琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

2011年の『琥珀色の戯言』を振り返って

2011年最後のエントリということで、今年書いたもののなかで、僕自身の思い入れが強いもの、反響があったものをまとめておきます。


個人ブログの現在、そして、たぶん未来 (1/5)

 僕が最近の個人ブログで「つまらない」と思うのは、みんな「公的な立場を意識しすぎている」というか、「評論家としてふるまおうとしすぎている」ことなんですよ。

 自分で考えたこと、感じたことを書くのではなく、「世間」と戦おうとしすぎているのではないかなあ。

 あるいは、自分を大きく見せようとしすぎて、借り物の言葉ばかりを並べてしまっているようにも思われます。

 ごく一部の「専門家のブログ」を除いて、多くの人は、個人のブログに「この人は、どう感じたのか?」ということしか求めていないはずです。

 そういう「個人的な感想」の集積が、ある一つの作品に対する「評価」になるし、それは、ひとりの有名映画評論家のコメントよりも、ずっと「普遍的な意味」を持つのではないかと僕は考えています。

 でも、実際に人というのは、自分が「世論という大きなものの、ひとつのパーツになる」ことを受け入れられない。

 だから、奇をてらったことを書いてみたり、他人の感想を否定してみたりしてしまう。

はてなブログ」の思想を読んでいると、2011年はブログにとって「原点回帰の年」だったのかもしれません。
僕自身は、SNSにも、「行き詰まり」を感じてきましたし。


「自殺や過労死するくらいなら仕事辞めろ」 (1/26)

世の中には、たぶん、「仕事を辞めるよりも、自殺や過労死を選んだほうがラク」という精神状態があるのだと思います。

個人的には「死にたい」という気持ちが自然にわいてくるようになったら、仕事は投げ出して、休むべきだと考えています。

ただ、結局のところ、そういう明らかなサインが無い場合には、「もう少しがんばれ」と「がんばりすぎるな」というのは、リアルタイムではよくわからないものだと思うのです。

後になって、「もう少しがんばれば良かったのに」「がんばりすぎなければ良かったのに」という「結論」が出るだけで。

いま自分で読んでも、いろいろと思うところがあるエントリなのですが……
個人的には、もうあんまりムリをするのはやめて、フェードアウトしていきたいな、という気分です。毎年同じことを言ってますが。


自分の運の良さを「正しさ」だと勘違いしている人たちへ (3/6)

 医者なんて仕事をやっていると、ごく一部の「スーパーマン医者」以外は、キャリアのなかでひとつやふたつ、「あのとき、一歩間違っていたら、自分のミスで患者さんを死なせていたかもしれない」という経験はあるはず。

 そこで、なんとか踏みとどまれたのは自分の実力というよりは、「運」とか「周囲のサポート」のおかげだったと思う。

 たぶん、大部分の人は、そうなのだ。

 にもかかわらず、少なくない数の人が、「自分はこんなに苦労して、ちゃんとやってきた」と他人にプレッシャーをかけようとするのだ。

 自分が以前、「その場」にいたときに、どんな気持ちだったかを、すっかり忘れてしまって。



 そういうのって、あなたの「運の良さ」を「正しさ」にすり替えているんじゃない?

 どうして、他人の不幸を、自分の「正しさ」をアピールする道具にしようとするのだろうか。

 震災を「天罰」とか言ってしまう人を見ると(しかもそれが日本の「指導者」のひとりなんだから!)このことを思い出さずにはいられません。


アンパンマンは君さ (3/16)

Wikipediaの『アンパンマン』の項目にあった、やなせたかし先生の言葉。

アンパンマンと「正義」というテーマについて、やなせは端的に「『正義の味方』だったら、まず、食べさせること。飢えを助ける。」と述べている。
かつて、たびたび起こった「顔を食べさせることは残酷だ」という批判にも、「あんパンだから大丈夫です」と冗談めかして反論していた。


空腹の者に顔の一部を与えることで悪者と戦う力が落ちると分かっていても、目の前の人を見捨てることはしない。かつそれでありながら、たとえどんな敵が相手でも戦いも放棄しない。「ほんとうの正義というものは、けっしてかっこうのいいものではないし、そしてそのためにかならず自分も深く傷つくものです」(第1作『あんぱんまん』のあとがきより)

こちら(『絶望の隣は希望です!』感想)もぜひ。


「わからない」人たちへ (3/28)

 twitterは情報を得るためのツールとして素晴らしいのだけれど、その一方で、「他人より5分早く専門的な情報を得ること」で、人生の何が変わるのだろうか、とも思います。

 それが生死を分ける可能性はあるけれど、だからといって、ずっとタイムラインに張り付いているような生活は、あまりに寂しい。

 そもそも、僕たちは、ナマの専門的な情報を「理解できる」わけじゃないのに。



 たぶん、「わからない」のが、当たり前なんだと思います。

 それは、恥じるべきでもないし、知ったかぶりをするべきことでもない。

結局、原発はいまだに「わからないこと」だらけです。
ちょっと慣れてきてしまっているのは、良いことなのか、悪いことなのか?


