琥珀色の戯言

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【読書感想】極夜行 ☆☆☆☆

極夜行

極夜行


Kindle版もあります。

極夜行 (文春e-book)

極夜行 (文春e-book)

内容(「BOOK」データベースより)
ひとり極夜を旅して、四ヵ月ぶりに太陽を見た。まったく、すべてが想定外だった―。太陽が昇らない冬の北極を、一頭の犬とともに命懸けで体感した探検家の記録。


 僕自身は、全くもって「アウトドア」とか「冒険」とは程遠い人生を送っているのですが、それだけに「冒険をする人」や「探検ノンフィクション」に魅かれてしまうのです。
 角幡唯介さんは、「グーグルアースで世界のほぼ全域を見ることができる時代の冒険家」として、自らの内面に踏み込むような「探検記」を書き続けている貴重な存在なんですよね。

 地球上には極夜という暗闇に閉ざされた未知の空間がある。
 それは太陽が地平線の下に沈んで姿を見せない、長い、長い、漆黒の夜である。そしてその漆黒の夜は緯度によっては三カ月も四カ月も、極端な場所では半年間もつづくところもある。
 私がシオラパルクの村を訪れたとき、村はもう二週間以上前から太陽が昇っていなかった。

 極夜の世界に行けば、真の闇を経験し、本物の太陽を見られるのではないか——。
 そんなことを考えたのは、もうずいぶん前のことになる。
 幸運なことに、極夜という現象そのものを未知なる空間ととらえて、それを洞察するために探検した人間は過去にはほとんど例がなかった。もう未知など存在しないと思われているこの高度情報化社会であるが、極夜世界だけは比較的手軽な謎の空間として、ほぼ手つかずで放置されたままだった。暗くて寒いだけの極夜など多くの人にとって関心の対象ではなかったのだろう。それに、どう考えてもそんな面白味のない状況に好き好んで旅しようと考える酔狂な人間は、長い人類史上でもほとんど存在しなかったのである。
 しかし私は極夜にひきつけられたのだった。気になってしょうがなかった。太陽のない長い夜? いったいそこはどんな世界なのだろう。そんな長い暗闇で長期間旅をしたら気でも狂うのではないか。そして何よりも最大の謎、極夜の果てに昇る最初の太陽を見たとき、人は何を思うのか——。
 太陽があることが当たり前になりすぎていて、太陽のありがたみすら忘れ去られてしまった現代社会。人工灯におおわれて闇を駆逐し、闇の恐ろしさすら分からなくなってしまった現代社会。そんな日常を生きるわれわれにとって、太陽のない長い夜の世界には、まさに想像を絶する根源的な未知がねむっているように思えた。もし、この数カ月におよぶ暗黒世界を旅して、そしてその果てに昇る太陽を見ることができれば、私は夜と太陽、いや、それを突きぬけて闇と光の何たるかを知ることになるのではないか。
 私が世界最北の村シオラパルクにやってきたのはそんな思いがあったからだった。


 いまの日本で生活していると「本物の暗闇」「絶望的なまでの漆黒」に遭遇する機会は、まずないのです。眠るときには部屋の電気を消すかもしれないけれど、それでも、なんらかの電気製品のランプが灯っていることが多いし、いざとなれば、スイッチを押せばすぐに明るくなります。あるいは、スマートフォンのボタンを押せばいい。
 そんな環境から、あえて、「太陽のない世界」に足を踏み入れ、その暗闇を旅した末に見る太陽をみて、自分はどう感じるのか?


 角幡さんは、いまの世界で「冒険」「探検」をすることの難しさを述べています。
 いまや、人類にとって「未踏の地」はほとんど失われてしまっているし、便利な道具によって、昔のように「命懸け」のものではなくなってきているのです。
 エベレストの頂上に、いきなりヘリコプターで降りるのは「探検」なのか?(それはそれで、高山病になりそうですが)
 いつでも通信回線で救助を呼べる「冒険」に、意味があるのか?


