琥珀色の戯言

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【読書感想】徳川家康 弱者の戦略 ☆☆☆☆


Kindle版もあります。

徳川幕府が二百六十年隠してきた真実を暴く!信長、信玄、そして秀吉。圧倒的な強者を相手にしてきた家康はつねに「弱者」だった。それがなぜ天下人となったのか?そこには弱者だから取り得た戦略、ライバルからの旺盛な「学び」があった。第一人者が家康の実像に迫る。


 2023年のNHK大河ドラマ松本潤さん主演の『どうする家康』ということで、書店には「徳川家康に関する本」がたくさん並んでいます。
 徳川家康は、以前にも滝田栄さん主演で大河ドラマの題材になりました(1983年『徳川家康』)。
 僕が歴史に興味を持ったきっかけは、小学校の図書館で『漫画日本の歴史』をなんとなく借りてしまったことなのですが、借りたのは「関ヶ原の戦い」を描いた巻でした。
 子どもの頃の僕は「秀吉の逝去に乗じ、豊臣家を裏切って天下を取ろうとした狸親父・家康に対抗した豊臣家の忠臣・石田三成」という構図にみえて、家康が勝ってしまったことを理不尽だと感じたのです。

 昔の大河ドラマでは、主人公は美化されがちだったのですが、滝田栄さんの徳川家康が、なんとか豊臣秀頼を助命しようとしたり、「民のための平和」を願っていたり、という場面には、「家康って、そこまで善人(あるいはお人よし)じゃないだろ……」と心の中でツッコミを入れていたものです。

 著者の磯田道史さんは『武士の家計簿』などで知られる歴史学者なのですが、奥様や娘さんから「歴史の本は(お父さんの本も)難しい」と言われ、『どうする家康』を観る際に「ほんとうの家康はどうだったのか」を知ることができる、わかりやすい、読みやすい本を書こうと試みたそうです。

 学者の難しい歴史も大事です。ドラマや小説と違い、「史実」がそこにはあります。しかし、細部に入りすぎるのが困り物です。読者が「木を見て森を見ず」どころか、「枝葉だけ見せられ、木も見えない」話になりかねません。この反省に立って、私は、勇気をふるって、徳川家康の本を書くことにしました。歴史の細部、枝葉は大事ですし、面白いものです。なんとか、歴史の「枝葉」を生かしながら全体像の「山」をも見せる徳川家康の本ができないものだろうか、と考えました。
 悩みながら書き上げたのが、本書です。とにかく、わかりやすくしました。歴史学者に「それをやれ」といっても無理ですが、要点だけを書きました。ここで「要点」としたのは、

 ──家康は、三河の弱小大名であったのに、なぜ・どうやって天下を手に入れ、しかも二百六十年も続く、政権を築けたのか?
 ──読者の参考になるように、家康のその「弱者の戦略」をみてもらう。
 
 これだけです。家康の歴史の細部を学ぶ本ではなく、家康の後ろ姿から、今を生きる人々が何かを得られる本にしたい。そう思っています。今の世の中、善良な人々が誠実にがんばっても報われない仕組みもあります。職場や世間でも、弱者としての生存戦略がなければ、ひどい目に遭わされかねません。


 たしかに、最近の歴史に関する本を書店で眺めていると、新書でもどんどんテーマはマニア向けのニッチなものになってきている気がしますし、「これまでの歴史研究や教科書で通説とされていたことは間違っている!」という内容のものも多いのです。
 僕のような歴史好きには興味深いものではあるのですが、その一方で、「もう何が史実なのか、よくわからなくなってきている」のです。
 僕がこれまで生きてきた50年間を思うと、20年、30年前の事件でも、リアルタイムで報道されていた内容や世間の反応、評価と、2023年に「歴史」として振り返るときの「総括」は、けっこう違っているんですよね。オウム事件とか、地下鉄サリン事件以前の僕たちは「オウムシスターズ」とか「尊師マーチ」とかをネタとして笑っていました。マスメディアも「視聴率が取れる」と、ノリノリで「オウムネタ」をやっていた記憶があるのです。今は「恐怖の殺人教団」として、当時の面白半分の報道はスルーして振り返られることが多いのですが。

 僕のような「インターネット脳」になってしまうと、「家康は交通の要衝で豊かな東海地方に地盤を持つ領主の子として生まれたのだから、『真の弱者』じゃない!」とかいう人もいそうだよな、とか想像してしまうのです。

 著者は、この本を、読者にとっての「パブリック・ヒストリー」にしたい、と述べています。
「パブリック・ヒストリー」というのは、近年、学界でも重視されはじめた、「いま生きている人たちが自分の人生に活かすための歴史」という概念なのだそうです。著者は「ようは、人生の参考書としての徳川家康です」と仰っています。
 美化しすぎない偉人の伝記、みたいな感じかもしれません。

 この本、たしかにわかりやすいし、面白いんですよ。
 その一方で、「史実か後世の創作か疑わしい」ことも、疑義があることを示唆しつつ紹介しています。
 著者は、「後世の創作や噂に尾ひれがついたものであっても、そういう話がつくられたという背景にも意味がある」と考えているのです。

