琥珀色の戯言

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【読書感想】みみずくは黄昏に飛びたつ ☆☆☆☆

みみずくは黄昏に飛びたつ

みみずくは黄昏に飛びたつ


Kindle版もあります。

内容紹介
ただのインタビューではあらない。『騎士団長殺し』の誕生秘話、創作の極意、少年期の記憶、フェミニズム的疑問、名声と日常、 そして死後のこと……。誰もが知りたくて訊けなかったことを、誰よりも鮮烈な言葉で引き出した貴重な記録。11時間、25万字 におよぶ、「作家✕作家」の金字塔的インタビュー。


 村上春樹さんと川上未映子さんの対談本、というよりは、川上未映子さんが「インタビュアー」として、「作家・村上春樹」に同じ創作者の視点から切り込んでいったインタビュー集です。
 僕は長年、村上春樹さんというのは、メディアにもほとんど出演しない、デタッチメントの作家、だと思っていたのですが、最近、とくに『エルサレム賞』のスピーチ以降の村上さんは、かなり現実にコミットしておられるように感じます。
 というか、最近の村上さんって、けっこう自分自身や作品のこと、社会のことについて、積極的に発言されていますよね。
 それがコンテンツとして世の中に広まるのは「村上春樹だから」なのでしょうけど。
 作家の作品そのものではなくて、作品論・創作論がこうして一冊の本になるというのも、村上春樹さんが関わっていることが大きいのです。


 川上さんとの対談では、一般的なインタビューよりも、村上さんは、自分にとっての創作のプロセスや普段考えていることについて、けっこう具体的かつ無防備に語っているような気がするんですよね。
 これは、作家としての川上さんに好感と信頼を抱いているからなのだと思われます。
 その一方で、僕は川上さんの著作から、「女性であること」への意識の強さを感じていて、フェミニズムジェンダー論からいえば、川上さんは村上春樹作品に好感を抱けないのではないか?と考えていたんですよね。
 だって、主人公はすぐいろんな女性と寝ちゃうし、「性行為をするための記号」みたいに扱われているじゃないですか。
 でもまあ、そういうことを対談ではわざわざ聞かないよね。
 と思いきや……

川上未映子(以下では「——」):では、村上さんの小説における「女性」についてお聞きしたいんですけれど、村上さんの小説の話をするときに、けっこう話題になるのが、女の人の書かれ方、女の人が帯びている役割についてなんですね。
 例えば女友だちには、「あなたは村上春樹作品をすごく好きだけど、そこんとこ、どういうふうに折り合いをつけているの?」と聞かれることがよくあります。村上さんの小説に出てくる女性について、足がちょっと止まってしまうところがあると。それは男女関係なく、抵抗感を感じる人がいるんです。


村上春樹そうなの? どんな風に?


——それは「生き生きとした、実際的な性を書けているか」というような意味の話だけでもないんです。例えば、さきほどの話の中で、女性というものが巫女的に扱われる、巫女的な役割を担わされるということに対する……。


村上:手を引いてどこかに連れていくという話ね。


——ええ。主人公を異化する。異化されるための入口というか契機として、女性が描かれることが多い。


村上:うん、そういう要素はあるかもしれない。


——異化されるときに、非日常への回路をしてセックスが持ち出される以上は、主人公が異性愛着に設定されている場合、その女性がセックスをする役割になってしまうのはある程度しょうがないと思うんです。でもある一面から見ると、いつも女性は、そういう形で「女性であることの性的な役割を担わされ過ぎている」と感じる読者もけっこういるんです。ぜひともそこをお聞きしたいなと思って。


 川上さん、これを聞くのか……
 こういう「問い」は、むしろ、出てくるのが当然、ではありますよね。でも、「世界のハルキ・ムラカミ」に面と向かって聞くというのは、すごい。僕だったら、思っていても畏れ多くて口には出せない。
 村上さんの答えに興味がある方は、ぜひこの本を手にとってみていただきたいのですが、率直なところ、僕はなんだか消化不良というか、うまく話をはぐらかされてしまったようにも感じたんですよね。
 ただ、これに真正面からこたえることは、作家・村上春樹としては、プラスにはならないだろうな、とも思います。
 川上さんも、「深追い」はしていません。
 川上さんの出産・育児エッセイを読んで、「ここまで妻に追い詰められたら、夫はキツいだろうな」と心底感じた僕としては、「あの川上さんも、結局のところ、自分が好きな作家は完膚なきまで責めようとはしないのだな」とか、言いたくもなったのですけど。
 人って、正しいから好きなんじゃなくて、好きだったら、正しい理由を見つけようとしてしまうんだよね。


