琥珀色の戯言

3000冊以上の【書評】と500作以上の【映画感想】を、ちゃんと読んで、観て書いてきたブログです。話題になったあの本や映画の感想が、たぶんあります。新書、ノンフィクション、インターネット関連本が多め。

「はてなへの絶望」が最大の理由なら、ブログはやめないほうがいい。


はてなに絶望しました。もうブログやめます。 - Paper Storm!!!

少し前に話題になった↑のエントリを読んで。
id:shiroannさんが「はてなに蔓延している(ように見える)ネガコメ」に対して不快感や嫌悪感を抱いた気持ちは僕にもわかる。「見なきゃいい」っていうけど、実際そういうのを気にしないとか見に行かないというのは、なかなか難しいことだし。
そして、もしshiroannさん自身が疲れていて、このままブログを続けていては身が持たない、と考えておられるのなら、絶対に休むか止めるかしたほうがいい。仕事とか学校の場合は、どんなに追い詰められた状況でもそう簡単に「止める」ってわけにはいかないだろうけど、ブログの場合はリフレッシュしたらまた戻ってくればいいのだし、もし「はてな」の居心地が悪いと感じているのなら、他所で書けばいいだけのことだし。

ただ、もしこの「ブログ終了」が、「『はてな』や『はてなブックマーク』への抗議」を目的とするものであれば、僕は、こんなふうに止めることは、問題の改善には繋がらないんじゃないかと思う。

先日読んだ『自殺ドミノ』という本の最後に、著者の石原行雄さんは、こんなことを書かれています。

 精神的に追い詰められた者は、自らを防御するのに手一杯となる。己が傷つけられることにばかり意識を奪われて、自らが誰かを傷つける可能性については無頓着になってしまうのだ。
 自死に魅入られた者には、「自殺をしない」という大きな選択肢が見えにくくなっているのと同様に、自らが誰かを傷つけ痛めつけてしまう可能性が見えにくくなっているのではないだろうか。自分が何者かから与えられたと同等の苦しみ――を、自らが誰かに与えることになろうという可能性を。
 しかも、哀しいことに、自殺者の生み出す苦しみは、自殺者が愛する人や、自殺者を愛していた人にほど、強く激しいものを及ぼす。
 例えば、いじめ報復自殺において、加害者に反省が見られず、ときには証拠隠滅をさえ謀り、学校関係者に至ってはいじめの事実を隠蔽しようとすることが多々ある。自殺者が報復を願った相手ほど、大したダメージを受けないのが現実なのだ。
 ダメージを受けるのは、自殺者が愛する者、自殺者を愛してくれた者、そして偶然にも関わり合いを持たされてしまった赤の他人といった人々。自殺はそうした人々の心身や経済や、人間関係や、穏やかな日々を破壊する。その報いとして自殺者は憎まれ、恨まれることになる。

 もちろん、「サイトを閉鎖すること」と「自殺」が「等価」だというつもりはありません。
 極端な話、誰かがサイトを閉鎖したからって、それが他人にとって一生のトラウマになることは、まずありえないでしょうから。
 ただ、「抗議したかった相手はほとんどダメージを受けず、本当にダメージを受けるのは、自分を愛してくれていた人」だという点においては、「サイト閉鎖」と「自殺」には、同じ傾向があるのです。
 いや、「人の命が失われること」であれば、さすがに「報復を願った相手」も少しはダメージを受けるとは思うんですよ。でも、「サイト閉鎖」の場合は、「閉鎖によって報復・抗議したかった相手」は、それを知って、ただ「快哉を叫ぶ」だけです。もちろん、全部がそうじゃないかもしれないけど。
 そして、その「閉鎖劇」でいちばん困ったり悲しんだりするのは、「いままで読んで応援してくれていた人、楽しんでくれていた人」なんですよ、間違いなく。

 人間って、ネガティブバトルを繰り広げているときって、目の前の敵しか見えなくなりがちです。自分を攻撃する人から逃れたい、叩き潰したい。
 そういうときこそ、「味方」(とまでは言い切れなくても、いつも来て読んでくれる人でいいんですよ)のことを思い浮かべてみてください。
 毎日100人が来て、全員が誹謗中傷者であるなんてことは、まずありえません。
 彼らは声が大きく、悪口というのは耳につくものなので、なんとなく「世界はネガコメに満たされている」ような気がしてくるのですが、実際はそんなことないんです。
 ブログの存在を本当に支えてくれている人、本当にブロガーにとって大事な人は、「ネガティブコメンテーター」ではないはずです。

 だからさ、自分を攻撃する人と戦うために書いたり、書くのをやめたりするんじゃなくて、自分を応援してくれたり、喜んで読んでくれている人たちのほうを向いてブログを書こう。

 止めることでは世界は変わらないけど、こうして続けていけば、いつか、何かが変わっていくかもしれない。
 たぶん、ネガコメの人たちが自分たちがやっていることをいちばん虚しく感じるのは、「反撃される場合」じゃなくて、「相手にされない場合」だろうしね。



 ところで、僕も『はてな』のネガコメへの対応には失望しています。
 全部取り締まれとかいう無茶なことを言うつもりはないので、『はてな』として、「死ねばいいのに」という言葉への

「本来の意味から申しますと好ましい表現ではありませんが、実際には、慣用句的に使われている場合も多くみられる」

 なんていう「寛容すぎる」見解を示すのではなくて、「好ましい表現ではないので、『はてな』では使用すべきではないと考えている」と宣言するだけでもいいんですよ、とりあえずは。「なんでもあり」「野放し」じゃないことを明言するだけでも、絶対に違ってくるはずです。いや、利用規約にはもちろん「なんでもありってわけじゃない」ことが書いてあるんですが、少なくともそれはユーザーにはあまり伝わっていないのが現状だから。


 かなり脱線してしまいましたが、「疲れたのでやめる」「時間が欲しいのでやめる」のはしょうがないし、僕もいつかそうするかもしれない(実際二度やめてますし)。
 しかしながら、「誰かへ、何かへの抗議のためにサイトを止める」というのは、効果に乏しいばかりか、自分や大事な人を傷つけてしまうだけですよ。それなら、ブログサービスをさっさと移転して、続けたほうがいいんじゃないかな。


 そうそう、もう一つ言っておきたいことがあった。
 「スルー力」をやたらと他人に要求する人ってけっこういますよね。
 でも、実生活で僕たちの「スルー力」の源泉となっているのは「それでもお金稼がなきゃ食えない」とか「ここでガマンしないと技術が身につかない」とか「家族のために頑張らなきゃ」というような「スルーしなければならない理由」なんですよ。
 だから、そういう「理由」を持たない小さな子供に「スルー力」を要求する大人がいたとしたら、まさにそれは「大人げない」と言うべきでしょう。
 長年ブログをやっていれば、しがらみがあるのと同時に、「ここにとどまりたい理由」も生まれてきます。もちろん、そういうのって、ずっと「やめてしまいたい衝動」との綱引きではあるのですが。

 ネット初心者とか、ブログをはじめて間もない人に対して、「スルー力がなきゃ書くな」なんていうのは、大人が小さな子供に対して「スルー力」を求めるのと同じことなのではないでしょうか。そうやって、ネットの間口を狭くすることに何の意味があるのか、僕には全然わかりません。
 ましてや、自分で悪口を言っておきながら、その相手を「スルー力が無い」と責めるなんて、あまりに恥ずかしくて、なかなかできることじゃないと思いますよ。


参考リンク:僕が『信頼の手』を離してしまったこと(琥珀色の戯言)

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