琥珀色の戯言

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【読書感想】先生! ☆☆☆

先生! (岩波新書)

先生! (岩波新書)


Kindle版もあります。

先生! (岩波新書)

先生! (岩波新書)

内容(「BOOK」データベースより)
「先生!」―この言葉から喚起されるエピソードは何ですか?池上彰さんの呼びかけに、現場で実際教えている人のほか、作家、医師、職人、タレントなど各界で活躍の二七名が答えた。いじめや暴力問題にゆれ、教育制度改革が繰り返されているけれど、子どもと先生との関係は、かくも多様でおもしろい!希望のヒント満載のエッセイ集。


 池上彰さんが編者の、さまざまな人が自分の「先生」に対する考えや思い出を綴ったエッセイ集です。
 池上さんは、エッセイの寄稿者への依頼文のなかで、こんなことを書いたそうです。

 教育現場をめぐっては、このところ心痛む事件が相次いでいます。事件を受けての学校や先生、教育委員会、首長の対応にも首を傾げる事が多く、一段と情けない思いが募っています。
 こうした状況もひとつの原因なのでしょうが、安倍政権は「教育再生会議」を再開させました。でも、この名称に、私はひっかかるのです。「再生」と銘打つということは、いまの教育が「死んでいる」と決めつけているようにも思えるからです。
 それは、本当でしょうか。海外と日本の教育現場を見てきた私からすると、日本の教育レベルは、まだまだ世界に誇っていいことがたくさんあると思うのです。まだまだ日本の教育は死んでいないと思うのです。それは「学力」に関しても同じです。「学力」とは何かを考えることなく、安易に「学力低下」という言葉を使ってほしくないと思ってしまいます。


 僕の子どもが小学校に通うことになり、ときどき行事などで学校に行き、先生と話をする機会があるのです。
 授業参観では、「なんでうちの子はあんなに落ち着きがないんだろう……」と嘆きつつも「まあ、僕の子どもだから、なんだろうな……」などと、妙な安心感に浸ることもあります。
 学校に行くようになって痛感するのは、これまでの僕は、自分が受けてきた「30年前の教育」を基準に、「いまの教育」について考えていたのだな、ということでした。
 「いまの教室や先生」に実際に接することもなく、マスメディアやネットの情報を鵜呑みにして。
 学校がホームページで情報発信していたり(自分の子どものテストの成績をネットで確認することができるんですよ!)、子どもたちも連絡用の携帯電話を持ち歩いていたり。
 でも、接してみると、その「生意気な小学生」っぷりは、30年前と、そんなに変わらない。
 もちろん、これは「僕自身が自分で見ることができた範囲の話」でしかないのですが、それでも、他人の受け売りで教育現場の批判をしている人、あるいは、30年前や50年前、自分が子どもの頃が「ふつう」であり、「正しい」と考えている人が、かなり多いと感じます。


 この新書では、「先生」と呼ばれる立場の人(学校の先生や学者、医師など)が教える側として書いていたり、タレントが「教わる側としての思い出」を紹介したりしているのですが、世の中には、いろんな「先生」がいるものだなあ、とあらためて考えさせられるのです。


