琥珀色の戯言

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【読書感想】戦国武将、虚像と実像 ☆☆☆☆


Kindle版もあります。

日本人の武将像はいかに変化してきたのか?時代ごとの価値観が浮き彫りに!

妄説、打破!
信長は戦前まで人気がなかった。秀吉は人たらしでなく邪悪だった!?
時代ごとに人物像は変化していた。最新研究による実像に加え、虚像の変遷から日本人の歴史認識の特徴まで解析した画期的論考。

画期的に見える人物像も、100年前の焼き直しにすぎないものが多い。
織田信長は革命児、豊臣秀吉は人たらしで徳川家康は狸親父。明智光秀は常識人で、斎藤道三は革新者、石田三成は君側の奸で、真田信繁は名軍師。
このようなイメージは、わずか数十年前にできたものが実は多い。
彼らの虚像と実像を通して、江戸、明治、大正、昭和と、時代ごとの価値観まで浮き彫りにする!

■光秀=「温厚な常識人」は一冊のベストセラーがつくった。
■油売りでも革新者でもなかった道三
■信長は将軍も天皇も尊重していた
■秀吉の評価ポイントは勤王と海外進出
■江戸時代にも三成肯定論はあった
■幸村は「軍師」ではなく「現場指揮官」だった
司馬遼太郎の家康論は徳富蘇峰の受け売り!?
歴史小説・ドラマの源流は“蘇峰史観”にあり!
■「野心家・光秀」はなぜ定着しなかったのか?
■信長の「勤王」こそ「革命」だった!?
■徳川政権への不満が生んだ秀吉人気
■三成忠臣/奸臣論が見落としてきたもの
■超人化していった真田幸村
■賞賛されていた家康の謀略


 歴史上の人物に対する世間の評価というのは、その時代背景やベストセラー小説、テレビドラマなどによって、けっこう変わってしまうものなのです。

 最近でいえば、NHK大河ドラマの影響で、真田幸村が「真田信繁」と呼ばれることが多くなったり、「裏切者」のイメージが強かった明智光秀の好感度が上がったりもしていますよね。

 歴史上の人物が、本当はどんな人だったのか、というのは、実際のところ、わからなかい面が多いのです。
 遺っている史料の多くは、勝者の視点で書かれていますし、それぞれの時代の権力者の価値観で評価されがちではありますし。

 太平洋戦争で日本が負けるまでは、楠木正成は「勤王の英雄」として、現在よりもずっと称賛されていたのです。
 吉川英治さんの『私本太平記』を読んだときは、僕も正成の最期が印象に残ったのですが、戦後に書かれたこの小説では、単なる「南朝の忠臣」ではない正成の葛藤が描かれていて、1958年から執筆されたという時代背景の影響も感じられるのです。

 この新書では、『応仁の乱』というベストセラーを上梓した著者が、さまざまな史料に基づき、「歴史観の変遷」「小説で描かれた人物像」に伴って、戦国武将たちへの世間の評価が変わっていったことを詳述しています。

 織田信長豊臣秀吉徳川家康といった戦国武将に関しては、だいたいこういう人物だろうというイメージを皆が持っている。その人物像は小説やドラマ、映画などに淵源していることが多いので、人それぞれ違う、ということはあまりない。秀吉は人たらし、家康は狸親父といったイメージが世間一般に強く流通している。これはまさに「大衆的歴史観」である。
 だが、そうした人物像は必ずしも固定的なものではない。昔からずっと同じイメージで語られてきたわけではなくて、時代ごとにイメージは変わっている。我々が抱いている信長像や秀吉像は何百年も前に作られたものではなく、意外と最近、たとえば司馬遼太郎が作ったイメージに左右されている、ということが結構ある。また、従来の評価を逆転させた斬新な人物像と思われているものの原型が、実は何百年も前に成立していた、ということもある。
 そこで本書では、信長像や秀吉像が時代によってどう変遷したかということと、実際はどういう人だったかということを述べたい。それによって、時代ごとの価値観も浮かび上がってくるだろう。


 1970年代はじめに生まれた僕の世代にとっては、「司馬遼太郎史観」はかなり大きな影響があるのです。
 坂本龍馬が「尊敬する歴史上の人物」になったのは『竜馬がゆく』のおかげだし、「明治時代の日本が良い時代で、その後、太平洋戦争に向かっていくにつれて、日本人は『劣化』していった」という「明治至上主義」を信奉する人も多いのです。
 ただし、その価値観には、司馬遼太郎さん自身も太平洋戦争で徴兵され、戦地で辛酸をなめた影響も無いとは言えないでしょう。


 著者は、徳富蘇峰大正7年(1918年)から自らが主宰する「国民新聞」に連載した『近世日本国民史』について、この新書のなかで何度も言及しています。
 インターネットもテレビもない時代の「新聞」の世間への影響は非常に大きかったのです。

