琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

【読書感想】人間ってなんだ ☆☆☆


Kindle版もあります。

「人間とつきあうのが仕事」の演出家がずーっと考えてきた。
必要なのは「優しさ」じゃない。必要なのは相手の「事情」を理解する能力だ。
読むと誰かに話したくなる「人間」についての30の物語。


本書のベースになった原稿は、1994年10月~2021年5月に連載された「ドン・キホーテのピアス」(『週刊SPA!』〈扶桑社〉)です。
書籍化にあたり、連載の一部を加筆修正・再構成をしました。


 僕は「人生相談」が話題になるずっと前から鴻上尚史さんの文章を読んできたのです。昔担当されていた『オールナイトニッポン』もけっこう聴いていたし、舞台も何度か観に行ったことがあります。

 多くの識者が「生きづらさ」に対して「心の持ちよう」を説いていたのに対して、鴻上さんは舞台での演出家としての経験をもとに「身体性」から「生きづらさを緩和するためのアプローチ」をされていたんですよね。

 これは鴻上さんの言葉では無いのですが、以前、テストの答案の字が読みづらい、という話になったとき、担任の先生が、「綺麗な字をすぐに書くのは難しいから、とにかく字を大きく書くようにすればだいぶ読みやすくなるよ。採点する側の印象も良くなる」と教えてくれたことがありました。

 他者に自分の考えが伝わらないのは、自分が嫌われていたり、間違っていたりするからではなく、自信のなさから声が小さくて聞き取りづらかったり、滑舌や話のまとめ方で言いたいことが分かりにくかったりするから、ということも多いのです。

 この新書は、鴻上さんが1994年から2021年まで『週刊SPA!』〈扶桑社〉で連載されていた「ドン・キホーテのピアス」からテーマ別にセレクトした3冊の「ベスト盤」のうちの1冊です。
ドン・キホーテのピアス」は、『SPA!』でも時々読んで、やっぱり鴻上さんのエッセイは読むたびに「爪痕」みたいなのを残しているなあ、と思っていました。

 ただ、この『人間ってなんだ』に関していえば、27年間のさまざまな時期から選ばれているため、なんだかまとまりに欠けるし、1990年代のものは、鴻上さんの考えの芯の部分は共通しているとしても、今の時代にはついていきづらいところもあるんですよね。

 この『人間ってなんだ』全体の芯となっているのは、偉大な演出家・蜷川幸雄さんに関するエピソードの数々です。
 「演出家」としての蜷川さんと鴻上さんの演出のスタイルや役者に対する向き合い方の違いが、それぞれが生きた時代を象徴しているように感じます。

 そして、1年がたちます。
 次の年、ニナガワ・スタジオは新人を募集します。新たな才能との出会いを求めるわけです。それはどの劇団でも事務所でも同じです。
 ただ、毎年、新人を入れ続けると、どんどん所属俳優が多くなります。うかうかしていると、何百人も所属している劇団になります。実際にそういう所はあります。そうなると、同じ劇団なのに活動している人と全くしてない人に分かれたり、劇団の風通しが悪くなったり、弊害が大きくなります。
 蜷川さんはそんな事態を避けるためにどうしたか?
 1年たって、所属俳優に対して来年も一緒にやりたいと思ったメンバーにだけ、新年度、4月のミーティングの知らせが、3月にハガキで届くのです。
 つまり、届かなかった俳優はそれで終わりです。そこまでです。
 最初、僕はこのシステムを知った時に震えました。
 その頃、僕はじぶんの主宰する劇団で、「一緒にやるのはここまでだ」と思った俳優とは面談をして、直接伝えました。それでも、「第三舞台」でも「虚構の劇団」でも、正式な劇団員は最大10人でしたから、数年に1回、そういう面談をするだけでした。それでも、「クビを切る」という面談はとても消耗しました。なるべく誠実に、「もう一緒に遊べない理由」を伝えようとしました。
 僕を支えたのは、「僕の判断は絶対じゃない。僕がクビを切っても、この俳優は別の劇団や事務所で花開くかもしれない。この国はそういう可能性がある国だから」という思いでした。それでも、なるべくならクビなんか切りたくないと思いました。
 それを蜷川さんは、ハガキ1枚で終わらせたのです。そうして、ニナガワ・スタジオを常に30人から40人の集団でいられるようにしたのです。
 ただし、蜷川さんが、最後までこのシステムを続けたかどうか分からないので断定はできませんが、少なくとも僕が知っている時期は、これがニナガワ・スタジオのルールでした。
 僕は蜷川さんを責めているのではありません。蜷川さんが生きている現実の凄まじさにただ圧倒されたのです。
 クビになる時に、ハガキさえ来ないシステムは、恨まれないわけがないと蜷川さんは分かっていたはずです。責めて最後に「ここまでなんだよ」と直接聞きたかった、クビの理由を蜷川さんに教えて欲しかった、それが無理ならせめて「クビだ」というハガキ1枚を受け取りたかった、それさえないということはどういうことなんだと責められることを充分承知で蜷川さんはこのシステムを選んだのだと思います。


