- 作者:今村夏子
- 発売日: 2019/12/06
- メディア: 文庫
Kindle版もあります。
内容紹介
主人公・林ちひろは中学3年生。出生直後から病弱だったちひろを救いたい一心で、両親は「あやしい宗教」にのめり込んでいき、その信仰は少しずつ家族を崩壊させていく。前作『あひる』が芥川賞候補となった著者の新たなる代表作。
この作品、「新興宗教にハマってしまった家庭」を描いているということもあって、発表時からかなり話題になっており、芥川賞でも有力候補と目されていました。
結局、受賞はならず、僕もなんとなく読みそびれていたのですが、今回、『本屋大賞』にもノミネートされたということで手にとってみました。
読んでみて、いちばん感じたのは、「読みやすい」ということだったんですよね。
芥川賞候補になるような作品のなかには、前衛的な内容や凝った文体のものも多いのですが、これは、本当にスラスラ読める。小学校高学年くらいでも読むことができると思うし、著者も、なるべくたくさんの人、広い世代に読んでもらいたい、と考えているのではなかろうか。
僕は特定の宗教を強く信仰しているわけではないのですが(いわゆる「葬式仏教」的な仏教徒)、最近、あらためて感じるのは、「人は死んだら無になる」という科学的な解釈というのは、ときにいたたまれなくなるものだな、ということなんですよ。
そして、「宗教に魅かれずに生きていけるというのは、恵まれているのではないか」とも思います。
この『星の子』の冒頭で、主人公・林ちひろの両親が、ある新興宗教にハマってしまった理由が語られているのです。
それは、子供の頃、病弱だったちひろが、とある「特別な水」と称するものを使ったのと同時期に、その病気が改善したことでした。
どんな治療をやってもうまくいかず、苦しんでいる小さな娘がよくなったのをみて、両親は「救われた」のです。
こういうのって、いくらでも解説はできるんですよね。プラセボ効果とか、病気のなかには、成長とともに自然に軽快・改善するものがあって、その時期と「特別な水」を使った時期が偶然合致していた、とか。
でも、何をどうやっても救われない、と絶望していた当事者は、そんな「合理的な説明」よりも、「目の前にあらわれた結果」を信じてしまう。
自分の子供が、同じような状況だったら、どうだろうか?
僕たちが、ふだん、「あやしい宗教にハマっている、おかしな連中」だと思っている人々にも、それぞれの理由が、きっとあったのでしょう。
某宗教団体が戦後の高度成長期に勢力を伸ばした理由に、田舎から集団就職で知り合いもなく東京に出てきた人たちの孤独を「宗教的な仲間」をつくることによって癒した、というのがあったそうです。
出口治明さんという方が、『仕事に効く 教養としての「世界史」』という本のなかで、こう書いておられます。
ただ、こうして、神様や宗教が生まれたのですが、なぜそれが発展して今日まで長続きしているかと言えば、その存在が、本質的、歴史的には「貧者の阿片」だったからです。不幸な人々の心を癒す阿片です。もちろん、生きるよすがを与えたり、人を元気づけるなど宗教にはその他にも積極的な存在理由を見出すこともできますが。
農業が発達して余剰生産物ができると、支配階級と非支配階級が必ず生まれます。もちろん、大多数は貧しい非支配階級です。彼らにしてみれば、王様に収穫の大半は取られてしまって生活が苦しい。頑張ってもそんなにたやすく報われそうにない。けれども、この理不尽さを持っていくところがありません。そのときに、次のようなことを囁かれたらどうでしょうか。
「現世はいろいろな苦しみに満ちているけれど、死んだら次の世界があるよ。いま苦しんでいる人は、みんな救われるよ」
現世とあの世を分けて、あの世では救われるという宗教のロジックは、普通の人には非常にわかりやすい。納得できるロジックです。
もしも、こういう行いを積めば2年後には金持ちになれますよと言って、そのとおりになれば、それは圧倒的な力を持つ宗教になるでしょう。けれどそれは、誰にもできない。どんなに力のある宗教でも、これをやれば必ず成功する、などという教えはない。そうすると、貧しい人を納得させようと思えば、この世はいろいろな理由があって苦しみに満ちているけれど、彼岸に行ったら楽しいことがありますよ。だから、いまは忍んで耐えて明るく暮らそうね。そう言ってごまかすのが、一番てっとり早い。
宗教は現実には救ってくれない。けれども心の癒しにはなる「貧者の阿片」なのです。いつの世も貧しい人が大多数ですから、「貧者の阿片」の需要は多い。宗教は盛んになります。
こういうのを読んで感じるのは、「宗教を『貧者の阿片』と断言できる人というのは、よほどの合理主義者か、理不尽な不幸に見舞われたり、どうしようもない状態に置かれたりしたことがない人なんだろうな」ということなんですよ。
大部分の人は、そんなに強くはなれない。「藁にもすがりたくなる」こともある。
この『星の子』を読んでいると、「集会」に連れていかれたり、「水」を使った儀式に付き合わされたりしながらも、主人公のちひろには、「学校での友だち」もいるし、両親もヒステリックな「しつけ」を行っているわけでもありません。
もっと縛りがきつい「信者の家庭」も少なからず存在しています。
だからこそ、この『星の子』を読んでいる側にとっては、「ひどい親」「洗脳されている」と断罪することも難しい。
ちひろの姉は、「あまりにも普通とは違う環境」+「親が自分の妹(ちひろ)のことばかり見ているように思えること」耐えられなくなって家を出てしまうのですが、ちひろは、どちらかというと、困惑しながらも、現状を受け入れているようにみえます。
それは、読んでいて、「もっと反発しろよ!中3だろ!」とか、ちょっと思ってしまうところでもあるのですが、最初の理由が「自分のため」となると、なかなかそうもいかないのでしょうね。
一度信じていたものを捨てるのは、本当に難しい。
そこが自分の世界になってしまっていて、そこには仲間もいる。
それを捨てたからといって、それ以外の世界が自分を積極的に受け入れてくれるとはかぎらない。
「宗教にハマっている家の子供」って、傍目でみると「しつけが行き届いていて、ちゃんとしている」ように見えることもあるんですよね。陰で行われているのが、暴力的な「しつけ」であっても、外部からはわかりにくい。
(それを利用して、子育てがうまくいかない親を勧誘しようとする教団もあるみたいです)
この本を読んでいると、「こんなおかしな新興宗教にハマっているなんて、子供がかわいそうじゃないか!」と「しかし、これもまた、家族のひとつの形ではないのか」という、ふたつの気持が入り乱れてくるのです。
ちひろの両親の行動は、「普通」からみると変だし、彼ら自身も、内心、そのことに気づいてきている節もある。でも、自分たちは、今さら、この場所を捨てられない。
でも、娘は、自分たちの子供たちまで、このままで良いのか?
もっと極悪な両親とか、虐待されている子供とかなら、「わかりやすい」と思うんですよ。
この『星の子』は、ものすごく中途半端な小説だと感じます。
紙の本だと、残りページの薄さで「終わり」がある程度予測できるのだけれど、今回は電子書籍だったので、「えっ、これで終わり?」って呆気にとられました。
それは、「書かなかった」のか、「書けなかった」のか。
ただ、そういう「わかりにくい」というか、「子供を犠牲にするな」と「このくらいは多様性のひとつ」の間にあるような「中途半端な話」だからこそ、この小説は素晴らしいのだとも感じるのです。
現実の大部分は、そういうグレーゾ—ンに存在しているものだから。