 徳富蘇峰は、織田信長本能寺の変で斃れていなければ、朝鮮・中国・東南アジアにまで進出していただろうと説き、豊臣秀吉朝鮮出兵は信長の構想を継承したにすぎない、と主張する。推理小説家の井沢元彦氏が『もし本能寺の変がなかったら信長はアジアを統一した』(宝島社、2019年)を刊行する100年前に、右の説を唱えた蘇峰の先見性には驚かされる。
 そして、次のように説く。「我が島国以外に、世界あるを知らぬごとき、また島国内に安着して、一歩も外に踏み出すことを解せざるごときは、ただこれ鎖国政策の馴致したる、陋習であって、決して国民的本性ではない」と。蘇峰によれば、織田信長豊臣秀吉の時代は、「日本がようやく世界化せんとする時代であった」が、「この新傾向を頓挫せしめたのは、文禄慶長役ー豊太閤朝鮮征伐ーの失敗である。しかしてさらに、より多く頓挫せしめたのは、徳川氏の鎖国政策である」という。
 徳富蘇峰の意図は明らかだろう。大日本帝国の大陸進出を肯定するために、江戸幕府鎖国政策を批判し、帝国主義を無意識のうちに実行した織田信長豊臣秀吉を持ち上げているのである。織田・豊臣時代と明治・大正時代を重ね合わせて解釈しているにすぎない。「現代を理解するために歴史を学ぶ」という行為は、えてして「自分の政治的主張を正当化するために歴史を利用する」結果に陥るのである。


 「その時代に生きている人々に『好ましい人間像』を提示する」ために、歴史上の人物が利用されることもあるのです。
 もちろん、そのすべてが誰かの陰謀というわけではないとしても。

 前節で論じたように、織田信長を革新者とみなす見解は戦前からあった。ただし、戦前の信長像は「勤王」を根幹に据えていた。信長は幕府政治を否定し、天皇親政を志向したという意味において革新者だった、と解釈されたのである。
国盗り物語』(司馬遼太郎)の織田信長は勤王家ではない。神仏すら信じない信長は、天皇や将軍といった尊貴の血に対して畏敬の念を抱いたりはしない。信長にとって将軍も天皇も、自分の天下統一事業の道具にすぎない。既存の権威・秩序に一切拘泥しないという意味で、『国盗り物語』の信長は革新者なのである。
 この見解は必ずしも司馬遼太郎の独創ではなく、戦後歴史学においても、織田信長は中世的権威を否定した革新者と評価された。


 信長は既存の権威を根こそぎ否定する急進的な改革者ではなく、むしろ既得権者と折り合いをつけながら、少しずつ改革を進めていったというのが現在の学界での見解だと著者は述べています。

 足利義昭織田信長との間に摩擦があったことは否定できないが、両者は基本的に協調関係にあった。「義昭は表向きには信長を頼りにしつつも、裏では越前の朝倉義景・近江の浅井長政らを扇動して対信長包囲網を築いた」と思っている人が多いようだが、これは『徳川実記』など江戸時代の史料の記述に基づく幻影である。義昭が信長追い落としの陰謀をめぐらしていたという事実は、同時代史料からは確認できない。


 著者は、のちの信長と義昭の「決裂」から逆算して、この「対信長包囲網」というのが後世の人によって創作されたのではないか、と述べています。

 現代の歴史小説は道徳教育を意識してはいないだろうが、人生訓を伝えるという性格を持つ作品は少なくない。そして、それらの歴史小説が「大衆的歴史観」の根幹を成している。
 ところが、戦国武将の人生訓として人口に膾炙している話は、たいてい江戸時代の軍記類・逸話集に載る逸話・美談・名言である。本書で縷々指摘したように、これらの大半は真偽が疑わしいものである。後代の創作かもしれない話に依拠して人生訓を語る「大衆的歴史観」は危ういと言わざるを得ない。
 著者には「歴史から教訓を学ぶ」ことを否定する意図はない。だが大前提として、その「歴史」が歴史的事実かどうかの検討は不可欠である。仮に創作だったとしても、美談や名言によって勇気づけられることもあるのだから、そんなに目くじらを立てなくても良いではないか、という意見はあろう。だがフィクションでも良いという理屈なら、『SLUM DUNK』や『ONE PIECE』のような純然たるフィクションから人生訓を学んだ方がよほど健全だと思う。
 歴史小説から人生の指針を得ようという人は、そこに書かれていることが概ね事実であると思っているのだから、歴史小説家には一定の責任が求められる。事実に基づいているが、あくまでフィクションである、と公言するか、史実か否かを徹底的に検証するか、の二つに一つである。真偽が定かではない逸話を史実のように語り、そこから教訓や日本社会論を導き出す司馬遼太郎のような態度には、やはり問題がある。


 僕は歴史小説、歴史ドラマ好きなのですが、最近はこれらの作品に触れているとき「これはどこまで事実なのだろうか?」というのが気になってしまうのです。
「最初からフィクションだとわかっていること」よりも、「どこまでが事実かわからないのに、史実のように語られている話」のほうが、スッキリしない感じはするんですよね。

 ただ、「実在の人物が出てくる小説」のほうが、人物像をイメージしやすいし、興味を持ちやすい。
 学術書と純粋なフィクションしかないと、それはそれで寂しい気はします。


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