琥珀色の戯言

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【読書感想】国語教科書の闇 ☆☆☆


国語教科書の闇 (新潮新書)

国語教科書の闇 (新潮新書)

内容(「BOOK」データベースより)
国語の教科書が、変だ。「羅生門」「こころ」「舞姫」は、議論もされずに「定番教材」と化し、横並びで採録される没個性ぶり。国語教科書がここまで画一化したのはなぜなのか?そもそも、これらの「暗い」作品は教材にふさわしいのか?「定番小説」という謎、知られざる舞台裏、採択を決定する「天の声」、教員の本音、仰天の実態。問題は歴史教科書だけじゃない。もう一つの「教科書問題」がここにある。


『国語教科書の闇』という、かなり刺激的なタイトルがつけられている新書なのですが、実際は「なぜ国語の教科書には、どれも同じ『定番小説』ばかりが採られているのか?」について丁寧に論考されたものです。
現場の国語教師への聞き取りもされています。

羅生門」と「こころ」は、教科書の世界で「定番小説」(あるいは「定番教材」)と称され、近年は学習指導要領の改訂により新課程となっても、常に各出版社の教科書に採録されてきた。同じように、ある学年で使用する、ほぼすべての教科書に登場するのが森鴎外の「舞姫」と中島敦の「山月記」で、これらは「定番小説四天王」と呼ぶことができる。それ以外にも、志賀直哉の「城の崎にて」、太宰治の「富嶽百景」など、教科書という限られたスペースの中に指定席を持つ小説は少なくない。最近の作家で言えば、村上春樹の「鏡」なども既に定番化しつつある。
 しかもこれらの小説は、学習する学年まで見事なくらい固定化されている。「四天王」であれば、高校一年で「羅生門」、二年で「山月記」と「こころ」、三年で「舞姫」といった具合である。さらに「こころ」は、すべての教科書で「下 先生と遺書」のKという登場人物が自殺する場面が抜粋されているのだ。ご丁寧に「あらすじ」が付いているところまで各社の教科書で共通していて、まさに大いなるワンパターンと言わざるをえない。


実際に「教科書を使う側」だった僕としては、「『定番教材』の問題点」というのは、あんまりピンとこなかったのも事実なんですよね。
毎年同じものを教える先生たちにとっては、そのメリット(予備知識があって、準備しやすい)、デメリット(教えていて飽きる、マンネリ化する、時代にそぐわない)など、思うところは多いのかもしれませんが、学生にとっては、夏目漱石の『こころ』が数十年も続けて教科書に載っていても、自分がそれを読むのは、留年しないかぎりは1回だけ、ですから。
むしろ、「あっ、『こころ』『羅生門』なら読んだことがある!」っていう「共通体験としての小説」が、日本人にひとつやふたつあってもいいのかな、とか思いますし。
最近の教科書には、村上春樹も入っているんだなあ……


著者によると、国語の教科書に採録される小説というのは、別に「これにしなさい」と決められているわけではないそうです。
ところが、いつのまにか、「定番」ができてしまっていて、それをあえて変える勇気がないまま、ずっと続いている。
しかも、最近は少子化で、教科書もどんどん総部数が減ってきているなかで、あえて「冒険」する出版社も無いようです。


この本を読んでいて興味深かったのは、「では、なぜ『羅生門』や『こころ』だったのか?」というところでした。
羅生門』は、太平洋戦争前の教科書では、芥川龍之介の作品のなかで、ほとんど収録されていなかったそうです。
戦前の高校1、2年生の教科書で多かったのは、1位が『戯作三昧』、2位『或日の大石内蔵助』、3位『手巾(ハンカチ)』。
戦後、『羅生門』ばかりになったきっかけとして、著者は、1951年に黒澤明監督の映画『羅生門』がヴェネツィア映画祭などでグランプリを獲得して、話題になったことを挙げています。
敗戦後の日本にとっては、黒澤監督の映画が世界的に評価されたというのは、国民的な偉業だったんですね。
知られているように、黒澤監督の『羅生門』のストーリーは、芥川龍之介の『薮の中』という作品を元にしたものであり、小説の『羅生門』とは別物なのですが、小説の『羅生門』は話題性と知名度が高いタイトルの作品として教科書に採録され、そのまま「定番化」してしまったのです。
意外と、ミーハーな経緯だったんだなあ……と、ちょっと微笑ましくも感じました。


