琥珀色の戯言

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【読書感想】読書は格闘技 ☆☆☆


読書は格闘技

読書は格闘技


Kindle版もあります。

読書は格闘技 (集英社)

読書は格闘技 (集英社)

内容紹介
武器となる読書術、読むべき書を呈示する、知的実践の書。


〈「読書は格闘技」という考え方に立つと、「良書」の定義も変わってくる。
普通、良書というと、書いてあることが正しいものであり、正しい考え方であると思われる。
しかしながら、書いてあることに賛成できなくても、それが批判するに値するほど、一つの立場として主張、根拠が伴っていれば、それは良書と言える。
私は筋金入りの資本主義者であるが、そうした立場からしてもマルクスは読むに値する「良書」と言えるのだ〉


心をつかむ、組織論、グローバリゼーション、時間管理術、どこに住むか、才能、マーケティング、未来、正義、国語教育の文学等々、今を生き抜くために知っておくべきテーマについて、立場の異なる「良書」を能動的に読み、自らの考えを新たに形成していく。
格闘技としての読書体験を通じた、実践的な力が身に付く読書術とは何か。各テーマにおける必読の推奨ブックリストも収録。


『武器としての決断思考』『僕は君たちに武器を配りたい』『戦略がすべて』などの著書を持つ投資家・瀧本哲史さんの読書論。
 瀧本さんの著書を読んでいると、「ああ、この人はものすごく頭が良いのだなあ」と思わずにはいられません。歯に衣を着せない言葉もあって、僕にはついていけないとこともあるのだけれど、だからこそ、読む価値がある、ともいえるのです。
 この本の冒頭で、瀧本さんは、こんなふうに書いておられます。

 本書で私が強調したいのは、「読書は格闘技」だということである。これは、自著『武器としての決断思考』で強調したことでもあるが、書籍を読むとは、単に受動的に読むのではなく、著者の語っていることに対して、「本当にそうなのか」と疑い、反証するなかで、自分の考えを作っていくという知的プロセスでもあるのだ。


 鵜呑みにするのではなく、疑い、反証しながら、自分の考えを作っていくのが「読書」で、その行為は「格闘技」だということなんですね。

「読書は格闘技」という考え方に立つと、「良書」の定義も変わってくる。普通、「良書」というと、書いてあることが正しいものであり、正しい考え方であると思われる。しかしながら、書いてあることに賛成できなくても、それが批判するに値するほど、一つの立場として主張、根拠が伴っていれば、それは「良書」と言える。私は筋金入りの資本主義者であるが、そうした立場からしてもマルクスは読むに値する「良書」と言える。ニーチェの言を借りれば、「すくなくともわが敵であれよ!」ということである。


 自分が好きなジャンルや考え方に賛同できるものを読む割合が、どうしても多くなりがちです。
 娯楽としては悪いことではないのでしょうけど、そこから何を得られるか、と考えると、あえて自分とは違う考えの(そして、批判するに値する論拠のある)本を読んでみるというのは、けっこう大事なことなのかもしれません。
 

 この本で、著者は、「心をつかむ、組織論、グローバリゼーション、時間管理術、どこに住むか、才能、マーケティング、未来、正義、国語教育の文学」など、さまざまなジャンルを代表する2冊の本を採り上げ、そこに書かれていることを比較しながら、「本の読み方」を説明していきます。
 僕はビジネス書には疎いので、未読の本が多かったのですが、ここで紹介されている本は「最低限」として目を通しておいて良いのではないか、と思われます。
 世の中にはたくさんの本があるのだけれど、とくにビジネス書って、けっこう同じようなことが書かれているものが多いんですよね。
 ここで採りあげられている本は、そのなかでも「源流」と言うべきものばかりで、下流から遡って行く前に、まずはこれを読んでおいたほうが効率的なはず。
 そもそも、その「源流」もたくさんあるのですが、そのなかでも、「今、読む価値のある本」が厳選されており、それぞれの項目を読む前に、対決している2冊を予習したら、きっともっと役に立つだろうな、という気がするのです。
 

 ちなみに、「教養小説」の項で、ゲーテの『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』と対決しているのが、あだち充さんの『タッチ』だったり、児童文学の項があったりと、守備範囲の広さも見せつけられます。
 同じようなビジネス書ばっかり読んで、同じようなことばっかり書いている人じゃないんですよね。


 著者は『タッチ』について、こんなふうに述べています。

 一般的には高校野球を題材としたラブコメというのが『タッチ』の位置づけだと思うが、これを一つの「教養小説(Bildungsroman)」と再解釈するとこの作品の特異性が際立つ。
教養小説」とは、ドイツ文学に源流を持つ「主人公が様々な体験を通じて、内面的に成長し人格を完成させていく、大人になっていく過程を描く小説」と定義される。ゲーテの『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』がその古典とされているし、実は『アルプスの少女ハイジ』すらその系列に属する。


(中略)


 しかし、『タッチ』はこの古典的な様式をいきなり否定する。主人公となるべき努力家の双子の弟、上杉和也は一年生エースとして甲子園出場を決める試合に向かう途中、交通事故で亡くなってしまう。かくして、双子の兄、上杉達也は弟と、幼なじみの浅倉南の夢を実現すべく、甲子園を目指すことになる。
 この上杉達也という人物像がいわゆる「スポ根」ものとはかなり違う。甲子園を目指すという目標は、弟の死というアクシデントから来たものであるし、さらに言えば、浅倉南が望むからというのが主要な理由である。様々なエピソードを通じて、達也は甲子園という目標を主体的なものとして位置づけていく。
 また、スポ根は才能においてやや劣る主人公が努力によって乗り越えていくストーリーが多いが、達也の場合、元々あった抜きんでた才能を自己発見していくというストーリーに近い。また、ヒロインである浅倉南も「応援するだけの脇役」ではない。


(中略)


 『タッチ』の構図のその後の影響はあまりにも大きい。「平凡な少年がなぜか凄く優れた女性に好かれる」は、やや粗製濫造気味なライトノベルでよく使われるし、「主体的な目標を強制的に選ばされるが、好きな女性に認められるために打ち込み、圧倒的な才能が発見される」という構図は、例えば『新世紀エヴァンゲリオン』がまさにこれにあたる。そして、ライトノベルや『新世紀エヴァンゲリオン』は若者を中心に広範に受容されており、かつての若者が読んでいた日本の「教養小説」である『次郎物語』『真実一路』『路傍の石』などの代わりに、『タッチ』型「教養小説」を読んでいると言って良いだろう。


 そういう意味では、『タッチ』というのは、たしかに「転換点」であり、「新しい教養小説」というか「脱・教養小説」的な作品だったのだな、と僕も思います。
 モテない、運動音痴だった学生時代の僕は、『タッチ』が大嫌いだったんですけどね。
 そんなうまい話、あるかよ!って。
 だいたいお前ら、浅倉南じゃないだろ!……僕も上杉達也じゃないけど。


 世間的には、「フィクションの中くらい、そんな『うまい話』があっていい」ということなのか、努力・友情・勝利の「教養小説」なんてもう飽きた、ということなのか、『タッチ』は大きな支持を集めていました。


 僕自身も、だいぶ年を重ねてから読むと「まあ、これはこれで、ファンタジーとしては良いんじゃないかな」と穏やかな気持ちで受け入れることができました。
 まあでも、『タッチ』を読んで、「これからの人生、がんばろう!」って思う人は、あんまりいないですよね。いるのかな……