琥珀色の戯言

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【読書感想】ドアの向こうのカルト ☆☆☆☆☆

ドアの向こうのカルト ---9歳から35歳まで過ごしたエホバの証人の記録

ドアの向こうのカルト ---9歳から35歳まで過ごしたエホバの証人の記録


Kindle版もあります。

内容(「BOOK」データベースより)
内容紹介:九歳の時に母親の入信をきっかけに家族全員がエホバの証人となり、25年間の教団生活の後に親族一同が教団を抜けるまでのドキュメンタリー手記。著者は子供の頃からロンドン、ロスアンジェルス、ニューヨーク、ハワイ、日本での生活経験を持つ。エリート銀行員の妻であった母親が「家族のために」と良かれと思い聖書の勉強をエホバの証人たちと始める。しかしやがて教団の厳しい規則が家族一同の生活を支配するようになる。元信者ならではの目線で書かれており、教団の実態、教団信者の内情がリアルに克明に描かれている。


著者について
ロス在住、1971年広島県生まれ。少年期の大半をアメリカで過ごす。ヤフーを経て、ブランディング会社で東京ガールズコレクション等のプロデュースを行う。2010年に独立。著者に『給料で会社を選ぶな! 』。


書店で見かけて購入。
僕は特定の宗教の信者ではありませんが、以前から「カルト宗教」に関する話には興味があって、宝島社の「告発本」などを読んでいました。
「カルト宗教は怖い!」という気持ちと、「怖いものみたさ」そして、「自分(や家族)はこういうのに引っ掛からなくてよかった……」という安心感、あるいは優越感を得るための読書だったような気がします。

「聖書を学ぶのは家族にとって良いことだ」と母親がエホバの証人と聖書の勉強を始めたのがきっかけで、私の家族の壮絶な25年間のカルト生活がスタートした。
 エホバの証人には細かい儀式や規則がなく「自由な民である」という主張とは裏腹に、実際にはさまざまな抑圧の決まりごとがった。誕生日、クリスマス、正月など全ての行事はご法度。学校では体育の武道の授業から運動会の騎馬戦まで禁止。国歌のみならず校歌を歌うのも禁止。タバコはもちろんダメで、さらに乾杯の行為そのものまで禁止された。
 当時は週に三回の集会があり、たとえ小さな子供であっても二時間おとなしく座っていることを強要された。それができなければ、虐待に近いムチが加えられる。親の命令は神の命令であるから、背くと容赦なく叩かれる。さらに、娯楽はサタンの誘惑の道具であるとして、母親は私が持っているロックのカセットテープを全て捨てていった。寺や教会が写っている写真にも悪霊が憑くと言って、そのような写真を一枚一枚アルバムから抜き出しては捨てた。
 婚前交渉はおろか、思春期のデートも禁止である。エロ本は見てはならないし、男子であればオナニー禁止という異常な規則が敷かれる。当然、結婚相手は信者同士でなくてはならない。
 仕事仲間であっても信者外の人とは友達になることも注意の対象となる。なぜなら信者以外の人はサタンに惑わされており、信者の信仰を腐敗させるからだ。

この本、『エホバの証人』の元信者が、9歳のときから25年間にわたる「信仰生活」そして、信仰を捨て、周囲の人たちを説得し、「日常」を取り戻していくまでのことが、かなり克明に書かれています。
こういう本は、「洗脳から抜け出した人」が、教団への怒りをこめて書いているものが多いのですが、著者は、かなりフラットに、そして、信仰していた当時の気持ちに正直に向き合っています。


著者は1971年生まれですから、ちょうど僕と同世代で、時代背景が僕の人生と共通しているというのも、読みやすかった要因かもしれません。


著者のお母さんは、もともと「綺麗好きで、潔癖性ぎみ」であり、「学生時代から、キリスト教などの宗教的なことに興味を持っていた」そうです。
海外赴任によって、アメリカで暮らすことになった一家が、現地の日本人コミュニティのなかの「信者」と接し、著者のお母さんの「聖書の勉強をするのは、悪いことじゃないでしょう」という考えから、『エホバの証人』への信仰に、家族が向かっていくことになったのです。