 
 家康と織田信長の同盟について。

 従来の説では、家康は年が明けた永禄五年(1562)の正月、清州の信長に会いに行って同盟を結んだ、とされてきました。第一章で述べたように、現在では、研究者の多くがこれを否定しています。年始の挨拶に赴くというのは、限りなく臣従の礼を取るのに近い行為です。信長が「同盟を本気で結ぶなら、年賀に尾張に来い」と言って、家康を試すような出来事はなかったと思います。ただ、この永禄五年の正月ではなく、両者が密かに、どこかで今川にわからぬよう極秘の直接面談をした可能性は絶無ではないでしょう。

 さて、永禄五年の正月に戻って、家康の清洲訪問「伝説」がどのように語られているか、みておきましょう。家康は行列を仕立てて、清州の町に入っていく。それを、信長が、どこで迎えるかが非常に重要です。城門を出て出迎えに行くか、門で待っているか、本丸に座ったまま迎えるか、それによって臣従の度合いが分かるのですが、『伊東法師物語』によると、信長は二の丸で家康を迎えています。城門での出迎えではなく、本丸に呼びつけるのでもない、絶妙の場所です。
 繰り返しますが、こういうふうに、史実でなくても、歴史は「どのように尾ひれがつくか」も大事です。歴史の専門研究者は史実の追求ばかりに熱中する悪癖があります。史実の確定だけが歴史ではありません。そこは気を付けねばなりません。
 一次史料以外の後世の人の作り話やウソ、噂の類もぜんぶ大事です。それは当時や後世の人の意識の反映物だからです。「信長は二の丸で家康を迎えた」という伝承があれば、それはその時代の人が、信長と家康の力関係を、どのようにみていたかを反映しているからです。


 2023年の国家間の外交でも、相手国との会談の場所をどこにするのか、会場のどこで出迎えるか、会談後に報道陣の前で握手をしてみせるのか、などが、「直接言葉にすることはないけれど、両国の力関係や親密度、交渉の成否を伝えるサイン」になっているのです。
 サミットでは、どこの国のトップが、どの立ち位置で写真にうつっているのかが、よく話題になりますよね。
 この清州での会談のエピソードからは、史実ではないとしても、信長と家康は対等の同盟者ではないが、信長は家康を臣下として扱っていたわけでもなかった、という当時の人にとっての両者の力関係がうかがわれるのです。


 著者は「家康の凄さ」を、こんなふうに述べています。

 しかし、家康の凄さは、信長の失敗、ダメな点を学んだところにあります。一言でいえば、世の「信長疲れ」を見破ったのです。さらに、豊臣秀吉も信長以上に家臣・領民の「秀吉疲れ」を巻き起こす存在でした。信長も秀吉も傑出した天才児で、自分のヴィジョンの現実化に躊躇がありません。そのため、家来や領民に負担を強い、どこまでも踏み込んでくるのです。家康はこの二人の天才児の下で苦労させられ、「あんなふうにやっては長続きしない」と肝に銘じたのでしょう。

 それに対して、家康はこれ以上、他人や家臣に踏み込まないという境界線を、自分のなかで決めていたように思えます。それを端的にあらわすのが、一向宗への対応です。信長は伊勢・長島や越前の一向一揆を、万単位の犠牲者を出すほど徹底的に弾圧しました。三河でも一向一揆が起こります。家康の家臣のなかからも一揆に与する者が出るなど、かなり深刻な事態だったのですが、家康の処置は信長とは違います。家康は鎮圧後、一揆に加わった武士も召し返します。そのなかには後に参謀として活躍し、初期の幕政の要となった本多正信なども含まれていました。農民にも、「年貢は納めろ」「一揆を起こして歯向かってくるな」、この二つだけを守れば、信仰は許し、それ以上の服従は求めておらず、大虐殺はしていません。
 これは家臣団に対しても言えることで、戦場では卑怯な真似をせず、勇敢に戦え、それさええやっていれば、秀吉ほど気前よく禄はやれぬが、子孫までちゃんと面倒を見る。この姿勢で一貫しています。
 家臣や領民にとって、家康はある程度、「余地」を残してくれる。この安心感は大事です。ここでも家康の「信用のフィードバック」が働いています。領民たちを信用して、その生活に過度に立ち入らず、一定の自治を認める。それによって、領民も家康の支配を受け入れ、その統治が続くことに協力するという好循環です。


 徳川家康という人は、再三ピンチに陥りながらも、戦わなければならないときには(三方ヶ原の戦いのように惨敗することはあっても)敵に背を向けることはありませんでした。元豊臣方の武将たちの離反を防ぐためではあったのでしょうが、大坂夏の陣真田信繁の決死の突撃を受けることになったのは、家康自身が戦場にいたからなのです。
 徳川幕府が260年も続いたのは、統治システムが優れていただけではなく、統治される側の大部分は、「まあ、このくらいの負担ならガマンしよう」と受け入れていたから、でもあるのです。

 信長、秀吉から、家康は多くを学んだのだと思われます。
 そして、武将たちや民も、信長、秀吉の時代の経験があったからこそ、家康の政治的なバランス感覚を受け入れやすかったのです。

 僕自身が年を重ねるにつれて、徳川家康の「凄さ」がわかってきたような気がします。
 徳川家康は、もちろん「幸運」ではあったけれど、常に「幸運を活かす準備ができていた人」なんですよね。


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