琥珀色の戯言

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【読書感想】第157回芥川賞選評(抄録)


Kindle版もあります。

文藝春秋2017年9月号[雑誌]

文藝春秋2017年9月号[雑誌]


今月号の「文藝春秋」には、受賞作となった沼田真佑さんの『影裏(えいり)』の全文と芥川賞の選評が掲載されています。
恒例の選評の抄録です(各選考委員の敬称は略させていただきます)。

山田詠美
 『影裏』。釣りの話かと思えば、LGBTの元恋人のエピソードがあり、友人日浅と映画「ブロークバック・マウンテン」のような成り行きになるかと思えば、震災が彼を奪った…かと思ったらその父親から息子の正体が語られる。ぽつりぽつりと置かれた描写をつなぐのは、主人公の背後にまとわりつく彼の存在。まるで、きらきらと輝く接着剤のような言葉で小説をまとめ上げて行く。うまいなー。

吉田修一
(『影裏』について)
 では、その核心とはなんなんだ? というのが選考会での議論となった。単なるほのめかし小説ではないかという意見も出た。
 実際、ほのめかし小説であると私も思う。ただ、このほのめかしは、マイノリティである主人公の余裕から出るものではなく、余裕などからは程遠い、そのギリギリのところで絞り出された勇気から出たものと読んだ。

村上龍
 新作を上梓したとき、パブリシティを兼ねて、新聞・雑誌などの取材を受ける。「この作品で、何を言いたかったのですか」とよく聞かれるが、わたしは「言いたかったことはありません」と答える。私見だが、小説は「言いたいことを言う」ための表現手段ではない。言いたいことがある人は、駅前の広場で拡声器で叫べばいいと思う。
 だが、「伝えたいこと」はある。ただし「伝えたいこと」を作家が自覚しているとは限らない。とくに、「無自覚に書く」のは新人、若い作家の特権かもしれない。「伝えたいことはない」という作品を書くのも作家の自由だが、それでも、「この作品には伝えたいことがないのだ」ということは伝わるべきである。たぶん「伝えたいこと」は、作家が自覚的に物語に織り込むのではなく、読む人が発見すべきものなのかもしれない。

奥泉光
 今回の選考会では、今村夏子氏「星の子」と沼田真佑氏「影裏」の二作品が残り、最後の投票で過半数を越えた「影裏」が受賞作に決まる展開となったが、自分はむしろ残りの二作を評価していたので、サッカーで云えば「消えている」時間帯が長かった。

宮本輝
 私は芥川賞の候補作が年々長くなっていくことに不満を感じている。重くも軽くもないただ長いだけの刀になんの威力があろう。
 その長い小説のひとつである温又柔さんの「真ん中の子どもたち」は、日本人と台湾人のあいだに生まれた主人公が中国本土に語学留学する話である。
 これは、当事者たちには深刻なアイデンティティと向き合うテーマかもしれないが、日本人の読み手にとっては対岸の火事であって、同調しにくい。なるほど、そういう問題も起こるのであろうかという程度で、他人事を延々と読まされて退屈だった。


(中略)


 沼田真佑さんの「影裏」は、一回目の投票で過半数を超えた。これは私には驚きだった。そんなに高い評価を選考委員の多くが与えるとは予想していなかったのだ。
 たしかに今回の四人の候補者のなかではいちばんうまい。だが、芥川賞において「うまい」という美点はさして重要ではない。
 東日本大震災に向き合った数少ない小説と評する委員もいたし、たしかに震災が小説の後半においてキーワードにはなっているが、私は、あの巨大な震災など、この小説のどこにも書かれていないと感じた。
 大震災がありました。友だちが姿を消しました。それだけでなぜ震災を書いたことになるのか。

高樹のぶ子
「星の子」
 意図的に会話で小説を作っているが、会話のリフレインが冗長に感じられた。大人に支配される子どもの切なさや、独特の浮遊感に混じる不穏な暴力の気配も、この文体の効果として認めるものの、この文体では少女の視点でしか書けないのではないかと危惧する。作者の才能が少女の枠から飛び出して羽ばたくのを待ちたい。

