琥珀色の戯言

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「凡庸」の哀しみ


自分の凡庸さ - finalventの日記(2009/5/10)

僕は子どもの頃、もっと「普通」になりたかった。
勉強はそこそこできていたけれど、周りの大人に「おとうさんはおいしゃさんだから、べんきょうできるのもあたりまえよね」と言われるのがものすごくイヤだった。
みんなが遊んでいるあいだに本を読んだり勉強しているからテストで良い点が取れるのであって、おとうさんが何だろうが関係ないだろ、と、ずっと思っていた。
「勉強しかできないヤツは人間のクズだ」と信じていたのに、勉強以外に自分にできることがなかったのがとても悲しかった。
悲しみながらも、「将来のために」勉強してしまう自分が情けなかった。
スポーツは絶望的なまでに苦手だったので、毎週、その週最後の体育の時間が終わると幸せな気分になり、それでもまた来週は体育があるのだなあ、と思うとひどく憂鬱になった。
転校したとき、方言が汚らしく思えて、ずっと前に住んでいたところの言葉を喋っていた。
3日くらいで食卓の会話にそこの方言を交えてくる父親や妹が嫌いだった。

死ぬのが怖くて、死んでも意識だけはこの世に残るのだと信じていた。
何も見えない、聴こえない、喋れなくても、心だけがあればいいと思っていた。

翌朝は別の人間になってしまうような気がして、寝るのが怖かった。

戦争も、自衛隊も、皇室も嫌いだったし、浮気や不倫を軽蔑しきっていた。


ヤン・ウエンリーが「何も悪いことなどしていないのに、なんで30歳なんかにならなきゃいけないんだ」とぼやいていたのを読んだのは、17歳のときだった。
僕は、ヤン提督より5年以上長く生きているが、結局、何もできていない。
たぶん、「何もできなかったな」って思いながら死んでいくんじゃないか。

いまの僕は、自分の「凡庸さ」が恨めしい。
その一方で、こんなことも考える。
何十億人も人間がいるなかで、「歴史に名が残る」人というのは、せいぜいその1000万分の1。「広く名が残っている」というレベルでは、1億分の1くらいだ。
総理大臣になっても、大部分の人は100年後には歴史マニア以外には忘れられてしまうし、100年前の作家の本など、誰が読むというのか。
「選ばれた人間」だって、所詮、そんなもの。
ありきたりの人間である僕が、「この世界に爪痕を残す」なんて、基本的に無理な相談なのだ。
それならば、思いっきりこの世に存在している間は、愉しめばいい。

そんなことを考えて、また憂鬱になる。
快楽を追求して生きるにはしがらみが多すぎるし、もしそれが許されても、快楽を追求して生きていく勇気なんてないし。
真面目に生きても、楽しくない。快楽を追求しようとしても、愉しめない。

「平凡だったけど、幸せな一生だった」
そう言って死んでいける人間に、いつかなれるのだろうか?
あるいは、それは死んでいく人にとっての、ある種の「方便」なのか?

いまは、眠るのが怖くはない。
「心」だけ残されるのなってたくさんだから、電気のスイッチを切るように、プツリと消えてしまったほうがいい。

そう言いながら、まだ何かあるんじゃないかと、あきらめきれない。
まだ、死ぬのは怖い。

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