この本を読んでいると、『エホバの証人の信者』のあいだにも、さまざまな「温度差」があるのだということがよくわかります。
そして、信者たちは、自分たちが信じているのが「カルト宗教」だとは、微塵も疑っていないのです。

 この頃から母親は映画でもテレビでもいちゃもんをつけるようになった。何を見ていても横で捨て台詞を吐いていく。例えば戦争映画を見ればこう言う。
「この人たちは、聖書を知らないからこうなるのよ」
「暴力はクリスチャンらしくないわ」
「どうせ楽園がこないと、解決されないのよ」
 私が「だって映画じゃん」というと、「やっぱり世の娯楽はね……」で終わる。
 実際問題、証人である母親たちの会話は投げやりだ。どんな問題も全て楽園か、サタンか、ハルマゲドンの三つの言葉で片付けてしまう。
 政治問題であれば、「結局サタンの支配だからね」。
 戦争報道を聞けば、「楽園がこないと解決しないのよ」。
 環境問題であれば、「どうせハルマゲドンが来るからね」。
 経済格差であれば、「楽園じゃないと無理よ」。
 こんな調子で全ての諸問題を安易に片付ける。そして最後に、同じ調子でこう言う。
「どうせ全ての娯楽は、サタンの産業が作り出すのだから、何も見ない方がいいわ」

これは、著者が中学生くらいの話だそうです。
「ごく普通、あるいは、ちょっと高学歴で潔癖性ぎみの若いお母さん」が、5年くらい信仰を続けていると、こういうふうになってしまうのです。

 そんなある日、ある時間がきっかけでうちの母親が発狂した。部屋に隠し持っていた『北斗の拳』のマンガが見つかってしまったのだ。
「闘いを学ばないクリスチャンがなぜこのような血みどろのマンガを!!」
「こんなサタンのものを家に持ち込んで汚らわしい!!」
 私の顔をたて続けに叩いて、私の頬は赤くなる。こういう時、私は逃げないで立ったまま母親を睨み続けた。

よりによって、『北斗の拳』!
信仰を持たない僕にとっては、失礼ですが「笑っちゃうような話」なのですが……
こういう教育が子供の人格に影響を与えるのは当然のことです。
しかしながら、文字通りの「愛のムチ」で厳しくしつけられた子供たちの「外見」をみて、「あんなに礼儀正しく、きちんとしているなんて!」と感心してしまう親も少なくないのです。


ロックやアートに興味があり、創造的な仕事に憧れていた著者ですが、「もうすぐ世界の終わり(ハルマゲドン)が来るのに、学歴や世俗の『良い仕事』などに意味はない」という教団の方針に逆らってまで大学に行くことはできず、教団内での評価を高めようとするものの挫折し、布教活動や集会による時間的な制約や教義による制約から、生活苦を味わうことになります。
ところが、間近に迫ったはずの「ハルマゲドン」は、その時期が迫ると「しばらく延期」となり、その延期宣言に対して謝罪もせず、「大学とかに行ってもいいよ」と教団側は態度を変化させていくのです。
そして、妻の切迫流産という事態が、著者が『エホバの証人』の活動から抜けるきっかけとなっていきます。

 私は頻繁に伝道に出て、毎回群れの仲間のために運転をしていた。ガソリン代もかさむが、お金がいつも足りない。だから洗車もできずに、ガソリンスタンドで紙ナプキンを濡らして車を拭いていた。伝道では小刻みにハンドルを切るので、タイヤがダメになる。そしてある日、タイヤがパンクした。しかも皮肉なことに同じ時期に、家にあったPCのモニターが煙を吹いてショートし、ハードディスクも故障した。
 ここで完全に頭にきた。とにかくお金がない! そして伝道に行けばもっとお金がなくなる。エホバからの祝福があるというが、お金が空から降ってくるわけではない。しかも今の超貧乏の結果は、組織に全てを捧げてきたからだとも言える。一体エホバは何をやっているんだ! と腹立たしかった。しかしもっと腹が立ったのは、母親に対してである。「貧乏もエホバのためよ」と言いながら彼女は頻繁に旅行をしていた。あっちの家はお金に困っていないのである。こっちは苦労しているのだが、向こうはのうのうと暮らしていることが頭にきた。親は好き勝手に方針を指導するが、結果、割りを食うのは母親でなく私である。この時に一つ決めたことがある。
「今後絶対に母親のいうことは聞かない」

