだと騒ぎ立てられてはかなわないと恐れ」たのであり、それを松浦は「煩わしがるのはわからないでもない」と理解を示している。しかし、公の場で怒りを顕わにしている男たちの論調は「そういったニュアンスよりももっと生臭い感情が目立つ」とし、結局は「触らせてくれない女」に対して猛りたっているのではないかと勘ぐりたくなる、と記す。
 一方の女性は「職場では性の対象として見ないでほしい」と訴えているのは明らかだが、それでも「好ましい男性社員」とは「オフィス・ラヴ」を愉しんでいるのだから、「私が性の対象としは見ていない男性には、私を性の対象としては見てほしくない」という意味合いもセクシュアル・ハラスメントは含んでいる。女性は性的関心のない男性を性的には徹底的に排斥する。こうした女の体質は男に憎まれがちだ。今回の「セクハラブーム」に対して一部の男性が非常に憤ったのは、アンケート調査の中にかねてから憎々しく思っていた女のこの体質を読み取ったからこそではないか――、こう指摘する松浦はコラムを次のように締めくくる。
「女は男に対して、どうしていちいち性的対象として見るのよ、と怒り、男は女に対して、全く性的対象として見ないなんて不可能だ、と怒る。男と女が互いのセクシュアリティに腹を立て合う悲しくも滑稽な光景はいつの時代にも見られるのだろうが、おかげでセクシュアル・ハラスメントという重大な問題が正しく認識されなくなるのはまずい。もう一度きちんと論じられるべきだろう。ところで「触られたくないのなら挑発的な服装をするな」と放言した男たちだが、いくら不愉快だといってそれほど無茶苦茶な暴論を吐いては、自分で自分の品性を下げるばかりではあるまいか。衷心から心配申し上げる次第である」

長々と引用してしまってすみません。
これは20年前に書かれたものなのですが、現在、2011年に読んでも、全く違和感がありません。
「触られたくないのなら挑発的な服装をするな」って言う意見、いまでもたまにネットで見かけますし。
そして、「セクハラ」という言葉と概念の浸透によって、少なくともある程度の抑止効果はみられているのだと思います。
それでも、「なんだかなあ」って思うような場面に出くわすことはありますし、男性のなかにも「男同士でセクハラ的な話題をすることによる仲間意識の再確認」みたいなのはあるんですよね。


現在は、「セクハラ」は、「パワハラ」こと「パワーハラスメント」(職場などでの「行き過ぎた教育、指示、命令」あるいはそれが罵倒や暴力の形を取り、対象者がうつ病になるなどの被害を受けること)に性的要素が含まれたもの、という考え方も広がってきているそうです。

しかしながら、いまの企業の偉い人たちの世代にとっては、「パワハラ」を実感として理解するのは難しい面もあるようです。

 山田(弁護士)は職業上、セクハラだけでなくパワハラについても、顧問を務める会社などで説明することがあるが、ある会社の重役から悲鳴が上がった。
「私が受けてきた教育は、ほとんどパワハラでした。でも、それで今の私があります。だとすると、どうやって後輩を指導すればいいんですか」
 山田は切実な悩みだと心の底から思った。実際、自分も若手弁護士の時は、それなりにパワハラ的な職場環境で鍛えられてきた。だが、今の時代では通用しなくなったのも事実であり、山田はこう説明することにしている。
「今の若手社員は、被害を受けると簡単に辞めますし、簡単に訴えます。また、昔の社員と現在の社員を安易に比較することは慎むにしても、精神的な被害が発生するケースが増えているのは事実です。”ハラスメント”によるトラブルを解消できなかったり、訴訟を起こされたりすることは、企業にとっては本当に大きいリスクなのです。そんなことのないよう、きちんと普段から対策を立てておかないと、会社に巨大な損失が発生してしまうかもしれないのです」

 僕も職場の先輩の苦労話を聞いていると、「ああ、この人たちの若手への要求は『パワハラ』というより、『自分たちの世代での常識をそのまま当てはめようとしているだけ』なのかもしれないな」と思えてくることがあります。
 本当に、ハードな環境で仕事をしてきたみたいだから。

 そこで「後輩にはラクをさせてあげたい」というのではなくて、「自分のように苦労しないと、将来困ったことになる」と考えるのは、この人たちなりの「やさしさ」なのかもしれません。
 たぶん、この人たちも若手の頃は、「上司の押しつけ」がイヤだったはずなのだけど……

 「セクハラ」という言葉、とくに男性にとっては、かなり圧迫感があるのではないかと思います。
 でも、この本は、先述したように「世の中を変えた裁判と、空洞化してしまった『いちばん真ん中にいたひと』の物語」として、とても興味深く読めた一冊でした。

アクセスカウンター