 この本のなかでは、村上春樹さんにとっての「悪」とは何なのか、が、しばしば話題になっています。フィクションで語る意義についても。

村上春樹そうですね。『アンダーグラウンド』を書き上げるのは本当に大変だった。そしてあれを書いたことによって、僕の書くものはかなり変わったんじゃないかと思います。たとえば被害者の遺族の人たちと話していると、彼らにとってはオウム真理教のあの実行犯たちって、もちろん留保の余地なく「悪」なんです。ある日、何の罪もない自分たちの家族を、わけのわからない理屈をつけて殺してしまったわけですから。私刑にしてほしいとほとんどの人は思っています。そんな人たちに向かって、「僕は原則的に死刑制度に反対です」なんてとても口にできない。その人たちの悲しみとか怒りとか、その深さは僕なりに理解できるから。
 ただ、客観的なオブザーバーとして実行犯の人たちを見ていると、彼らもやはり罠に嵌まった人たちだなという気がするんです。罠に嵌まるのは自己責任だといわれればそれまでなんだけど、でも、そうじゃない。罠というものは、嵌まるときはすぽっと嵌まっちゃうんですよね。それ僕自身にとっても言えることだし、僕のまわりの人たちを見ていてもわかる。人生は危険な罠に満ちていると思います。ぞっとするようなことが人生にはたくさんある。
 でもそのように説明して世の中を説得しようとしても、そんなことほとんど不可能です。「罠というものは、嵌まるときはすぽっと嵌まっちゃうんですよね」とすらっと言っても、多くの人はたぶんうまく実感できないでしょう。その構文をいったん物語という次元に以降させなければ、ものごとの本質は伝えきれないんだな、と僕はあの本を書いて実感しました。


 この「罠というものは、嵌まるときはすぽっと嵌まっちゃう」というのは僕にもわかるつもりです。でも、それが理由で、大切な人が傷つけられたとしたら、その相手を「許す」ことはできないだろう、というのも理解できます。
 たぶん、ノンフィクションだと、実際の被害者のことを考えてしまって、怒りや憤りに押し流されてしまう。
 だからこそ、フィクションに、物語にする、ということに意味が出てくるのです。

村上:どうして読者がついてきてくれるかわかりますか?


——それは?


村上:それはね、僕が小説を書き、読者がそれを読んでくれる。それが今のところ、信用取引として成り立っているからです。これまで僕が四十年近く小説を書いてきて、決して読者を悪いようにはしなかったから。


——「ほら、悪いようにはしなかっただろう?」と。


村上:そう。つまり「これはブラックボックスで、中身がよく見えなくて、モワモワしてて変なものですけど、実は一生懸命時間をかけて、丹精込めて僕が書いたものです。決して変なものではありませんから、どうかこのまま受け取ってください」って僕が言ったら、「はい、わかりました」と受け取ってくれる人が世の中にある程度の数いて、もちろん「なんじゃこら」と言って放り出す人もいるだろうけど、そうじゃない人たちもある程度いる。そうやって小説が成立しているわけです。それはもう信用取引以外の何ものでもない。つまるところ、小説家にとって必要なのは、そういう「お願いしまう」「わかりました」の信頼関係なんですよ。この人は悪いことしないだろう、変なこともしないだろうという、そういう信頼する心があればこそ、本も買ってくれる。「どや、悪いようにはせんかったやろ?」と関西弁でいうとちょっと生々しくなるけど(笑)。


——それはいわゆる「この本を読んだら感動できる」とか「泣ける」といった、共感を約束するものではないじゃないですか。


村上:全然。


——まったく違いますよね。


村上:うん。感動なんかできない。泣けもしない。むしろ、なんだかワケがわかんなくなるかもしれない。


 ああ、これはたしかに、長年の読者にとっての村上春樹作品の「強み」だよなあ。
 信用があるから、最初に「ちょっととっつきにくいな」と思っても、とりあえず先に読み進めてみるのです。
 知らない作家の『1Q84』というタイトルの小説を書店で見かけても、「ジョージ・オーウェル魯迅の駄洒落タイトル?」って、苦笑しながら通り過ぎるだけでしょう。
 ゲームの『ドラゴンクエスト』シリーズも、僕は毎回、序盤で「『ドラクエ』って、こんなもんだったっけ?なんか面白くないな……」って思うんですよ。
 「でも『ドラクエ』だから」と遊んでいるうちに、嵌まっていく。
 エンジンのかかりが遅いというか、面白くなりはじめる前に、予備知識や慣れが必要なものって、ありますよね。
 そこで、「信用」があるかどうかって、けっこう大きいと思うのです。
 村上春樹作品には、「とりあえず最後まで読んでみれば、なんらかの「感じるもの」がある、という期待があります。
 世間的な「話題」にもなりますし。


 中上健次さんと対談したあと、「これから一緒に飲みに行かない?」と誘われて断ったことを、「今から思えばあのとき、一緒に飲みに行けばよかった」なんて振り返っておられたり(そういう、なんとなく煙たくって断ってしまったのが、唯一無二の機会だった、っていう経験、僕にもあります)、執筆はEGWordという日本語ソフトでしかできない、と仰っていたり、身の回りのちょっとした話が出てくるのも、ファンとしてはすごく興味深かったのです。
 EGWordって、まだあったのか……


 いわゆる「ハルキスト」(村上春樹さん御本人は「村上主義者」と呼ぶことを提唱されています)にとっては、たまらない「ファンブック」だと思います。
 なんのかんの言っても、村上さんって、日本でいちばん「自分語り」をすることが(商業的にも)許されている作家ですよね、たぶん。


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