あなたが主張している「正論」は、「不安な人」には届かない。(4/18)

「不安な人」に対して大切なことは、まず、「あなたは不安なんですね」と受け入れることだ。

「そんなくだらないことを不安に感じるなんてバカ」と言う相手に心を開く人はいない。

そして、そういう対応をされた患者の多くが、怪しげな民間療法や代替医療に「救い」を求めることになる。

民間療法や代替医療を行っている人たちは、「自分の話を聴いてくれる」から、という理由で。

 「正論」を激しく押しつけてくる人たちもまた「不安」なのかな、という気がします。


さようなら、『テキスト庵』 (7/9)

 『テキスト庵』は、僕に「読んでもらうこと」の喜びを教えてくれた場所であり、おかげでたくさんの「知り合い」もできた。

 ここでは厳しいことばかり書いてしまったけれど、本当に感謝しているし、11年目に起こったこの一件だけで、『テキスト庵』のすべてがダメだった、などと思ってほしくない。

 「終わり」が美しくなかったからといって、そこまでのプロセスを全否定しないでほしい。

『Read Me!』『日記才人』無きあとも、「文章を誰かに読んでもらいたい人のための、最後の砦」であり続けてくれて、ありがとう。

テキストサイトの時代」の最後の砦が失われてしまったのは、すごく寂しい出来事でした。


藤子・F・不二雄先生のことば (9/24)

……これは先生から聞いた話だけど、高校卒業した後、会社に勤めてすぐ、右手を怪我したらしいんです。

マンガ家になろうと思ってたから、ペンを持つ右手はとくに大事。医者に行って治療を受けてる間に、

「平山さん、その時僕がなにを考えてたかっていうとね、『急いで家に帰って、左手で絵を描く練習しなきゃ』って思ってた」って(笑)。

そういうエピソードを聞いていると、僕の言っている「思想」ってわかるでしょ?「明日へ」って。人類の未来に対してもすごく希望を持っている人だったんじゃないかな。

人間を信頼して、なんとかなるよ、って思いつづけていた人だと思う。

その思想がいちばん大きいのが、「ドラえもん」だと思うんですよ。僕はね」

いま、こんな時期だからこそ、読んでもらいたい言葉。


「きっと何者にもなれない」あなたへ (9/29)

 ところが、その気になって少し勉強をはじめてみると、その世界の奥深さに愕然とすることになる。

 作家の文章をプロ野球の1軍とするならば、ブログの文章は2軍だ。

(本当は四国アイランドリーグくらいなのだろうけど、わかりやすいように今回はこれで話そう)

 もちろん、2軍ですぐに頭角を現し、1軍で大活躍する選手もわずかだが存在する。

 だが、大部分の「2軍のエースや4番」たちは、1軍に行けば敗戦処理でも打たれ、代打に出れば振り遅れて三振だ。

 そのくらいのレベルの違いがある。

 裾野が広くて、みんなができそうだと思い込んでいるというのは、裏を返せば、チャレンジャーが多いということ。

 そして、狭き門のわりには、そんなに儲かるものでもない。

でもまあ実際、こういうことで悩んでいられる時期というのは、けっこう幸福なのかもしれないよね。
病気とか介護とかお金の問題で、頭がいっぱいってわけじゃないんだから。


「ジョブズは、彼が自身に課したゴールは全て成し遂げたよ」 (10/7)

56年という生涯は、アメリカや日本の平均寿命を考えると、少し短い。

家族や周囲の人、そして、彼自身も、できることなら、もうちょっと長生きできたらな、と思ってはいたのだろう。



それでも、ひとつ言えることは、スティーブ・ジョブズは、紆余曲折を経ながら、アップルの社長として、そして何より、ひとりの夫として、父親として、「やり遂げた人」なのだということだ。

すごい人と同じ時代を生きていたんだな、とあらためて感じています。


「昔のインターネットは面白かった」(11/30)

僕は思う。

「昔のゲームが面白かった」のではなくて、「昔のゲームが、進化していく過程が面白かった」のだろうなって。

面白かったのは、あのゲームじゃなく、あの時代そのものだったのだ。




「昔のインターネットは面白かった」

僕もそうやって、懐かしく思い出すことがある。


<総括>
今年はやはり震災の年ということで、それに関する内容が多くなりましたし、今後もそうなっていくでしょう。
昨日も書いたのですが、インターネットがあるのが当たり前の世界で、どのように情報を取捨選択していくのか、そして、どう他者と接していくべきなのかというのは、今後も大きな課題になっていくと思います。
ただ、ひとつだけ言えることは、これだけ情報の洪水にさらされている時代だからこそ、(世間の「空気」は別として)「自分自身、本当はどう考えているのか? どうしたいのか?」を大事にしていくべきなのではないかな、ということです。
いろいろありますが、2012年もこのブログは続きます、たぶん。


Twitterも続いております。
http://twitter.com/fujipon2


それでは皆様、よいお年を!

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