琥珀色の戯言

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【読書感想】「関ヶ原」の決算書 ☆☆☆☆

「関ヶ原」の決算書 (新潮新書)

「関ヶ原」の決算書 (新潮新書)


Kindle版もあります。

「関ヶ原」の決算書(新潮新書)

「関ヶ原」の決算書(新潮新書)

金がなければ戦はできぬ! だが天下分け目の大いくさで、東西両軍で動いた金は総額いくらになるのか? 『「忠臣蔵」の決算書』に続き、日本史上の大転換点をお金の面から深掘り、知っているようで知らない「関ヶ原の合戦」の新常識を提示する。そもそも米一石は現代なら何円? 徳川家康は本当に儲かったのか? なぜ敗軍に属した島津家がおとがめなしで生き延びたのか? 史上最も有名な戦の新たな姿が浮かび上がる。


 「戦争にはお金がかかる」とは言うけれど、実際にはどのくらいかかるものなのか?
 「天下分け目の合戦」である「関ヶ原の戦い」では、いったいどのくらいのお金が動いたのか?

 それでは、兵糧米は現在の貨幣価値にしてどのくらいと見ればいいだろうか。
 おおむね当時の米一石を8万円として計算してみよう。これは米5キロに換算すると2670円ほどである。現在の銘柄米5キロの値段はだいたいそれくらいで、概算値としては妥当だと思われる。
 すると、180人の兵糧15日分で108万円となる。兵一人あたり一日分の兵糧米は400円、10日で4000円となる。軍勢を動かす場合、たとえば1000人の軍勢を一日動かすと40万円、10日になると400万円となる。
 関ヶ原合戦の時のように、10万人規模の軍勢を動員すると、兵糧米だけで一日に4000万円、10日で4億円が飛ぶ計算になる。豊臣家や徳川家の資産がどの程度であったかは後述するが、これを誰が負担するかは大きな問題だったろう。大軍を動員しての合戦は、とてつもなく大きなお金が必要なのである。


 実際には、これらの米を輸送するコストもかかるわけで、戦争にはお金が必要という点では、昔も今も変わらないのです。
 戦国時代も最初の頃は、軍役を課された者が自前で食糧も用意してくることになっていたのですが、これを改革したのが豊臣秀吉でした。

 「天下人」となった豊臣秀吉の軍隊では、戦国大名とはまったく違う発想がとられていた。秀吉は、軍役負担者や武器を持つ従者だけでなく、動員された非戦闘員を含めた総人数を把握し、彼ら全員に兵糧米を支給するように改めたのである。
 たとえば、天正十二年(1584)六月十五日付け秀吉朱印状(『豊臣秀吉文書集』<以下『秀吉』と略す>1111)では、織田信長の遺児・信雄と徳川家康の連合軍との戦いである小牧・長久手の合戦の時の兵糧についての指示がある。尾張国の楽田に加勢として出陣した者に、6月20日から10日分の兵糧を支給するというものだ。日付が6月15日だから、当初の5日分は軍役負担者の自弁、その後は秀吉が支給する体制だったことがわかる。
 この時点ではまだ秀吉は「天下人」になっていない。経済力にも限りがあったので、初日からではなく6日目から支給するという方式をとったのだろうが、これなら配下としても長期の戦争に耐えることができただろう。配下の武将は領地を与えられて独立すれば、兵糧はその武将が責任を持って調達するのが原則だったからだ。秀吉以前の方式であれば、兵糧が足りなくて動員数をごまかす武将もいたかもしれないし、兵を飢えさせることもあったかもしれないが、秀吉方式ならその心配もない。


 小田原攻めなどで、秀吉が圧倒的な軍勢を繰り出し、20万人ともいわれる兵力で、兵の犠牲は減るけれどお金がかかる兵糧攻めを選択することができたのは、その経済力ゆえだったのです。
 この本を読むと、「なぜ、秀吉はそれだけ突出した経済力を持っていたのか」そして、「関ヶ原の戦いで、徳川家康は、豊臣家から何を奪ったのか」がわかります。
 

 「決算書」というタイトルで、お金の話は最初のほうに書いてあるけれど、同じ著者による『「忠臣蔵」の決算書』に比べたら、具体的な数字は少なく、関ヶ原の戦いについての歴史的な記述や徳川家康石田三成をはじめとする反家康側の駆け引きの描写が多い印象がありました。
 歴史好きとしては、この駆け引きの部分も読みごたえはあったんですけどね。
 関ヶ原の戦いに関しては、後世、両軍の布陣を見せられたドイツの有名な参謀が「これは西軍の勝ちだろう」と言ったという有名な話があるのですが(最近は作り話だとされているようです)、西軍は小早川隆景をはじめとする裏切りや、毛利秀元など戦場にいながら戦わなかった軍勢もあり、「西軍の負けは必然」だと僕は思っていたのです。
 ところが、この本を読んでいくと、東軍の「楽勝」ではなかったことがわかります。


 西軍は、関ヶ原の戦いの直前に、京極高次が近江の大津城に籠ったのを攻撃するための軍勢を派遣しています。

 石田三成ら本隊が美濃に進出している西軍にとって、近江は背後にあたる。出現した敵をそのままにしておけば不都合である。
 そこで9月12日、西軍は毛利元康(毛利元就七男)・小早川秀包(毛利元八男、筑後久留米城主)・立花宗成・筑紫広門(足利直冬の末裔、筑後山下城主)・宗義智小西行長の女婿、対馬島主)ら1万5000の兵で大津城攻撃を開始した。
 西軍は大坂城から持ち出した大筒で城を攻撃し、天守閣などに甚大な被害を与えた。そして14日には木食応其を城内に遣わし、開城を求めた。高次はやむなくこれに応じ、十五日朝、三井寺で剃髪し、高野山に入った。
 わずか三日間の戦いだったが、高次が開城したのは関ヶ原合戦の当日である。小早川秀包や立花宗茂という西軍きっての武将を関ヶ原合戦に参加させず、1万5000人もの兵を引きつけたという東軍への貢献は計り知れない。結果論かもしれないが、西軍は大津城を5000ほどの兵で包囲して封じ込めておき、小早川秀包や立花宗茂の主力1万ほどを関ヶ原に急行させるべきだっただろう。


 たしかに、この戦意の高い1万人の軍勢が、関ヶ原の合戦で西軍に加わっていたら、結果は違ったものになった可能性はありそうです。
 秀忠の軍勢の到着を待たずに戦うことを選んだことも含め、やはり、百戦錬磨の家康の戦略眼には一日の長があった、とも言えるのでしょう。
 通信用電子機器もテレビのニュースもない時代には、リアルタイムで敵味方全体の状況を的確に知る方法はなかったのだから。

 (豊臣家の)関ヶ原合戦以前の年収1286億円が185億円になってしまったと言えば、その凋落ぶりは明らかだろう。(豊臣)秀頼のために挙兵した三成だったが、主家に残した損害はあまりに巨額であった。


 徳川家康は、豊臣秀頼と直接戦ったわけではないのに、関ヶ原の戦いで、豊臣家の収入のほとんどを奪うことに成功したのです。
 その後、家康は、大坂の陣で、豊臣家を滅ぼすことになります。
 かつて豊臣秀吉が、小田原攻めで北条家を滅ぼしたように。

 どのようにして、家康は、豊臣家の経済力を自分のものにしていったのか?
 興味がある方は、ぜひ、この本を手にとってみてください。

 

「忠臣蔵」の決算書(新潮新書)

「忠臣蔵」の決算書(新潮新書)

教科書には書かれていない江戸時代

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