 稲泉連さんは「小学生の頃、授業中にギターの弾き語りをしていた風変わりな先生(杉山先生)」のことを書いておられます。

 杉山先生の普段の授業は至って真面目で真っ当なものだったが、彼にはもう一つ、他にはないこだわりがあった。それは各科目のテストの採点方法で、どんな答案にも点数というものがなく、大きな赤い丸か花丸が付けられているのである。彼のテストの採点は常にこの「できました」と「良くできました」の二段階評価だった。
 不思議なことに、クラスでは点数がないからといって、児童がテストを適当にやることはなかったように思う。僕自身の思いから言えば、答案に付けられた赤くて大きな丸の持つ意味は、テストを受ける自分がいちばんよく知っていた。たとえ点数が付けられていなくても、懸命に勉強した後の花丸は誇らしく、そうではなかったときはみすぼらしく見える。先生が意図していたかどうかは分からないが、そんなときの丸は少し小さ目に描かれているようにも感じられた。
 今から振り返れば、ずいぶんと思いきったことをしていたものだ。当然、保護者会では親たちから疑問の声があがったらしい。後に母から聞いた話によれば、「なぜ点数を付けてくれないのか」と問い質す保護者に対して、杉山先生は「子どもたちは花丸が大好きなんです」と言い放ったという。
「子どもたちに100点を取らせることなんて、やろうと思えば誰にでも簡単にできるんです。でも、あの子たちはこれから小学校を卒業すれば、ずっと厳しい競争の中を生きていくことになります。せめて今のうちだけでも、そうではない世界に触れさせてあげるべきだと僕は思います」
 ただ、こうしたやり取りを交わしながらも、親たちと杉山先生が決定的に対立することはなかったという。何より大人たちにとっても、スギセンはどこか憎めない存在だったからだ。


 僕は正直、この杉山先生のやり方が「正しい」かどうか、わからないんですよ。
 どこまでが「先生」の裁量で自由にやっていい範囲なのか、とも思う。
 でも、こういう先生に「好きにやらせてあげてみたい」という気もするのです。
 僕の記憶に残っているのは、こういう先生が多いから。


 爆笑問題太田光さんは、池上彰さんにこんな話をされています。

太田光もともと学校というのは、国語とか算数とか、教科を教えるところでしょう。教科を教えるのが本業の先生に、何でも、先生、先生! って、人生だの生活指導だのまで教えろというのは無理がある、と思いますよ。しかも、社会に出たこともない新卒の若い先生が生活指導とか人生哲学を教えるなんて、そんなの無理に決まってるじゃないかと思う。


池上彰確かに、本来学問を一生懸命学んだ人が先生になっているわけですからね。そうすると、学問の楽しさをうまく伝えてくれればいい、ってことですね。


太田:そう。算数にしたって物理にしたって、この世界の多くの現象を数字や数式で説明する学問ですよね。どうしてそうやって説明できるんだろう、と突き詰めていけば、人間ってどうして存在しているんだろうとか、宇宙ってどういう法則があるんだろうっていう話になる。つまり全部、哲学につながってくるでしょう。


池上:そもそも学ぶということが自分の生き方につながるとか、結局は哲学になるんだということを、きちんと教えてくれる先生がいてほしいけどいない、ということでしょうか。


太田:いないですね。本来だったら、ふだんの生活の中から湧き出た疑問、「これは何だろう」とか「何で俺たち生きているんだろう」とか、「何でテロが起きるんだろう」とか、そういう自分たちの本当に身近な、いま直面している問題からその理由や原因を探っていくことが学問なんだと思うわけです。なのに、そこから離れてたところから入ってしまうから、学ぶ意味がわからなくなって、混乱してるんじゃないかという気がする。


池上:そういうなかで、学校の先生が、子どもたちに、その学問の面白さ、楽しさを伝えるには、どうすればいいんでしょう。


太田:やっぱり学校にそこまで期待しないほうが、正しいと俺は思うんですけどね。


 「勉強」は教えることができても、「正しい人生」を教えるなんてことは、誰にもできない。
 もしかしたら、「学校」は、期待されすぎているのかもしれません。
 でも、「学校」や「先生」に、何らかの影響を受けてきた人は多いはずですし、大人になってみると「先生だって、ひとりの人間であって、完璧じゃないんだよな」と、あらためて思うのです。
 子どもの頃だって、むしろ「完璧じゃないけれど、それを自分で受け入れて生きている先生」のほうが、好きだったような気がします。


 学校とか先生って、不祥事ばかりがクローズアップされがちだけれど、実際は、「それなりにがんばっている人」が大多数じゃないのかな。


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