- 作者: 共同通信社社会部
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 1999/07/28
- メディア: 文庫
- 購入: 24人 クリック: 672回
- この商品を含むブログ (59件) を見る
内容(「BOOK」データベースより)
敗戦、シベリア抑留、賠償ビジネス、防衛庁商戦、中曽根政権誕生…。元大本営参謀・瀬島龍三の足跡はそのまま、謎に包まれた戦中・戦後の裏面史と重なる。エリート参謀は、どのように無謀な戦争に突っ走っていったのか。なぜ戦後によみがえり、政界の「影のキーマン」となりえたのか。幅広い関係者への取材により、日本現代史の暗部に迫ったノンフィクション。日本推理作家協会賞受賞
僕はこの本を読んでいて、何度も怒りと悔しさがこみあげてきたのです。
今回の「東日本大震災」を、菅総理は「日本にとって、有史以来最大の危機」だと表現していましたが、日本にとっての「最大の危機」は、日中・太平洋戦争から、終戦後だったと思います。
(「元寇」の可能性もあるかもしれませんが)
日本は、その「最大の危機」を超えて、「平和国家」になった、はずなのですが……
この本では、共同通信の記者たちによる、瀬島龍三氏をはじめとする、「太平洋戦争の際に、日本を動かし、戦争に向かわせる選択をしていながら、戦後も生き延び、権力を握ってきた人々」の記録です。
先日テレビドラマ化もされた『不毛地帯』の主人公のモデルと言われている瀬島氏は、終戦後、10年以上のシベリア抑留という、つらい体験をすることになります。
しかしながら、帰国後に入社した伊藤忠商事で頭角をあらわし、金丸信さんや中曽根康弘さんなど有力政治家にも影響を与える「日本のフィクサー」として君臨し続けました。
この本を読んでいて、まず驚かされたのが、戦後日本の「賠償金ビジネス」の話でした。
戦時中の日本軍のインドネシア占領支配に対する賠償問題は1957年11月、首相岸信介とインドネシア共和国初代大統領スカルノの会談で、総額803億円を日本側が支払うことで決着していた。
ただし12年間に毎年2000万ドル相当を「現物」で支払うという条件付きだ。インドネシア政府が必要な物資などを日本企業に注文し、代金の支払いは日本政府が保証する。日本の商社にとってはインドネシア政府からの注文を取り付けさえすれば代金の取りはぐれがなく、うまみの多い商売だ。各商社はその巨額利権をめぐって争奪戦を繰り広げた。
「伊藤忠はそれまでインドネシア政府にほとんどツテがなくて、僕が一人で悪戦苦闘していた。それを見かねたセーさんが、辻政信からスカルノ政権へのパイプを聞き出してきたようだった」
辻政信は、瀬島の参謀本部作戦課時代の先輩参謀で「作戦の神様」と言われた男だ。戦後、石川県選出の衆院議員となり、後に参院に転出。この二年前、ジャカルタを訪問していた。
「セーさんと久保の話がついてから、久保がインドネシアへ出張する際の羽田空港での送り迎えは僕の役目になった。カネを取るだけ取って逃げられたら困るからね。こっちの仕事をちゃんとやってくれているかどうか確認する必要があった。羽田にはヤクザも大勢、久保の送り迎えに来ていて、彼らは久保に『お帰りなさい』というだけでポンと20万円ほどもらっていた」
久保正雄の仲介で最初の大仕事が転がり込んだ。インドネシア国家警察に日本製ジープなど車両約1000台800万ドル相当を納めることだ。
「ところが、最終契約の段階になって東京駐在のインドネシア賠償使節団長バスキが『契約書にサインしてほしければコミッション(仲介料)を1パーセント出せ』と言い出してね。ほとほと困ってしまった」
小林は東京支社に戻り、瀬島に相談した。
「バスキが一本よこせ、と言ってますが、どうします」
小林は瀬島の目の前で人さし指を立ててみせた。
「分かった。一本だな。僕が専務の許可をもらってくる」
瀬島はしばらくして専務室から戻ってきた。
「オーケーを取ったよ。1万ドルでいいんだろう」
小林が慌てて打ち消した。
「違います。1パーセントですよ。8万ドルです」
「えっ? そうか……」。瀬島はまた専務室に戻り、許可を取り直した。
