琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

「自然体」という幻想

 『めざましテレビ』で、『ライフ』という映画の宣伝をやっていたのだが、このドキュメンタリー映画って、松本幸四郎さんと松たか子さんが、親子でナレーションをやっているんですね。
 最近はCMでも親子で共演しているのだけど、僕はあれを観ながら、「うーん、いくら松本幸四郎でも、親と仕事で共演するのって、イヤじゃないのかなあ、なんてことを考えてしまうのです。
 そういうところにもこだわらないのが、「自然体」なのかなあ。

 そんなことを考えていたら、以前、松たか子さんが、以前あるラジオ番組で、「自然体」と周囲から言われることについて、こんなふうに話していたのを思い出しました。

「周りからは自然体といわれることもあるけれど、私にとっての自然体というのは、その場の雰囲気を読んで、それにあった、相手が自分に期待しているであろう行動をすることなんです。それが『自然体』と言われているだけで」

 なんとも身も蓋も無い話ではあるし、子どもの頃から、「注目されてしまう人生」をおくってきた人ならではの「達観」であるような気もします。
 「自然体」というのもまた、「演技」なのです。

以前、中谷美紀さんの演技についての、こんな話を読んだことがあります。



『ないものねだり』(中谷美紀著・幻冬舎文庫)の巻末の黒沢清さんによる「解説」の一部です。

 今でも強烈に印象に残っている撮影現場の光景がある。中谷さんに、沼の上に突き出た桟橋をふらふらと歩いていき、突端まで行き着いてついにそれ以上進めなくなるという場面を演じてもらったときのことだ。これは、一見別にどうってことのない芝居に思える。正直私も簡単なことだろうとタカをくくっていた。だから中谷さんに「桟橋の先まで行って立ち止まってください」としか指示していない。中谷さんは「はい、わかりました。少し練習させてください」と言い、何度か桟橋を往復していたようだった。最初、ただ足場の安全性を確かめているのだろうくらいに思って気にも留めなかったのだが、そうではなかった。見ると、中谷さんはスタート位置から突端までの歩数を何度も往復して正確に測っている。私はこの時点でもまだ、それが何の目的なのかわからなかった。
 そしていよいよ撮影が開始され、よーいスタートとなり、中谷さんは桟橋を歩き始めた。徐々に突端に近づき、その端まで行ったとき、私もスタッフたちも一瞬「あっ!」と声を上げそうになった。と言うのは、彼女の身体がぐらりと傾き、本当に水に落ちてしまうのではないかと見えたからだ。しかし彼女はぎりぎりのところで踏みとどまって、まさに呆然と立ちすくんだのだ。もちろん私は一発でOKを出した。要するに彼女は、あらかじめこのぎりぎりのところで足を踏み外す寸前の歩数を正確に測っていたのだった。「なんて精密なんだ……」私は舌を巻いた。と同時に、この精密さがあったからこそ、彼女の芝居はまったく計算したようなところがなく、徹底して自然なのである。
 つまりこれは脚本に書かれた「桟橋の先まで行って、それ以上進めなくなる」という一行を完全に表現した結果だったのだ。どういうことかと言うと、この一行には実は伏せられた重要なポイントがある。なぜその女はそれ以上進めなくなるのか、という点だ。別に難しい抽象的な理由や心理的な原因があったわけではない。彼女は物理的に「行けなく」なったのだ。「行かない」ことを選んだのではなく「行けなく」なった。どうしてか? それ以上行ったら水に落ちてしまうから。現実には十分あり得るシチュエーションで、別に難しくも何ともないと思うかもしれないが、これを演技でやるとなると細心の注意が必要となる。先まで行って適当に立ち止まるのとは全然違い、落ちそうになって踏みとどまり立ち尽くすという動きによってのみそれは表現可能なのであって、そのためには桟橋の突端ぎりぎりまでの歩数を正確に把握しておかねばならないのだった。
 と偉そうなことを書いたが、中谷美紀が目の前でこれを実践してくれるまで私は気づかなかった。彼女は知っていたのだ。映画の中では全てのできごとは自然でなければならず、カメラの前で何ひとつゴマかしがきかないということを。そして、演技としての自然さは、徹底した計算によってのみ達成されるということを。ところで、このことは中谷さんの文章にもそのまま当てはまるのではないだろうか。

 この中谷さんの演技に対する姿勢が、黒沢清監督に強い印象を残したということは、少なくとも日本の役者さんの大部分は、こんな「計算した演技」をすることはないのでしょうね。
 
 
 実際のところ、もし人が自分の欲求や思いついたことに対して、そのまま「自然に」行動すれば、絶対に他人から嫌われるはずです。
 多かれ少なかれ、あるいは、自覚的であるかそうでないかは別として、人はみんな「演技」をしながら生きています。


 人間って、本当に「自分のことは、わからない」ですよね。
 伊集院静さんが、『情熱大陸』で、「一度でいいから、自分が絶対に好みじゃないタイプの異性と付き合ってみろ。自分の好みなんていいかげんなものだってことがよくわかるから」というようなことを仰っていました。
 僕もこの年になって、ようやくそういうことがわかってきました。
 他人が自分を誤解するのと同じように、あるいはそれ以上に、自分自身のことは「誤解」しやすい。
 「自分に対する理想」や「先入観」や「過去の経験」が、邪魔になってしまいがちで。


 「自然にふるまう」と言うけれど、どういうのが「自然」なのでしょうか?
 「天然」という言葉が、とくに女性に対してよく使われますが、単に「ボーっとしていて、反応が遅いだけの人」であることがほとんどです。


 最近、ようやくわかってきたのは、「本当の自分」というのが、この世界、あるいは自分の中にあると信じて、「自分探し」をしているかぎり、その人は、どこにもたどり着くことはないだろう、ということです。
 なぜなら、「本来の自分」なんて、もともと、どこにも存在しないし、誰かが勝手に決めてくれるものでもないのだから。


 できることは、「自分で、自分がどうしたいか、どうするのかを(無理やりにでも)決めて、それに向かって演技を続けていくこと」だけなのではないかなあ。
 「本来の自分を探す」のではなく、「自分がなりたい自分を上手く演じきる」しかない。


 中谷さんは、「どうやって『自然な演技』に見せるか?」という難問を「自然な演技を心がけました!」なんていうような「精神論」で解決するのではなく、「自然なリアクションの場合はこういう動きをするはずだから、それに準じて精巧に演じる」という「技術」で克服しようとしました。
 これって、演技の世界だけの話ではなくて、実生活においても応用できるはず。


 そんなに簡単なことじゃないことはわかっているけれど、「心の問題」じゃなくて、「技術」でクリアできる可能性があるということは、知っていても損はないと思います。

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