ちなみに、『こころ』も戦後に「流行った」採録作品で、こちらのほうの経緯も詳しく紹介されています。


著者は、『羅生門』『こころ』『舞姫』という定番作品の共通項として、以下の5つの点を挙げています。

(1)戦前の掲載はない。
(2)戦後、しかも1957年から教科書に採られている。
(3)採録にあたっては、当初から小説の主題(エゴイズムあるいは自我の問題)が重視されていた。
(4)定番化が確立したのは1980年代である。
(5)定番中の定番としてほぼ独占状態になったのは、二十一世紀に入ってからである。

これらが「定番化」したのは、そんなに昔からではない、ということなんですね。
そして、「エゴイズム」という主題も、たしかに共通しています。


著者は、とくに森鴎外作品のなかで『舞姫』が採録されている点に疑問を呈しており、「主人公が留学生で出会った女性を捨てて立身出世のために帰国する」というのは、高校生にとっては嫌悪感を抱かせ、森鴎外嫌いにさせるだけなのではないか、というように述べておられます。
うーむ、文体の美しさ云々、というのはあるけれども、たしかに、「ひどい男の話」だと思いますよね、第一印象としては。
それを「教科書」に採録するのが妥当か?と問われたら、わざわざこの作品にしなくても……という気はします。

羅生門」「こころ」「舞姫」が日本近代文学史に残る作品であることは間違いないが、そのことと教科書の教材としての適格性は別問題である。この三作について、これまで作品の解釈や指導法への批判は数多くなされてきた。「こころ」については、抜粋部分の妥当性への疑問も指摘された。しかし、私がここで取り上げたいのはもっと根本的な問題、すなわち教科書に載せること自体の是非である。
 なぜそんな問題提起をするのか。それは「羅生門」「こころ」(教科書掲載部分)「舞姫」のすべてが、「後味の悪い話、悲惨な結末の話」だからである。「羅生門」は老婆の着物を奪った下人が立ち去り、その「行方は、だれも知らない」。「こころ」の掲載部分は、Kが自殺した場面、多くは「先生」(文中では「私」)が「襖にほとばしっている血潮を始めて見た」ところで終わる。「舞姫」は太田豊太郎が妊娠させた少女を捨て、相沢謙吉の友情に感謝しつつも、「我脳裡に一点の彼を憎む心今日までも残れリけり」と悔恨の思いで結ばれている。どれも明るい未来はいささかも感じ取れない。
 このように書くと、「それは単純かつ常識的な感想であり、もっと深く主題を掘り下げるべきだ」とか、「作者の作品に込めた真意は別にあるのだ」といった批判を浴びそうである。だが教科書を読むのは、そして教科書で学ぶのは、誰なのかを忘れてもらっては困る。それは文学研究者でも教養ある大人でもない。現代の高校生なのだ。


高校生の「感性」というのは、甘く見られるようなものではないと思うし、こういうのは「後味の悪い話だからこそ、記憶に残る」のも事実ではないでしょうか。
でも、たしかに、こんな話ばかりだと、気が滅入るというか、小説が嫌いになってしまう人も少なくないんじゃないかな。
もっと、「ユーモアあふれる小説」「読んでいて楽しくなるような作品」を採録しても良さそうなものですよね。
読んでいて、僕もそう思いました。


「教科書も人間がつくっているのだ」ということを、あらためて考えさせられる一冊です

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