「なぜ『真理』がこんなに変わるのか? 教えが正しいのなら、なぜ、家族はこんなに苦しまなくてはならないのか? 妻が伝道活動に出られないようなことになるのか?」
ただ、著者の「脱会」はある意味、著者が「自分で物事を考えようとする、『不良信者』だったからこそ可能だったこと」なのかもしれません。
疑うことをやめてしまえば「これも神が与えた試練だ」と受け容れてしまうしかないのだから。
著者の場合は、母親が入信したのが9歳という、多少なりとも物心がついた時期だったため、捨てきれない「俗世の欲望」があって、それが『エホバの証人』から抜け出すのに役立った面もありそうです。
生まれたときから刷り込まれていたら、「反抗する」という発想すら、失われてしまったかもしれません。


著者は、『エホバの証人』を断罪しようとしているのではなく、「自分が人生で見てきたこと」をそのまま写し取ろうとしているように思われます。
カルト宗教の信者なんて、日々怪しげな集会を行って、世間一般の人々を「洗脳」しようとしている「おかしな人々」であるというイメージが持たれがちなのですが、実際は外部からみると「おとなしい、礼儀正しい人々」であることが多いのです。
内心では「信者以外はサタンの手先」だと思っているとしても。


この本では、『エホバの証人であることのメリット』も書かれています。
各地域にコミュニティがあって、引っ越しをしても(海外でさえも)、「仲間」が必ずいること。
信者の家族ぐるみでの付き合いはさかんで、いろんな家庭の様子をみたり、子どもの頃から、大人と接すること。
そして、子どもの頃から教会で多くの人の前で話をするので、「プレゼンテーション能力が高くなった」というのも、やや苦笑まじりに語っておられます。
そのかわり、信者以外と深く関わる機会が少ないため、「抜ける」となると、ひとりぼっちになってしまうというリスクを背負うこともあります。
著者は、自分が『エホバの証人』を抜けたあと、周囲の人や自分が教化してきた人々も説得しようとするのですが、すべてがうまくいったわけではありません。
家族も友達もみんな信者、というある程度年をとった人を、いまさらそのコミュニティから引きはがすようなことをするべきなのか?
著者は「相手の状況をみて、強く説得しない場合もあった」そうです。


これを読んでいると、ある人がカルト宗教の信者になるか、ならないかというのは、まさに「紙一重」というか、ちょっとしたタイミングの違いが大きいのではないかと思うのです。
著者のお母さんだって、住み慣れた日本で生活していれば、たぶん、「普通の人生」をおくっていたし、宗教的なものに興味を持ったとしても、こんな形になはらなかったのではないでしょうか。
そして、これと同じことは、どこの家庭にでも起こりうることなんですよ、たぶん。

 2010年の統計では、エホバの証人の数は世界中で約750万人である。日本国内では22万人弱の信者がおり、会衆の数は3118となっている。この22万人という数字は、他の教団にありがちな、籍を入れているだけの信者数とは意味合いが異なっている。成員のほぼ全員がアクティブな伝道者であることが義務づけられているからだ。この統計は毎月必ず伝道と集会に出ている信者の人数である。日本の人口比率からすると数え方によるが500〜600人に1人となる。ただし都会のような人口密度の高いところでは200〜300人に1人となるとも言われている。ハワイでは一時期150人に1人と言われていた。こうなると必ず街のどこに行っても証人たちに会う。


読みやすいし、ひとりの人間の体験を語った本として、(不謹慎かもしれませんが)「面白い」と思います。
「宗教に興味がある」人は、ある特定の考えに傾倒する前に、ぜひ一度読んでみていただきたい。


ところで、この本を読んでいていちばん印象的だったのは、著者のお父さんのことだったんですよね。
「この人がもっとちゃんとしていれば……」と憤るべきなのか、「これも家族を守るためだった」と考えるべきなのか……

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