琥珀色の戯言

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【読書感想】戦国武将の明暗 ☆☆☆☆


戦国武将の明暗 (新潮新書)

戦国武将の明暗 (新潮新書)


Kindle版もあります。

戦国武将の明暗(新潮新書)

戦国武将の明暗(新潮新書)

内容(「BOOK」データベースより)
戦国時代―。日本史上、最も過酷な時代に、武将たちは何を考え、どう行動したのか?時に一瞬の迷いが一家滅亡を招き、時に果敢な決断が家運の隆盛につながる。「関ヶ原の戦い」という天下分け目の決戦を中心に、生き残りをかけた戦国武将たちの明暗を解き明かす。通説はもとより、最新の研究成果も積極的に紹介しながら、堅苦しくなりがちな歴史研究の最前線を、わかりやすく、面白く紹介していく。


 東京大学史料編纂所教授である著者による(ちなみに、NHK大河ドラマ平清盛』の歴史考証にも関わっておられたそうです)、「関ヶ原の戦い」で活躍した武将たちの「伝説」と「史実」。
 「関ヶ原の戦い」というのは、「天下分け目の戦い」として、戦国時代好きには「歴史のクライマックス」とでも言うべき出来事です。
 この新書では、著者が、最新の研究成果などを交えながら、その「おそらく史実であろうこと」と、「フィクションに属するもの」を解説してくれています。
 著者自身も述べているように「誠実であろうとしすぎて、歯切れが悪くなってしまっている」ところはあるのですが、それも含めて、「天下分け目の戦いの裏側」を、あれこれと想像してしまうのです。


 この新書の最初に登場してくるのが、小早川秀秋
 「関ヶ原の戦い」の勝敗を決した「裏切り者」とされている武将なのですが、関ヶ原のあと、小早川家は筑前名島30万石から、美作・岡山55万石に加増されています。
 結果的に、あの戦いの帰趨を決したのだから、さもありなん、と、僕はそのことにあまり疑問を抱いていなかったのですが、著者は、こんな史実を紹介しているのです。

 秀秋の軍が東軍に味方して大谷吉継に襲いかかった時、行動をともにした大名がいました。脇坂安治(淡路・洲本3万石)、朽木元綱(近江・朽木2万石)、小川祐忠(伊予・今治7万石)、赤座直保(越前・今床2万石)の4人です。大谷吉継は秀秋が東軍につくことは想定していた。備えは万全で、少ない兵で2度まで小早川勢を押し戻したといいます。ところが、そこにこの4家の軍勢が加わった。そのため、大谷勢は壊滅し、それがひいては西軍の潰走につながります。
 つまり、4人の功績は相当に大きい。では、家康は、どう酬いたか。調べてみると、驚いたことに、これこそ「丁公パターン」なのです。脇坂だけは前もって内通の意を伝えていたので、所領を安堵(加増はナシ)。でも他は、どさくさ紛れの火事場泥棒として、功績を一切認めませんでした。朽木は9500石に減封。小川と赤座に至っては、取り潰されてしまいました。
 これに比べると、小早川家の優遇は、際立っています。家康はケチ、というイメージはあっても、でたとこ任せは、やりそうにない人です。その彼が秀秋の所領を、ほぼ倍に査定している。このことからしても、秀秋は単なる「裏切り者」ではないような気がしてなりません。


 なるほど、裏切った武将たちが、みな優遇されたわけではない(というか、むしろ厳しく処遇されている)のですね。
 そう考えると、小早川秀秋は「裏切った」のではなくて、もともとなんらかの密約があった、と考えるべきなのかもしれません。
 それとも、「目立つ大物だけは優遇しておいて、あとの小物は切り捨てた」のだろうか。


 この本を読んでいて驚いたのは、「歴史的事実」とされているもののなかには、根拠が無かったり、詳しい検証をせずに、昔だれかが書いていたことをコピーアンドペーストしているだけ、というのが少なくないということでした。

