- 作者: 河合敦
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内容(「BOOK」データベースより)
三大財閥中、三百年以上の歴史を持つ旧家の三井・住友に対し、三菱は明治の動乱に乗じて短期間で巨万の富を築いた特異な会社である。坂本龍馬の遺志を継いで海運業を起こし、権謀術数を駆使してわずか五年で頂点を極めた政商・岩崎弥太郎。日本初のビジネス街・丸の内を建設した二代目・弥之助。戦争景気で業績を伸ばし、昭和の大不況を勝ち残った三代目・久弥と四代目・小弥太。時代に即した巧みな経営術と、現在も続く財界随一のグループ結束力で成り上がった一族、岩崎家四代のビジネス立志伝。
岩崎弥太郎という人が、三菱の創設者というのは、弥太郎が坂本龍馬関連の本などによく登場してくることもあり、よく知られています。
龍馬関連本では、岩崎弥太郎という人は、龍馬の豪放磊落さに振り回されつつ、龍馬たちを経済的に援助していく人物として描かれている事が多いのですが、この新書を読んでいくと、弥太郎自身も、かなり豪快な人物だったようです。
土佐の地下浪人(郷士(下士)の身分を失った武士)の子として生まれた弥太郎は、幼少時は悪戯ばかりしているガキ大将だったそうですが、長じて、学問に目覚め、幕末の時勢に乗って抜擢され、土佐藩の長崎での経済政策を担うようになっていくのです。
外国人とも積極的に交流し、信頼されていました。
さらに、ある外国商館と交わした「土佐藩を相手とするのではなく、岩崎弥太郎個人の信用によって取引をおこなう」との契約文書が、岩崎家に現存するということからも、弥太郎の卓越した交渉術を窺い知ることができるだろう。
ただ、いくら信用があるといっても、藩の特産物がさしたる価値を持たないうえ、金もない。本来ならば、とても外国商人から商品を購入できない状況にあった。
たとえば、月賦で払うと言って商品を納入させ、その後は、やっぱり商品はもういらなくなったと返品するふりをしたり、月賦を滞らせて借金を踏み倒すそぶりを見せたりして、購入代金を大幅に値切ってしまうという戦術を多用した。
このあと、弥太郎が実際に行った「戦術」の一例が紹介されているのですが、まあ、現在の眼でみれば「詐欺」ですよねこれ……
払えないことは、弥太郎だって承知の上だったのでしょうし。
でも、そうやって藩の命令に従っていたから「能吏」として評価されていたわけです。
それで入手した船や武器が、実際に明治維新のために役に立ったことは事実ではありますし。
そして、結果的には幕府が倒れてしまい、日本が変わったことで、これらの「罪」は、うやむやになってしまったのです。
維新後、弥太郎は政治家への転身を目論み、猟官運動も行うのですが果たせず、「三菱商会」で海運事業をはじめるのです。
そこで大成功を収めるのですが、それには、こんな発想がありました。
発展の理由は、徹底的なサービス戦略にあった。
弥太郎は、まず社員全員に向かい、「自分たちが士族であることを忘れろ」と厳命した。もともと三川(三菱)商会は、土佐藩士たちの授産・互助組織として誕生した経緯があったから、社員には旧藩士が多かった。このため支配階級としての尊大な立ち居振る舞いがどうしても前面に出てきてしまう。
これを改めさせるため、弥太郎はまず、格好から入ることにした。社員に前垂れの着用を命じたのである。周知のように、前垂れは商人の格好だ。この服装を強要することによって、社員自身の気持ちを変えさせ、お客に丁重に応対できるようにしたのである。なかなかユニークな発想だといえる。
だが、重役の石川七財だけは、どうしても武士の気風が抜けきれず、顧客に頭を下げることができなかった。これを知った弥太郎は、ある日、小判を描いた扇子を石川にプレゼントし、「客に頭を下げなくてはいけないときには、俺が与えたこの扇子を開き、小判にお辞儀すればよいのだ」
とアドバイスしてやった。以後、石川はその態度を改めるようになったという。
これはかなり有名なエピソードなのですが、あらためて考えてみると、弥太郎という人は、こういうときに「相手はお客なのだから、頭を下げるのが当然なのだ」という精神論、建前論を振りかざすのではなく、あえてこういう合理的な発想の転換をしてみせたのですね。
商売とは、そういうものなのだ、って。
頭ごなしにではなく、こういうふうに説得されれば、石川さんも受け入れやすかったのではないかなあ。
弥太郎が創設した海運事業は、弥太郎が土佐出身だったこともあり、薩摩藩閥を中心とした政府と接近、衝突を繰り返した末に、政府主導でつくられた新汽船会社との合併を余儀無くされました。
実際に合併がなされた時点では、弥太郎は、もう亡くなっていたのですが、そこから、現在の「三菱」の基盤となる、多くの業種の会社をもつ「三菱社」をつくりあげたのは、弥太郎の弟、弥之助だったのです。
豪放な兄と、16歳離れた、堅実な弟。
海運業の経営を手放しても、新会社の筆頭株主ではあり、鉱山経営なども行ってはいたのですが、ほぼ「リセット」に近い状態になった三菱を再興し、銀行や鉄鋼業、造船などに事業を拡大し、新たな形で財閥に育て上げたのは、弥之助でした。
ところで、三菱の歴史を見てみると、歴代社長の性質が見事にその時代にマッチしていることがわかる。豪傑な弥太郎であったからこそ、あの混沌とした時代に海運王国をつくれたわけだし、弥之助の温厚があったゆえ、藩閥政府との協調的発展が可能だったのだ。さらに、久弥の大人的気質があったれば、産業革命や(第一次世界)大戦景気の波に乗って大発展を遂げることができ、第一次世界大戦後の恐慌・金融恐慌・昭和恐慌・戦争による統制経済という厳しい時代を勝ち残れたのも、小弥太という猛烈なリーダーがいたからこそだった。
もしも社長の順序が少しでも狂ったなら、三菱の発展はこれほどでもなかっただろう。まことに不思議な摂理であり、天が味方しているのではないかと疑いたくなるような強運さである。
この新書を読んでいくと、三菱というのは「その時代にマッチしたリーダー」がバトンを繋いでいくことによって、ここまで発展を遂げることができたのだな、ということがわかります。
みんなそれぞれ「有能」であっても、「順番」が違ったり、タイミングが変わったりしていれば、三菱は潰れていた、あるいは、沈んだまま浮かび上がれなかったかもしれません。
歴史には、そういう「めぐりあわせ」みたいなものって、あるんですよね。
著者がけっこうこまめに顔を出して、司馬遼太郎を10倍くらいおせっかいにしたような「人生訓」みたいなのを述べるのが興醒めではあるのですが、三菱四代の歴史というのは、なかなか興味深いテーマではありました。