琥珀色の戯言

3000冊以上の【書評】と500作以上の【映画感想】を、ちゃんと読んで、観て書いてきたブログです。話題になったあの本や映画の感想が、たぶんあります。新書、ノンフィクション、インターネット関連本が多め。

あなたは、「村上スピーチ」の何が素晴らしいと言っているのですか?

村上スピーチの何が素晴らしいと言っているのか、もうちょっと知りたい(「新・鹿田内りなこさんのぺえじ」2009/2/19)(おそらく、2/20以降はこちらにログが保存されるのではないかと思います)

↑を読んでいて、僕はけっこう考えさせられました。

村上春樹氏のスピーチは、あちこちで絶賛の様子である。

しかしながら、何がどう素晴らしいと絶賛している人たちがおっしゃっているのかが、いまひとつよく分からない。もう少し、ネットなどであちこちを探す必要があるのかもしれないが、なかなかまとまった時間が取れない。

私が思うに、「壁と卵の比喩」が直感的に分かりにく過ぎる。

皆さんが、「直感的に素晴らしい」と感じるなら、私の理解能力が低過ぎるのかもしれない。

私個人は、村上春樹の小説は初期のものからかなり読んでいて、村上春樹独特の言い回しについても、大体は理解しているつもりである。それにしても、「壁と卵」の比喩を使うのが、いいのか悪いのか、よく分からないのである。

(スピーチの全文和訳はこちら)

このあとも、かなり興味深い分析が続くのですが、これを読んでみて、僕は自分に問いかけ直してみたのです。
「お前は、あの『壁と卵』のスピーチの、いったいどこを素晴らしいと思ったのか?」って。

ネット上の僕の観測範囲では、このスピーチに関して、好意的な評価をしている人が7割くらいで、あとは中立派と否定派が分け合っている、という感じです。
でも、この「称賛している人たち」は、本当に、このスピーチそのものを称賛しているのか?

実感としては、称賛している人のうち、「とにかく日本人である村上春樹という人が、エルサレムイスラエルの政策を批判した勇気」を評価しているのが8割、なんですよね。

この「壁と卵」というスピーチそのものを「素晴らしい」と評価している人は、けっこう少ないのではないかなあ。

もし、このスピーチが、東京の「村上春樹トークショー」で行われたら、こんなに話題になり、みんなが称賛することはなかったはず。
そもそも、「イスラエル批判の部分だけがひとり歩きしている」あるいは「意図的に強調されている」面もありますし。
ただ、村上さんは、「そういうふうに利用する人がいること」も覚悟の上で、あのスピーチをしたのだと思いますし、だからこそ、ああいうスピーチになったのかもしれないな、という気もします。

実は、「直感的にわかるように話す」のであれば、「壁と卵」なんて持ち出さずに、最初から、「非武装の市民を圧殺するイスラエルの政策はおかしい。ただしそれは、この世界を覆っている『国家や宗教や民族』といった『個人を傷つける圧力』のうちのひとつであって、そういった同調圧力の暴走から、最低限の個人の自由と生命は護られなければならない」と言えばいいんじゃないか、と僕も考えました。
たしかに「壁と卵」は曖昧です。

ただし、「なぜ、こんな抽象的なスピーチになったのか」に関しては、村上さん自身が、スピーチの最初のほうに語っておられます。

よく練られた嘘(読者に、そこにある真実だと思わせるような物語)を創り出すことにによって、作家は「真実(実際にそこにあるもの)」にいままでとは違う位置づけをして、新たな角度から光を当てることことができるから。

多くの場合、「いま、実際にそこにあるもの」をそのままの形で正しく認識し、具体的に描くことは非常に困難なのです。

つまり、「イスラエルとガザの市民」「国家と一市民」というような「具体的なイメージ」を与えてしまうことは、かえって「本質」を見えにくくしてしまうことなのではないか、というのが、小説家・村上春樹の認識であり、村上さんは、それを前提にして、「壁と卵」という抽象的なたとえ話をしているんですよね。
僕は逆に、村上さんがそう言いながらも、「壁」の一例として爆撃機や白リン弾のような具体的なものを挙げたことに驚いてしまったんですけど。
そんなにわかりやすくていいのか村上春樹
案の定、世間的には、「壁と卵」について、村上さんが本来言いたかったことよりも、はるかに具体的で、狭い範囲のものごとを指すような「解釈」をしている人がたくさんいるようです。
それでも、あそこで話さずにはいられなかったのでしょうけど。

「壁と卵」については、村上春樹作品の読者にとっては、比較的わかりやすいたとえだったと思うんですよ。
ただし、このスピーチではじめて村上春樹を知った、という人が、スピーチを読んだだけで、あるいは原稿を読んだだけで、スッと理解できるようなものではないのかな、という気がします。
世間でこのスピーチを称賛している人の多くは、「この御時世で、あの(政治的な人間を嘲笑するような作品を書き続けていた)村上春樹が、戦闘地域であるエルサレムで行った」スピーチである、という「背景」のほうを評価しているのであって、「細かいところは、よくわからない」のかもしれません。

