琥珀色の戯言

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ベンジャミン・バトン 数奇な人生 ☆☆☆☆


ベンジャミン・バトン 数奇な人生(公式サイト)

あらすじ: 80代の男性として誕生し、そこから徐々に若返っていく運命のもとに生まれた男ベンジャミン・バトン(ブラッド・ピット)。時間の流れを止められず、誰とも違う数奇な人生を歩まなくてはならない彼は、愛する人との出会いと別れを経験し、人生の喜びや死の悲しみを知りながら、時間を刻んでいくが……。(シネマトゥデイ

金曜の21時からのレイトショーで鑑賞。
僕がいつも行っている映画館としては珍しくチケット売り場に行列ができていて、この『ベンジャミン・バトン』と『少年メリケンサック』『20世紀少年』『マンマ・ミーア!』と、いま映画がけっこう盛り上がっているみたいです。この作品の観客数は60〜70人。週末のレイトショーとはいえ、「お客さんけっこういるなあ!」と驚きました。

僕は映画館で予告編を観るときに、「これは絶対観る」「保留」「一生観ないだろうな」の3つに仕分けしながら観るのです。この『ベンジャミン・バトン』の予告をはじめて観たときには、「なんだこの『ありえないおとぎ話』は……こんなネタっぽい映画、観てるヒマないよ」と、即座に「一生観ないリスト」に入れてしまったんですよね。フィクションにしても、あまりに荒唐無稽だし、どんな話になるか観なくてもわかるような気がしたから。
それでも、「アカデミー賞で最多13部門ノミネート!」なんていうのを聞くと、やっぱりちょっと観てみようかな、なんて思う自分のミーハーさが情けなくもあります。
この映画、167分の長尺なので、予告編を入れると「3時間コース」になりますから、時間を作るのがけっこう大変ではあったんですけどね。

この映画を観ながら、いちばん考えていたこと。

「これって、『フォレスト・ガンプ』みたいだなあ……」

幼なじみ(っていっても、ベンジャミンは老人の姿なわけですが)の主人公とその「永遠の恋人」。女性は華やかな世界に憧れて彼から離れていくが、やがて彼のもとに戻ってきて……
2人の関係の描き方やひとつひとつの場面のつなぎかたが、本当に『フォレスト・ガンプ』。「船長」も出てくるし。
主人公のベンジャミンは、フォレスト・ガンプほど「イノセンス」な人間ではないことと、老人の姿から、どんどん若返っていくことくらいが大きな「違い」のように思われます。
あとは、トム・ハンクスブラッド・ピットとの違いは大きいかも。

僕は以前、ある本(たぶん、寺山修司の『ポケットに名言を』に収められていた言葉だと思う)で、ある作家が「人間はどうして赤ん坊の姿で生まれて、老人になって死ぬのだろう? どうせだったら、老人として生まれて若返っていき、人生でもっとも楽しいときに死ねればいいのに!」と書いていたのを読んだことがあります。
仕事柄、「老いの苦しみ」みたいなものを目にすることが多いので、僕も生物学的にそんなことはあるはずがないじゃないかと苦笑しながらも「そうだったらいいのになあ」と感じたものです。
昔から、好きな食べ物は最後に残しておきたいほうなので。
まあ、実際のところ、青年時代や少年時代がそんなに楽しいことばかりだったかと言われるとそうでもなかったから、僕の場合はいまくらいの年齢がいちばん楽しいような気がするけれども。

この映画は、「若返りながら、周囲の人の死を看取っていくことを運命づけられた人間」であるベンジャミン・バトンと、彼の永遠の恋人デイジーとの交流を中心に描かれています。正直、ベンジャミンがデイジーに魅力を感じたのはわかるのだけれど、デイジーが子どものころのベンジャミンの何に惹かれたのか僕には理解不能ではあるのですが(大人になった時点ならわかるけどね、お金持ちだし、ブラッド・ピット!)、ベンジャミンが若返っていき、デイジーが年老いていくことは約束されているわけですから、観客は、彼らが「カップルとしてちょうどいい状態」である時間がとても短いことを知っています。そして、ベンジャミンは、「ある決断」をするのです……
観ているときは「これって無責任じゃないか?結果的にはもうちょっと頑張れそうだったんだし……」とリアルタイムで観ているときは、思ったんですよ。
でも、僕が同じ立場であれば、やっぱり同じ選択をしたのかもしれない。
ただ、姿かたちは違っても、「年老いた両親の介護」をしている人もたくさんいるのだしなあ……

たぶん、この映画が絵的に成立するのは、ブラッド・ピットケイト・ブランシェットだからだと思うんですよ。
二人とも、若い頃はもちろんのこと、老けメイクをしていても十分カッコいいし、美しいから。
「普通のルックスの人間の老けかた」だったら、「いい時間」はもっと少ないだろうし、その前後の違和感は観客をドン引きさせそう。

この映画のもうひとつのテーマは、「人間というのは、それぞれ個性のある、オリジナルな存在なのだ」ということなのでしょう。
僕がもっとも印象的だったシーンは、デイジーに「みんなと逆に、どんどん若返っていくのって、どんな気分?」って尋ねられたベンジャミンが、こう答えたシーンでした。

うーん、自分のことは、自分じゃよくわからないよ。

誰もがみんな「オリジナル」である一方で、その人自身からしてみれば、自分こそが「普通」なんですよね。
もちろん、そういう感情にも揺れがあって、「自分の普通さに嫌気がさしたり、他人と違うことがイヤになったりする」ことも多いのだけれども。

この映画の原作(とはいっても、映画化の際にはかなり変えられていて「原案」に近いもののようです)は、あのF・スコット・フィッツジェラルド。『グレート・ギャッツビー』の作者でもあります。
フィッツジェラルドは、村上春樹さんが最も敬愛する作家のうちのひとりでもあるのですが、この映画を観終えて、僕は、あの『壁と卵』のスピーチの一節を思い出さずにはいられませんでした。

よく練られた嘘(読者に、そこにある真実だと思わせるような物語)を創り出すことにによって、作家は「真実(実際にそこにあるもの)」にいままでとは違う位置づけをして、新たな角度から光を当てることことができるから。

多くの場合、「いま、実際にそこにあるもの」をそのままの形で正しく認識し、具体的に描くことは非常に困難なのです。

この映画は、「実際にはありえないフィクション」なんですよやっぱり。
でも、この「フィクション」によって、僕たちは、「愛する人と一緒に年を重ねられる、年老いていける、そして、自分の子どもよりも(大部分は)先に死ねるというのは、幸福なことなのかもしれないな」ということを痛感させられるのです。
「一緒に年を重ねていくカップルをそのまま描く」という方法で、これを観客に「伝える」のは至難の技。
ところが、「よく練られた嘘」として『ベンジャミン・バトン』という「そうじゃなかった場合」を描くことによって、「真実(実際にそこにあるもの)」が見えてくる。
そして、ブラッド・ピットケイト・ブランシェットの両優の演技とデヴィッド・フィンチャー監督の「物語の編集力」そして、「映像の進歩」がなければ、この物語には、ここまでの「説得力」はなかったでしょう。

予想していたような「泣かせる映画」というよりは、むしろ、「考えさせられる映画」でした。
ちょっと長いのと『フォレスト・ガンプ』に似すぎているのは、やっぱり気にはなるんですが、「映画でしかできない体験をさせてくれる作品」であることは間違いありません。

十代、二十代前半の若者よりも、ちょっと人生に倦怠を感じてきた大人の皆様にぜひ。

……それにしても、あのハリケーン、(物語的に)何の意味があったんだ?

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