琥珀色の戯言

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【読書感想】人生とは勇気 ☆☆☆☆


人生とは勇気 児玉清からあなたへラストメッセージ

人生とは勇気 児玉清からあなたへラストメッセージ


Kindle版もあります。

内容(「BOOK」データベースより)
クイズは人生と同じ。そのときボタンを押せるか押せないか。人生とは勇気、と、毎回思う―心に染み入る言葉が入った、数々のインタビュー。さらに、子供のころの疎開先でのつらい思い出、俳優になった運命的なできごと、本を読むよろこび、などを綴った最後の連載エッセイも収録。正義の人、反骨の人、学究の人、そして何よりも思いやりに満ちた人、児玉清が伝えたかった最後のメッセージ。


俳優・児玉清さんの最後の著書。
アタック25』の司会についてや、俳優になったきっかけ、娘さんの死について、また、大好きな本の話もたくさん書かれています。

 クイズ番組を司会していて、もう一つ全般に思うことは、解答するにあたっては、結局その人の中身が問われるということです。知識ではなく、その人自身に対して要求されるものがある。あのとき、勇気がなくてボタンが押せなかった、怖かったから、と言う解答者がいる。人生と同じなんです。あえて顔をさらして火中の栗を拾うか拾わないか。
 たとえば最初勢いよく答えていた人は、必ず途中で止まる。エネルギー保存の法則がここにもあるのかなと思うことがありますが、つまり人間、面白いもので欲が出てくると押せなくなるんですよ。無心であることが大事。人生とは勇気、と、毎回、司会をしていて思います。

あらためて、こう言われてみると、1回のクイズ番組のなかでも、「人柄」というのは出るし、「浮き沈み」みたいなのもありますよね。
番組をみていると、「これは、この人が全部パネルを取って優勝してしまうんじゃないか?」というくらいの実力があっても、ほとんどが、途中でペースが落ちたり、ピンチに陥ったりするものなのです。
人間、うまくいっていないと投げやりになりがちだけれど、うまくいきはじめても、「これはチャンスだ!」と意識しすぎて、平常心を失ってしまうことがあります。
僕も「うまくいっていると、かえって緊張して詰めが甘くなってしまうタイプ」なので、これは本当によくわかる。
そして、テレビを観ていると「一か八か、ここで解答ボタンを押して勝負にいけばいいのに」と思うような場面でも、自分があの場にいると、なかなか手が動かないものなのでしょうね。
「無心」って、言葉にすれは簡単なように思われるけれど、これは本当に難しい。
「むしん〜むしん〜」って自分に言い聞かせるのは、「無心」とはほど遠い心のありようですから。


 児玉さんは、あるきっかけで俳優としての人生を歩むことになるのですが、もともと文学の研究者志望でもあり、俳優の仕事を「腰掛け」的に考えていた時期があったそうです。
 そんな児玉さんを、この「雑魚」事件が変えました。
 東宝映画の博多ロケに同行した児玉さんは、若手人気スターに誘われ、博多の街に出かけることになりました。

 事件(?)は、注文したコーヒーがサービスされた直後に起こった。ウェイトレスの一人が色紙を持っておずおずとスター氏にサインをお願いし、スター氏がスラスラとサインとして彼女に返したまでは何事もなかったのに、いったん去りかけた彼女がくるりと踵を返し、寄ってきざま、僕に向かって「あなたもサインしてください」と言ったことが引き金だった。


 今でもあのときの光景、彼女が突如踵を返して振り向きざま寄ってきて色紙を僕に差し出す一連の動作が、スローモーション映像となって脳裏にスクロールする。どのくらい夢でも見たことか。僕は驚いた。予想していなかったことだったからだ。僕は言葉に窮し、ポカンと彼女の顔を見た。その瞬間、スター氏の声が大きく響いた。「この人は雑魚だから、サインしてもらっても仕方がないよ!」
 振り返れば、この「雑魚」の一言が、僕を俳優という仕事に踏みとどまらせ、今日では天職とまで思うほど素晴らしい道を歩いている、感謝の日々を送っているのだから、まさにありがたや、あゝありがたやといった神の声となったのだが、あのときは違った。雑魚であることは衆目の一致するところで、僕も正直、雑魚だとは思っていたが、面と向かってスター氏から、当然のことを言われたことで、僕の心に何か化学反応に似た変化が起きた。コーヒー代を払って外に出たら、博多の夜空にポッカリと月が浮かんでいた。まるで母が僕の心を問い質すかのように……。


 この「スター氏」は、なんて失礼な人なのだ!と僕も思います。
 客観的にみれば事実であっても、面と向かって「雑魚」と言われては、平常心ではいられない。
 ただ、児玉さんの場合は、その「雑魚」とよばれたことが、反骨心を呼び覚まし、俳優としてのやる気を引き出したのですから、人生、何が幸いするかわかりませんね。
 同じようなめにあって、悔しいと思う人は大勢いるだろうけれど、それをプラスに転化できる人は少ないはずです。


 この本の巻末では、児玉さんの息子さんである北川大祐さんが、家庭での児玉さんの素顔について語っておられます。

 素顔の父と僕はよく似ていると思います。怖がりで優柔不断、高所恐怖症で閉所恐怖症。仕事ではリーダーシップをとっていても、家では行き当たりばったり。たとえば「今日、夕飯どこに食べにいく?」という話も決まらない。そういえば子どものころ、一泊二日で箱根に車で旅行に行くと言われ、家族で行ったはいいが泊まる場所がわからずに、結局そのまま帰ってきた、ということもありました。
 そのいっぽうで、父は、確たる正義感の人でもありました。本人が正しいと思ってやってることに対しては、周りが何を言おうが「正しいのだからいい。ごまかす必要などない」という姿勢なのです。そばにいてドキドキすることもありました。たとえば悪気はないけれども気づかないで道の真ん中にたむろしている人たちを見ると、「そこは道なのだから、端っこに寄りなさい」と注意する。顔が知られていようがいまいが関係なく。周囲はヒヤヒヤですが、とにかく曲がったことが嫌いでした。


 自分に厳しい、反骨の人、という面だけではなくて、家族の前では優柔不断だったり、方向オンチだったりする児玉さんの姿は、なんだか読んでいてちょっと微笑ましくなりました。
 世間に知られている「児玉清」という俳優もまた、ひとつの演技だったのかもしれませんね。


 この本のなかで、僕の印象に残ったことば。

「人間は、50歳を過ぎてからが本当の勉強の時間なのだ。そこから勉強をするかしないかで人生は分かれるのだよ」
 言葉は正確に記憶していないのだが、僕の胸に常に甦るのは、今は亡き中川一政画伯の言葉だ。

 児玉さんもまた、一生勉強を続けた人でした。
 年を重ねると、これまでの「貯金」で済ませてしまいたくなりがちだけれど、「そこから」が大事なのだな、とあらためて思い知らされます。

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