 これを読んで、僕はある大企業の有名な経営者が、著書のなかで、「幹部社員をクビにする時には、必ず自分で直接通達している」と述べていたのを思い出しました。「つらい、人が嫌がる仕事だからこそ、自分でやらなければならないし、自分の言葉で伝えることで、辞めていく人とのわだかまりも少なくなると思う」と。

 鴻上さんは、自分のやり方が絶対に正しい、とは、たぶん、考えていないし、蜷川さんがこんな冷酷にみえ、恨まれそうな方法を取ってきた理由も考え続けているのです。

 演劇とか芸能という世界の「厳しさ」「注目され、支持される者とそうでないものの落差」を思うと、優しく諭して未練を残すよりは、バッサリと断ち切ってしまったほうが、本人の人生にとってはプラスになるのではないか、あるいは、蜷川さん自身も、「そういうこと」を懸命にやってきた人に直接通告したくなかったのかもしれない。
(この段落は鴻上さんの言葉ではなく、僕の想像です)

 まあでも、蜷川さんの「気に入らない演技を見せられたら灰皿を投げつけた」なんていう「伝説」には、「そういうのが権力者には許される時代だった」感じもするのですけど。
 そんなことをしても、蜷川さんの元で学びたいと、多くの人が集まっていたんですよね。

 「厳しさこそが優しさになる」のか、「厳しさは、それを表出する側のストレス解消みたいなもので、優しくて伝わる方法があるはず」なのか。
 鴻上さんは、答えを出してはいないし、今でも迷い、考え続けているようにも見えます。
 鴻上さんって、「道を尋ねたら、自分も分からないのに一緒に迷ってくれそうな人」であり、それが鴻上さんの「人生相談」に多くの人が惹きつけられる理由ではないかと思います。


 鴻上さんが、演劇についての、あるシンポジウムに出席した際、観客のある若い女性から質問を受けたそうです。

 彼女はこう言いました。
「お芝居を見に行って、自分の思っていることと同じことが演じられていると、ほっとするんです」
 僕は、その言葉を聞いて、反射的に、「そうかなあ? 僕なんか、同じだと、失望するけどなあ。もっと違ったものを見せてくれって」と思いました。
 が、彼女は、こう続けました。
「私達は、人と違い過ぎていると、いじめにあうんじゃないかと思ってしまいます。でも、個性っていうのは、人とのズレですから、個性を保つためには、ずれないとしょうがないわけです。だけど、自分のズレ、つまり個性が、いじめにあうような違いなのか不安なんです。だから、お芝居を見て、そこで、自分の感性と同じことが展開されていると、ああ、私の個性は変じゃないんだと安心するんです」
 彼女の発言は、こんなにまとまっていませんでしたが、言いたいことは、こういうことだと思いました。
 彼女の発言は、ですから、質問というより、独白に近いものでした。
 彼女の独白を聞きながら、僕は、とても、悲しい気持ちになっていました。
 彼女の気持ちは、痛切に伝わってきました。
 しかし、自分の個性のズレを確認しなければ安心しないというメカニズムは、あまりにつらい。
 僕達はこんなに不安なのだろうか、と僕はつぶやいていました。
 一体、どうしてここまで不安になってしまったんだろうか。
 人と違うと胸を張り、人と違うようになりたいと思っていたのに、いったいいつから、ある範囲の中でだけ違いたい、その違いは特殊すぎるものではない、と確認する時代になったのだろうかと思っていたのです。


 これが書かれたのは、1996年8月だそうです。
 この「若い女性」は、僕と同じくらいの世代ではなかろうか。
 インターネット以前も、以後も、人間そのものは、あまり変わっていない、というか、数十年という時間くらいで、そんなに急激に人間が「進化」するはずもないのです。

 あまりに長期間のエッセイを収録しているので、まとまりがない感じがする、と書きましたが、1990年代と2020年代、それぞれのリアルタイムでの鴻上さんの言葉は、「まとまりがない」からこそ貴重なのかもしれませんね。


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