- 作者:恵, 唯川
- 発売日: 2020/07/08
- メディア: 文庫
Kindle版もあります。
内容(「BOOK」データベースより)
取材のためのはじめての登山が辛くて、山なんてやめた…はずだった。それが浅間山を皮切りに、谷川岳や八ヶ岳、そして富士山、ついには標高五〇〇〇メートルを超えるエベレスト街道を歩くまでに。何が楽しいのか?辛いのにどうしてまた登ってしまうのか?山道具から下山後の宴会まで、さまざまな山の魅力を描いた傑作エッセイ。
僕も一時期、山に登っていたことがありました。とはいっても、このエッセイの著者の唯川恵さんのような本格的なものではなくて、家族の趣味になんとか付き合おうとしていた、という感じだったのですけど。
僕はインドア派を自認しており、「なんでわざわざ遭難したり蛇や熊に遭遇したりするリスクを冒して、疲れなければならないのか」と登る前は思っていたんですよ。
でも、自分でやってみると、山に登るという行為には、なんというか「自分は健康的なことをしている!」という快感があったのも事実です。
運動になるし、頂上までたどり着くと達成感もある。
子どもが生まれてからは登らなくなってしまいましたし、そうなると、また一から始めよう、という気分にはなれないのですが、この本を読みながら、「登山にハマってしまう人と、疎遠になってしまう人には、どんな違いがあるのだろうな」と考えていたのです。
「これ」と言えるような理由はわからなかったのですが、趣味の山登りのレベルでは「仲間」がいるかどうか、というのはけっこう大きいような気がします。
その年の二月に還暦を迎えた私が、まさかエベレスト街道を歩き、5000メートル級の山に登ろうとするなんて考えてもいなかった。
私自身、不思議に思う。
どうして私は、山登りをするようになったのだろう。
それにしても、あまり乗り気ではなかった著者が、50歳を過ぎてから登山にハマり、エベレスト街道のトレッキングにまで挑戦するようになるとは……
今はもう、断然、山派。海水浴から森林浴へとシフトチェンジした。
ただ、困ったことがひとつある。
それは、私が高所恐怖症ということだ。
だから高層ビルやタワーの展望台に行っても決して窓には近づかないし、ジェットコースターにも観覧車にも乗らない。リフトやロープウェーもできるだけ避けるようにしている。落ちないとわかっていても怖いものは怖いのだ。
時折、テレビやネットで、身の竦むような動画を見ることがある。
ビルの屋上のへりで逆立ちしたり、巨大な橋脚のてっぺんに登ったり、谷底に向かってバンジージャンプをしたり、飛行機や崖からパラシュートで飛び降りたり……どうしてあんな怖いことができるのだろう。私にはとても理解できない。
前に、吊橋からバンジージャンプをした人と話していて「なぜ怖くないの?」と尋ねたら、逆に「なぜ怖いの?」と聞き返された。
「ちゃんとロープを繋げているし、空に向かって飛べるなんて鳥になった気分で爽快じゃない」と言うのである。
「そのロープが切れるとは思わないの?」
「そんなこと言っていたら、飛行機にも乗れない」と、笑われてしまった。
人間には四人にひとり冒険DNAが備わっているという。
私の恐怖心は、彼らにとって好奇心となる。気持ちのベクトルがまったく違う方向を向いている。
だからといって羨ましいわけではない。人生にも、心の中にも、いたるところに危険が蔓延しているのだから、何も谷底に飛び降りなくても、私は今のままで十分ハラハラしながら生きている。
四人にひとりの「冒険DNA」か……それが科学的な事実かどうかは僕にはわからないのですが、ジェットコースターやバンジージャンプを好む人のことを考えると、そのくらいの割合なのかな、とも思います。
僕は「なんでお金を払って怖い思いをしなきゃいけないんだ?」「バンジージャンプのロープが切れる可能性を想像したら、それ以上バカバカしい死に方って、あんまり思いつかない……」という「非冒険DNA」の持ち主みたいです。
ただし、この「恐怖心が薄い」というのは、登山にとってはけっして良いことばかりではなくて、怖くないから集中力を欠きやすく、足を滑らせる可能性が高いのだそうです。高所恐怖症のほうが事故を起こす確率は低いのだとか。
唯川さんの話を読んでいると、「冒険DNA」みたいなものって、生まれつきの場合もあるけれど、何かをきっかけに開花することもあるのかもしれません。
今は、中高年になって登山をはじめる人も多いみたいですし。
世界の高峰を目指す登山家クラスになると、やはり、「冒険DNA」を持っていそうな気はしますが。
著者は、浅間山登山を途中でリタイアした最初の登山体験から、少しずつレベルアップしていく経過や山のルール、道具や歩き方について学んだこと、日本の山小屋での理不尽な扱いなど(逆に、登山者側のマナー違反の数々にも触れています)について、自ら経験してきたことを率直に語っています。
「山大好き、自然大好き!」という「ナチュラル山ガール」ほど無邪気ではなく、「冒険せずにはいられない」という登山家ほど深刻でもないスタンスは、僕にもけっこう親しみが持てたのです。
僕の場合は、エベレストにまでたどり着くことはないとは思いますが。
八ヶ岳の名を耳にすると、いつも登山家の谷口けいさんを思い出す。
1972年生まれ。デナリ(マッキンリー)、マナスル、エベレストをはじめ、世界の名峰を数々踏破された。初登頂、初登攀の記録も数多く樹立されている。
2008年、カメット未踏ルート南東壁初登攀で、第17回ピオレドール賞を女性として初めて受賞された。まさしく世界から注目を浴びる登山家のひとりだった。
谷口さんとは、私が山に登るきっかけとなった『一瞬でいい』という小説の解説を引き受けてもらったことが縁でお目にかかった。
会ったとたん、なんて気持ちのいい人だろうと思った。日に焼けた笑顔が眩しい。全身から森と風と雪の匂いが立ち昇ってくるようだ。そこにいるだけで周りを明るくする。その爽やかな佇まいと、穏やかでどこかはにかむような話しぶりにたちまち魅了された。
谷口さんにとって八ヶ岳は特別な山だという。海外遠征から帰って来ると、すぐに八ヶ岳に行く。体調がすぐれなかったり、気持ちが沈んだりした時も同様で、八ヶ岳に入ると身体も心も落ち着きを取り戻すのだそうだ。
八ヶ岳には不思議な力がある。私も登るようになってそれを感じる時がある。行くとここに来たというよりも、帰って来たという感覚になる。
2015年・冬。
谷口さんは北海道・大雪山系黒岳で滑落し、亡くなった。享年43。あまりに突然の訃報だった。
あんなに山を愛した谷口さんを、奪っていったのも山だった。言葉もない。
山にはとてつもない魅力があるけれど、死と隣り合わせの場所でもあります。
2009年7月16日、大雪山系・トムラウシ山で18人のツアー登山者のうち8人が死亡するという夏山登山史上最悪の遭難事故が起きました。
僕がこの事件について書かれた本を読んで驚いたのは、生還した人たちのほとんどが、また、山に登っているということでした。
というか、登り続けている。しかも、同じツアー会社を利用している人もいるのです。
このエッセイ集を読むと、山の魅力とともに、還暦を過ぎてもエベレストに向かってしまう「魔力」みたいなものが、怖くもなってくるのです。
冒険DNAが無いから、なのかな……