財務部で支払い手続きを済ませた後、小林は皇居のお堀端の住友銀行に向かった。当時の為替レートで8万ドルは3000万円近い大金だ。銀行の支店長室でボストンバッグいっぱいに詰めた千円札を受け取り、タクシーで赤坂の開業間もないホテル・ニュージャパンに駆け付けた。
部屋ではバスキとその仲間の二人が待ちかねていた。小林がベッドわきのテーブルの上にボストンバッグを置くと、バスキはバッグを開けて帯封の付いた札束を取り出し、ベッドに次々と放り投げた。見る間に札束の山が二つできた。それを相棒と山分けしながらバスキが言った。
「トゥモロウ、テン・オクロック。サイン、サイン」
契約書にサインするから明朝十時に来いという意味だった。
翌日、契約は無事完了した。これを機に瀬島・小林コンビのインドネシア賠償ビジネスは急速に拡大し始めた。
太平洋戦争後に日本から各国に支払われた「賠償金」は、相手国への日本製品での現物の提供という形ですすめられることが多かったため、日本の商社にとっては、「絶対に金を取りはぐれることのない、旨味の多い仕事」だったのだそうです。
その大きな契約をとるために、商社は、相手国の有力者(この本のなかでは、インドネシアのスカルノ大統領の例が採り上げられています)に巨額のリベートを渡し、もちろん、その分のお金は、品代に反映される……
「相手国への賠償金」のはずなのに、そのうちのかなりの部分が、「償わなければならない人」にではなく、現地の権力者と日本の商社の懐に入っていくという構造。
そういうのを「人脈」の名のもとに、日本の偉い人たちは、ずっとやってきたのです。
もちろん、それをやらなければ、契約が取れないし、会社がつぶれて経済活動が行き詰まってしまう」「どこの国でもやっていること」なのかもしれません。
でも、それが「正しいこと」だとは、僕には思えない。
「戦犯」の追及にしても、前線では、捕虜虐待の事実もない清廉な下士官たちが、B、C級戦犯として、まともな裁判も受けずに処刑され、満州では多くの民間人が関東軍に見捨てられました。
にもかかわらず、大本営の「責任者」たちのなかには、瀬島氏をはじめとして、「生き延びて戦後の日本の中枢を担ってきた」人たちがたくさんいます。
細菌兵器の開発や人体実験を行った七三一部隊の石井部隊長は、「研究の結果を引き渡す」という条件で、アメリカ軍からの訴追を逃れてさえいます。
元関東軍作戦班長、草地貞吾が言う。
「(ソ連の対日参戦までは)ソ連軍を刺激しないための『静謐確保』が関東軍に与えられた任務だった。国境近くの軍や開拓団がいなくなり、ソ連が無血進撃してきたら大変だからね。悪く言えば案山子の役割をして、国境地帯でのこちらの存在を誇示する必要があった」
ソ連参戦4日目の8月12日、関東軍司令部は通化に後退した。各地で戦闘が続く中、避難民の多くは軍の保護なしに広大な原野に取り残された。
「横綱が土俵で戦っている時、観客に病人が出ても、相撲をやめ観客を救うようなことはしませんよ。それと同じで強大なソ連軍と戦っている時に居留民保護に向かうわけにはいかないんだ」
大畑とめの三女、幸子はこの8月12日の夜、大畑の背で冷たくなっていた。衰弱死だった。
「空き家の土間に腰を下ろして亀さん(亀の甲型の背負い布)をほどいたら息をしてなかった。翌朝、幸子の体に亀さんを掛け、そのまま置いてきた。昼には裕子もぐったり動かなくなった。『ごめんね』って言って草むらに残していったの」
13日夕、ソ連の戦車数十台が峠を越えて近づいた。大畑は協子の小さな手を握りしめ、道端の茂みに駆け込んだ。はったまま後ずさりした。警察隊員が大畑の手から協子をもぎ取ったのはその時だった。
「子供が泣くと見つかってしまうだろ」
協子は暗がりに連れて行かれた。隊員の刀が光るのが見えた。大畑は声も出ず、身動きできなかった。(中略)
沖田の背中の子が泣き出した。途中ではぐれた知人の娘、和子(2つ)だった。押し殺した警察隊員の声がした。
「タオルで首を絞めろっ」
沖田は倒れるように座り込んだ。二歳の息子を背にした女友達も一緒だった。
間もなく戦車隊が遠ざかり、沖田と女友達は暗闇に取り残された。大畑や警察隊長らは先へ進んで見えなくなった。地響きがまだ続いていた。