 関ヶ原での小早川隊の軍勢は「1万5000人くらい」というのが「通説」で、僕もそのくらいの数だった、と思いこんでいました。

 小早川隊が1万5000だったと明記している史料が、あるわけではないのです。前項に書いたように、戦前の参謀本部がまとめた『日本戦史・関原役』にそう書いてあるだけ。この史料は100石3人を採用していて、宇喜多秀家は58万石で1万7000余、長宗我部盛親は22万石で6600、などとしている。だから、小早川の筑前国の領地を、豊臣家の直轄地を除いた30万石ではなく、戦後の黒田長政筑前一国52万石と同一視した可能性が高い。そうなると、兵は1万5000になる計算です。でも小早川勢の実数はもっと少なくて、8000くらいだったと考えるべきでしょう。
 ここで注目すべきは、戦前の数字が訂正されずに、現代でも一人歩きしている、ということ。なぜこんなことが起きているのでしょうか。それは、戦後の歴史学の動向と、深い関係があるように思います。
 太平洋戦争に敗れると、社会は平和を希求するあまり、軍事的な諸要素を強く忌避するようになりました。戦争のむごさを考えると、無理もなかったかもしれません。そして、それに伴い、日本史学においては、軍事に関する研究が止まってしまったのです。


 著者は、補給を考慮すると、戦場から遠い筑前から、「100石3人」は難しかったのではないか、と推測しています。
 畿内や中国・四国地方を根拠地としている武将に比べれば、筑前(現在の福岡県)から関ヶ原への動員力は、落ちるのが当然ですよね。
 「戦前のアバウトな推測値が、そのまま流用されてきた」のか……


 この本で描かれている「関ヶ原」の話は、直接の戦場での出来事よりも、その背景で起こっていたことが中心です。
 真田昌幸・幸村父子が上田城徳川秀忠の大軍を釘付けにし、関ヶ原の合戦に参戦させなかったのは有名ですが、大谷吉継が、情報戦で前田家の軍勢を引き返させたり、西軍は、勇将・立花直茂を擁しながら、関ヶ原以外の局地戦に投入する形になってしまったり、多くのイレギュラーなことが「関ヶ原の外」で起こっていました。
 直江兼続は、なぜ、石田三成らの挙兵を受けて西へ引き返していった徳川軍を、背後から攻めなかったのか?という疑問についても、著者なりの答えを出しています。
 

 ぼくはここで、対峙する二つのイメージに注目してみたいのです。それは「日本は一つ」か、「群雄割拠」か。
 現代の我々には、「日本は一つ」であることが当たり前。でも、当時の人々には、秀吉が成し遂げた天下統一=「日本は一つ」は稀有な事態であり、むしろ「群雄割拠」の方が普通である。専制君主・秀吉の没後、強力な統一政権は姿を消して、「群雄割拠」の状態に復帰する。兼続はそう読んだのではないでしょうか。
 天正12(1584)年の小牧、長久手の戦いにおいて、羽柴秀吉は家康と一戦を交えました。ですが秀吉は合戦では家康を倒すことができず、政治的な駆け引きにより徳川家の臣従を実現しました。家康と三成の戦いでも、こうした状況が再現される可能性はあった。戦いが長引いてしまって、家康が簡単には天下人になれない。そうなれば家康は、秀吉が家康にしたように、上杉を優遇する可能性が出てくる。そうした外交交渉を有利に運ぶために、上杉の力はより大きなほうが望ましい。それゆえの最上攻め、領地拡大を狙った軍事行動だったと考えるのです。


 たしかに、いまの「70年間の平和」を生きている僕にとっては「平和が常態」であるのと同様に、戦国時代を生きてきた人々にとっては「群雄割拠のほうが普通」だったのかもしれませんね。
 人の考え方というのは、経験の影響がすごく大きいから。
 そういう意味では、「なんで天下分け目の戦いから目を逸らして、せせこましく火事場泥棒みたいに領土拡大にはしったのか?」という問いは「その後の天下の趨勢を知っている後世の人の結果論」でしかないのです。
 歴史ロマン派としては、「もしあそこで、上杉家が家康の背後を襲って、三成たちと家康を挟撃していたら……」と、考えずにはいられないのですが。
 逆にいえば、あの状況で、「天下」を意識して動いていた家康はさすがだし、それを察知して抵抗した石田三成も、なかなかの傑物だった、ということになるのでしょう。
 ただ、結局のところ、歴史上の人物の「真意」というのは、本人にしかわからないのですけどね。
 というか、本人だって、「いや、なんとなく思いついただけなんだけど……」という行動が、後世の人からは、あれこれ議論の対象になっていることも、少なくないんじゃないかな。


 歴史について、あれこれ想像してみる面白さが詰まった新書でした。