僕は村上春樹ファンなので、このスピーチを読んで、「ああ、これは村上春樹らしいスピーチだ」と感じました。
虚構の例え話を用いて、世界の真実をあぶり出そうとしている、という意味で。
それと同時に、初期の作品では、「政治的なものに対する嫌悪感」を隠そうとしなかった村上春樹という人が、60年の人生において、小説家として、ここまで「世界に対して自分の言葉を届けること」に懸命になっている姿への感動もあったのです。
怒られるかもしれませんが、僕がこのスピーチに感動したのは、「村上さん、変わったなあ」という驚きと同時に、「あの村上さんだって、少しずつ変わってきて、ここまで現実に対して何かを訴えようとしているのだから、僕もがんばらなくっちゃなあ」とも感じたからなのです。
逆に、「村上春樹をよく知らない人」が、このスピーチを聞いて、どこまでその「内容」を評価できるのかは、僕にはよくわかりません。
むしろ、僕がこうして熱くなればなるほど、みんな引いてしまっているのではなかろうか。
「危険地帯で堂々と発言した村上春樹の勇気」は理解できても、このスピーチは、村上春樹という小説家の歩みとその作品を知らなければ、「なんかもったいぶった話だなあ」というだけのものかもしれません。
正直、昨日一生懸命「全訳」していたんだけど、読みこめば読みこむほど、そういう「背景」がないところで行われたスピーチだったら、「村上さんが村上さんらしいことを、いつもよりかなり親切に喋ってるだけだなあ」と内心感じてもいたんですよね。

もちろん、「背景」は実際に存在するし、「あの場所でこれを喋った」ことはすごいことだと思う。
あるいは、「背景」こそが、このスピーチの「意味」なのかもしれない。
でも、率直なところ、僕の喜びの多くは、「あの場所でも村上春樹村上春樹だったことへの安心感」と「あの状況でエルサレム賞をもらうという危険な状況で、見事に立ち回ってファンを納得させ、多くのアンチをも沈黙させた村上春樹の立ち居振る舞いの見事さへの感服」だったような気がするんです。「村上さんはやっぱりすごかった!かっこよかった!」って。
id:kaerudayoさんのブックマークコメントに

村上春樹の受賞スピーチについて。個人的には野手の間を狙って「うまく打ったなぁ」と感心するようなヒットだと思う。そういう快感があった。

というのがあって、ファンとしてはあんまり認めたくないながらも、そういう「ああ、巧すぎるよなあ村上さん」みたいな気持ちもちょっとありました。
堅牢な「村上春樹シフト」のなか、「ここしかない」というところに見事なクリーンヒット!
見たか、村上さんが何もしていないのに、「村上春樹はこうするに決まっている」と言って批難してた連中よ!
(ところが、そういった人たちにかぎって、スピーチが終わったとたんに「村上春樹よくやった!俺のコメント読んでたのか!お前らも村上を見習え!」とか言いはじめるんですよね。すごいなその変わり身の早さは)
でも、そういうソツの無い村上さんが、不器用な僕としては、ちょっと恐ろしくも羨ましくもあります。

ただ、そういうのは全然悪いことでもムダなことでもなくって、そういう「カッコよさ」は、ある種の誠実さ(あの場を騒然とさせるような強い批難の演説など)よりも、はるかに人々に勇気を与えるのもまた事実なんですけどね。
「カッコいい」ことは、けっして悪いことじゃない。

さらに怒られてしまいそうなのですが、僕にとっては、「壁と卵」よりも「父親の話」を還暦になった村上さんが聴衆の前で語っていたことのほうが、はるかに意外で、興味深かったのです。
村上さんが、自らの「ルーツ」として、いままでほとんど触れることのなかった「父親」の話をするなんて!
国語の先生であり、僧侶であるという「日本の伝統文化を凝縮したような存在」であって、「謹厳で支配的な」父親を、こんなふうに自分の生き方とリンクして語っておられたんですよね。
アメリカ文学に没頭し、『風の歌を聴け』を「日本語で書くとどうしてもうまくいかなかったので、最初に英語で書いてそれを日本語に訳した」という村上春樹という小説家は、おそらく「父親を否定し続け、父親がいない場所をめざしていた」のだと僕は想像しています。
でも、ご尊父の死によって、村上さんは、その「壁」を見つめ、自分のなかに根ざしている父親の影を感じずにはいられなかった……
それは村上さんにとっては「自分が日本人であること」の再確認でもあったと思うのです。

これもまた「壁と卵」の話なのかもしれません。
そういう「深読み」をしてしまうのも、僕が村上春樹ファンだからで、おそらく、このスピーチで村上さんを知った人にとっては、「戦争で心に痛手を負ったひとりの男とその息子の話」なんだろうけど。

鹿田内りな子さんの疑問にキチンとお答えできたとは思えませんが、とりあえず僕にとってのあのスピーチの素晴らしさは、「いま、あの場所で、村上春樹村上春樹らしく、世界に向かって言葉を届けようとしたこと」でした。
「壁と卵」のたとえは、たしかに、本来の目的からすると、ちょっと微妙。もっとわかりやすい言葉があったような気もします。
そう考えると、僕はたしかに「村上春樹側」からしか評価できていないのかもしれません。


そうそう、このスピーチが話題になっていることについて、僕はちょっとせつない気分でもいるのです。
村上さんは何十年もかけて数々の「小説」を書いてきましたが、これほど世間に認知され、称賛された作品があったかな、と。
30年間の小説家としての創作活動と、15分間のスピーチ。
マスメディアの時代においては、「小説」っていうのは、ほんとうに割に合わない表現方法なんだなあ。
まあ、これまでの「積み重ね」があればこそ、これだけ話題になっているのだとは思いますが……

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