「もう駄目だとあきらめたのよ。先に子供を死なせようと、二人とも背負っていた子供を下ろし、首に手を掛けたの。『おばちゃんもすぐ行くから待っててね』『おかあちゃんも行くから』『ごめんね。ごめんね』って言いながら」
柔らかい首に親指が食い込んだ。子供たちは声も立てなかった。
「どれぐらい時間がたったのか。はっと気付いたら、子供たちはぐったりしていた。その後二人で呆然として……。星がよう見えてね。満天の星空だった。戦車の音も何もしなくなっていた」
この本のなかで描かれている「子供が騒ぐと敵に見つかる」という理由で、自分の子供の首を絞めざるをえなかった母親のことを思うと、その理不尽さに怒りがつのるばかりです。
こんなふうに弱い人たちが犠牲になっていく一方で、「横綱」は最後まで土俵に上がらないどころか、真っ先に逃げ出してしまった。
そりゃあ、「あの戦争で死んだ人が浮かばれない」と、水木しげるさんがずっと言い続けている気持ちも理解できるし、結局のところ、「あの戦争でも、すべてが変わったわけではない」いや、「何も知らないまま生きている『市民』を無視したまま、いろんなことが決まり、戦前と同じ人たちが、利益を独占し続けている」のです。
で、そういう人たちが、「戦没者遺族会代表」になっちゃう国なんだよ日本は。
これは「むかしの戦争の話」だと思いながら、僕は読み始めました。
しかしながら、日本という国の「本質」は、あの戦争でさえも、たぶん、ほとんど変わってはいないのです。
「経済」は確かに大事でしょう。
でも、「日本経済」の名のもとに酷使されてきた国民に、何かいいことはあったのだろうか?
(「希望」は持てたじゃないか、たとえ幻想でも、と言われたら、返す言葉はないけれど)
そもそも、「戦争」をやるくらいの国力を投入すれば、今回の大震災でも、もう少し犠牲を減らすことができたのではないか?
今回の大震災でも、陰で「復興ビジネス」での利権をめぐる争いが繰り広げられる可能性は高いでしょう。
「頭のいい人たち」は、すでに、着々と準備を整えているはず。
僕たちは、「義援金」を出すだけで満足してしまい、それがどう使われているのかを追跡調査しようとはしなかった。
原子力発電所にしても、「いままで(身近なところでは)何も起こっていないし、自分の近くには無いものだから、まあ、いいんじゃない」と容認していたにもかかわらず、こうなってみてはじめて、「東電は絶対安全だと言っていたのに」と激怒しています(僕もそうです)。
でもね、考えてみたら、「絶対に安全」なんて、この世界にあるわけがない。
どんなに自然災害に強い施設であっても、ヒューマンエラーは起こりえます。
村上龍さんの小説に、原発を占拠するテロリストの話がありましたが、戦争になれば、攻撃目標にされる(あるいは、偶発的にでも破壊されてしまう)可能性は十分あるでしょう。
今回の震災は「1000年に一度」でも、原発というものができてから、半世紀のあいだに、チェルノブイリ、スリーマイル、そして福島と、3つの大きな事故が起こりました。
これは、「原発で電力を得るために、受け入れざるをえないコスト」なのでしょうか?
僕たちは、チェルノブイリやスリーマイルのあとも「日本の技術力なら大丈夫なんじゃないかな」と、危機意識を持てなかった。
たぶん、福島のあとも、世界各国は、真剣な危機意識を持つことはできないと思う。
そもそも、日本は広島・長崎での「被爆」という経験をしていたのに、原発をつくってしまった。
現実問題として、「ただちに原発を全部止める」ことは難しいでしょう。
でも、これ以上、何かが起こったときに、人類を滅亡させたり、子孫を苦しめたりするような施設を増やすことが正しいとは思えないし、コストがかかっても、より「アクシデントが起こった際にも、制御しやすい発電システム」への転換をめざすべきでしょう。
一部の人たちの「利権」のために、「弱いものたちが夕暮れ、さらに弱いものを叩く」ような「従順な国民」であることから、もう「卒業」すべきです。
政治に無関心なのがカッコいいなんて思い込みは、もうやめよう。
世の中は「頭がいい人たち」が動かしていくものだと諦めて、「知ろうとすること」すら放棄していては、何も変わりません。
ぜひ、この本を多くの「いまの日本人」にも読んでみてもらいたい。
いかに僕たちがバカにされ続けてきたのかが、よくわかるから。