小川洋子
(『星の子』について)
 ラストの星空の場面、崩壊の予感に満ちあふれながら、決定的なものは描かれない。にもかかわらず、言葉にされなかった痛みは、傷とラクガキに覆われたお姉さんの手にありありと浮かび上がって見えている。書かれた言葉より、書かれなかった言葉の方が存在感を持っている。

堀江敏幸
 説明を省く。あるいは、圧縮すると、言葉の隙に稲妻が光る。沼田真佑さんの「影裏」は、故意の言い落としで語りのバランスが崩れるのを承知で、よく計算して書かれた一作だ。

川上弘美
「星の子」の作者は、誰も教えることのできない、「どう書けばその小説を小説たらしめることができるのか」ということを、すでによく知っている。第一に、推しました。どうぞ、さらに先に進んだ新しい小説を、また読ませてください。

島田雅彦
 温又柔の『真ん中の子どもたち』は東西の日本語、台湾語、北京語、上海語が飛び交う言語多様性の只中で屈託なく、軽やかに生きることをひたすら肯定する一種の宣言文と読める。「国際」という擁護がさしたる軋轢や実体を伴わずに概念として広く浸透しているこの世界の片隅で、自らが拠って立つ足場の確認を繰り返し行うことにこの作者はそろそろ飽きなければならない。既に自己の特異性を痛快にエッセイに書いた後、それをノベライズしても二番煎じを越えないのである。

 今回の候補作は4作と少なめだったためか、これまでと比べると、全作品に言及している選評が多かったようです。
 選考会では、『影裏』と『星の子』が最後に残って、2作同時受賞の可能性も検討されたものの、最終的には『影裏』の1作受賞に落ち着いたそうですが、選評を読んでいると、『影裏』の描写力をみんなが評価している一方で、「ほのめかし小説」という批判もあったようです。
 宮本輝さんの「大震災がありました。友だちが姿を消しました。それだけでなぜ震災を書いたことになるのか」というコメント、僕は「たまには良いこと言うじゃないですか宮本さん!」って思いましたよ。
 その前の『真ん中の子どもたち』に対する、「日本人の読み手にとっては対岸の火事であって、同調しにくい」には、「自分=日本人にしちゃダメだろ……」って言いたくなったんですけどね。
 これはまさに、ネットで叩かれやすい「主語が大きい」ってやつだよなあ。
 『影裏』に関しては、描写が上手い+テーマがあまり明確に描かれていないので、「×(絶対に授賞には反対)」の票は投じにくいというのがあったのではないかと思います。
 前評判が高かった、今村夏子さんの『星の子』は、高く評価する委員もいれば、そのテーマが子どもの視点で書かれていることにマイナスの評価をしていた選考委員もいたようです。
 高樹のぶ子さんの「この文体では少女の視点でしか書けないのではないか」という選評には、「でも、この作品が、『少女の文体』になるのは自然なことだろうし、そこに難癖をつけるのはいかがなものか……芥川賞って、作品単位での評価じゃないの?」とは感じたんですけどね。
 そんなの、又吉直樹さんのデビュー作『火花』を読んで、「この人は、漫才師の話しか書けないのではないか」って言うようなものじゃないかな。

 
 こうしてずっと芥川賞の選評を読んでいると、その回ごとにテーマというか、「今回は純文学を評価する回」とか、「話題性重視の回」「現代的なテーマが描かれているかに注目している回」「授賞作が見つからない回」などに分かれているように感じます。
 今回は「純文学系の回」で、『影裏』のような「地味だけど、文章が上手く書けている作品」にスポットをあたったのではなかろうか。
 でもこれ「震災を書く」作品だといえるのかな……
 ただ、村上春樹さんの『神の子どもたちはみな踊る』も、「阪神大震災のことを直接書かずに伝えようとした短編集」だったんですよね。
 正面から東日本大震災を書くとするならば、フィクションではドキュメンタリーにはかなわない。
 むしろ、「ほのめかし」こそが「小説らしい」ということなのでしょうか。


影裏 (文春e-book)

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星の子

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