 とはいえ、現代では、あえて、救助を呼ぶ手段すら持たずに危険な場所に行くというのは、無謀というより、周囲の人々に対して横暴なのではないか?
 現実問題として、ひとりの力だけでそんな冒険の準備をすることは難しいし、心配する人だって少なからずいます。

 今回の探検は一応、北極海を目指すという地理的な到達点をひとつの目標にしているが、真の目的は地理的にどこかに到達することではなく、極夜世界そのものを洞察することにあった。探検・冒険行為の核は脱システムすることにある。常識や科学知識や因習や法律やテクノロジー等々の諸要素によって網の目のごとく構成されているこの目に見えない現人間界のシステムの外側に飛び出すこと。それこそが冒険と呼ばれる行為の本質であり、そのシステムの外側の領域で何がしかを探索することが探検と呼ばれる行為だ。昔の探検は地理的探検にしばられていたので、地図の空白部を目指すことや未接触部族を発見することばかりが探検だとみなされていた。実際、地図は人間界のシステムを空間的に可視化したメディアなので、地図の外側に行くことはすなわちシステムの外側に出ることに等しく、たしかにそれは冒険であり探検だった。しかしもう21世紀に突入して16年目、さすがに本物の地理的空白部や秘境はほぼ消滅し、百年前の未接触部族も子供の誕生日にスマホをプレゼントする時代に入っている。シオラパルクのイヌイットもみんなフェイスブックをやっていて、フェイスブックをやっていない私は、何でお前はこんな便利なもの使わないんだ? と逆に訊かれる。そんな時代に地理的探検などさすがに無理があるし、それをやったところであまり面白くない。いや、実際には多分面白いのだろうけど、作家・探検家という肩書きで行動者であるとともに、表現者としても活動している私としては、古い地理的探検にこだわっても新しい探検表現にはならないので、その意味で面白くないのだ。では古い地理的な探検にかわる新しい探検のテーマとして何が考えられるか、となったとき、ピンと閃いたのが極夜世界の探検だった。

 
 文明がつくりだした「人工的な光の世界」から、光や闇、天体に翻弄されるしかない世界に脱けだすことによって、「現代のシステムの内側にいては分からなくなったことを探る」のが、今回の目的だったと角幡さんは仰っています。
 今の時代、冒険家も、ここまで理論武装しないといけないのか……と思いながら、僕はこの本を読んでいました。もう、自然の猛威を描くだけでは「探検記」は成り立たなくて、自分の内面の変化を見出すことが大きな目的になっているのです。
 なんだか、便器に「泉」というタイトルをつけて、現代アートを切りひらいた、マルセル・デュシャンみたい。
 

 この「極夜行」、読んでいくと、「世の中には、こんなにトラブル続きの『呪われた探検』というのがあるのか……」と、驚かされるのです。
 この本が書かれているということは、角幡さんが生還してきているからだ、という最低限の安心感はあるのだとしても。

 それにしても、うまくいかないもんだと私は思った。
 2012年12月から始めたこの極夜探検の企画だが、ずっと不運としか言いようもない逆境にさらされてきた。旅の途中で政府から強制退去処分をくらったり、白熊にデポ(物資の保管所)が襲われたり、氷河の荷揚げができなかったり、そんなことばかりだった。六分儀がなくなり暗然としたのも、ナビゲーションが難しくなることや、タマヤの人たちに申し訳ないという気持ちからだけではなかった。何となくこの嫌な流れがまだつづいているような気がしてならなかったのだ。


 その予感は、正しかった……
 ちなみに、この文章は、本全体の最初の5分の1くらいのところで出てきます。
 あまりに次々に酷い目に遭う角幡さん。
 僕は読みながら、「この人は、なんでこんな苦境に自ら飛び込んでいって、呪詛の言葉を吐き続けているんだ?」と疑問になってきました。
 それが探検家というもの、なのだろうか。


 ちなみに、この本の後半は、そんなに犬好きではない僕でさえ、角幡さんのパートナーである犬の運命が、すごく気にかかっていたのです。
 犬は、貴重な労働力であり、話し相手であり、最後の食糧でもある。
 極限状態での、人と犬の関係、そして、角幡さんの決断は……


 若い頃の苦労は買ってでもしろ、なんて言われますが、本当に買って苦労している人を見ると「物好き、だよなあ」と思わざるをえない。
 自分には到底できない「物好きとしか言いようのない行為」って、なんでこんなに魅力的なのだろうか。
 角幡さんの探検の話って、読んでいると癖になるんだよなあ。


漂流

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