琥珀色の戯言

3000冊以上の【書評】と500作以上の【映画感想】を、ちゃんと読んで、観て書いてきたブログです。話題になったあの本や映画の感想が、たぶんあります。新書、ノンフィクション、インターネット関連本が多め。

ネットの中の「わたし」


ほぼ日刊イトイ新聞「今日のダーリン」2009年5月26日(たぶん27日になったら、もう読めなくなってしまうと思いますのでお早めに!)

お国の大事について語ることも、
世界の平和について演説することも、
歴史的な偉人についての研究を発表することも、
芸能ニュースについておしゃべりすることも、
同情すべき他人について訴えることも、
「わたし」のいないままで、いくらでもできます。
同じ日本語ですから、
「わたし」が、いようがいるまいが、
そのちがいもわかりにくいものです。
 
ぼくも、そうしていますけれど、
まるまる全力で「わたし」のいる文章だけ書いていたら、
おそらく社会で生活できなくなるので、
「わたし」をしょっちゅう外してものを言います。
だけど、「わたし」を外すことを習い性にしてしまうと、
「わたし」は、蒸発してしまうように思うんですよね。

この糸井さんのコラムを読みながら、僕はいままでモヤモヤしていたものが、ようやくちょっとクリアになった気がしました。
僕は、「わたし」の存在を感じさせてくれるブログやサイトが好きなんだなあ、って。
ネット上には、「常識として〜」とか「男というものは〜」とか「日本人は〜」というような前置きで、「わたし」不在の「自分の考え=一般常識」と思い込ませるような言説が溢れています。
でも、こういうのって、実は、「お前の考えは間違っている」って言われるのが怖いから、主語を曖昧にしたり、「それが常識であるような書き方」をしているだけなのではないかと。
そういう人が書くものは、概して面白くないんです。
だって、「他人に責められないこと」「自分を正しくみせること」ばかり意識して書かれていて、個性も新しい視点もないから。

僕は、「自分語りウザイ」と言われても、「わたし」の目や耳や心を大事にしているサイトやブログが好きです。
「わたし」のない世界は、マスコミや専門家に任せてもいいんじゃないか、とすら考えています。
みんなが、教育評論家みたいに育児を語ったり、映画評論家みたいに映画を語ったりする必要なんてないはず。

僕はもっと、ネットの中の「わたし」の声を聴きたい。

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