- 作者: 上村雅之,細井浩一,中村彰憲
- 出版社/メーカー: エヌティティ出版
- 発売日: 2013/06/28
- メディア: 単行本
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内容紹介
ファミコン誕生30年!
2013年7月15日は、任天堂のファミリーコンピュータ(ファミコン)の発売30周年。現在のゲーム産業の原点であり、クール・ジャパンの元祖とも言えるファミコンの開発~誕生~ブーム~終焉までを、開発責任者だった上村雅之氏と研究者が貴重な内部資料や証言を駆使して描く、決定版ファミコン史。
今日、2013年7月15日は、ファミリーコンピュータ発売から、ちょうど30年目にあたります。
この本、ファミコンの開発責任者である上村雅之さんが、ファミコン開発秘話を当時の資料を駆使して語る貴重な証言……だと思っていたのですが、率直に言うと、僕が思いこんでいたよりも、かなり「堅い」というか「学術的」な内容でした。
「ファミコンのこと」が中心に書かれているのだろうと思っていたのですが、アメリカでの「ビデオゲームの誕生」から、『PONG』、インベーダーゲーム、アタリの栄光と凋落(アタリショック!)、日本国内でのLSIゲームのヒットと任天堂の『ゲーム&ウォッチ』、そして、ようやく「ファミコン」の誕生へ。
本編は240ページくらいなのですが、ファミコンの話が本格的に出てくるのは、その3分の1くらい、80ページが過ぎてからです。
この本は「ファミコンの話」というよりは、「ファミコンが生まれるまでの背景とファミコンの影響」を中心に書かれていて、「開発時の感動的なエピソード」や「魅力的なゲームタイトルの話」などはほとんどありません。
ですから、「当時の懐かしいゲームの記憶に浸りたい」という人より、「ファミコンという現象」を俯瞰したい人向け、と言えるかもしれません。
ファミコン発売当時の僕の感覚からすれば、「ようやくゲームセンターのゲームがそのまま遊べるゲーム機が出た!という感じだったのです。
とはいっても、当時のファミコンでは、『ドンキーコング』の全4ステージのうちの1つのステージが削除されてしまっていたのですけど。
遊ぶ側からすれば、「テレビゲームの真打ち登場!これが最先端の遊びだ!」だったのですが、この本を読むと、開発側は、必ずしもファミコンを「最先端」だと考えていなかったようです。
ファミコン発売当時(1983年)、アメリカでは「アタリショック」の影響が続いていて、「ゲームしかできない『ゲーム専用機』は終わった」と考えている人が多く、IBMやアップルのパソコンが順調に売れていました。
日本国内ではワープロが爆発的に普及してきた時期でもあります。
ファミコンにも英数字キーボードを搭載すべきか、またBASICのようなプログラム開発言語を搭載すべきか、というたいへん頭の痛い問題も、結局コスト重視の方針から決着がつけられた。ビデオゲームを家庭で楽しむこと、そしてその中心は子どもであることがファミコンの設計の基本方針である。また、ビデオゲームは簡単な操作で奥深い遊びを遊べるということが開発の指針にされていることを考えると、当面英数字キーボードは必要としない。また、BASICのようなプログラム機能を搭載するためには作成されたプログラムを保存するためにRAMや外部記憶装置が必要になり、下手をするとファミコン本体のコストより高くつく、ということで英数字キーボードやBASICを当初から搭載することは断念した。
しかし、前述のような世の中の流れの中で、ゲームしか遊べない仕様で、販売を担当する流通を説得できるのだろうか。また、新聞やテレビ局といったメディアがゲームしかできないファミコンの発売に注目してくれるのであろうか、という点が改めて問題となった。そこで、ファミコンの発売後に英数字キーボードやBASIC機能を搭載した専用のカセットを別に発売することをアナウンスするという決定がなされた。
現実にファミコンの発売を新聞社や雑誌社に発表した時には、なぜ初めから搭載せずに別売りなのかという質問が多く寄せられた。テレビでゲームを遊ぶ時代はすでに終わっている、と多くのメディア関係者が考えていたことを実感した記憶が現在もハッキリと残っている。
僕が「やっと『テレビゲーム』を家で遊べるようになった!」と喜んでいた時期、開発者やメディアは、「ゲームしかできないコンピュータは、もう『時代遅れ』ではないか?」と考えていたのです。
いまから考えると、「ファミリーベーシック」を標準装備にしなかったのは「妥当な判断」だと思われるのですが、当時は「かなり悩ましい決断」だったのですね。
この本によると、開発側としては、ファミコンは発売後2〜3年で人気のピークを越え、他の玩具に取って替わられていくだろう、と考えていたようです。
実際は、1983年7月15日に発売されたファミコンが「全盛期」を迎えるのは、発売から2年以上経った1985年9月13日に発売された、ある怪物ソフト、そう、『スーパーマリオブラザーズ』の発売後でした。
ファミコンは発売直後から大人気だったような記憶があるのですが、実際は「雌伏の時代」がけっこう長かったのです。
そして、その人気に陰りが出てきたと思われていた1987年1月に『ドラゴンクエスト2』、翌1988年2月に『ドラゴンクエスト3』が発売され、ファミコンは「延命」していくのです。
ただし、ミリオンセラー(ディスクシステムのゲームを含む)の数は1986年(『ドラゴンクエスト(1)』や『プロ野球ファミリースタジアム(初代)が発売された年』が圧倒的に多く(13本)、翌87年には4本と激減、88年も4本だけです。
この本にたくさん紹介されている資料によると、ファミコンそのものの「ピーク」は、僕が思っていたほど長くはなかった、とも言えるでしょう。
にもかかわらず、ファミコンというのは、本当に僕にとっては印象深い存在なのです。
多くの同世代の子どもたちにとっても、そうだったと思う。
「インベーダーゲーム」が「テレビゲーム」と同義の時代があったように、「ファミコン」=「家庭用テレビゲーム」だった時代もありました。
あと、この本を読んで、30年間、いくつか間違った思い込みをしていたことにも気づきました。
ファミコンは発売後にも想定外のハード、ソフト面でのトラブルがあり、A、Bボタンを丸型に変更したり、表示用LSIなどのの不具合に対し、ソフトウェアのプログラムを変えたり、表示用のLSIを改良したりを繰り返していたそうです。
とりあえずプログラムの一部変更でトラブルを乗り切った後、トラブルの原因を取り除いた表示用のLSIが供給されるようになった。ところが、その後も表示用LSIやCPUを搭載したLSIに小さな不具合が含まれていることが次々と発覚し、そのつどプログラムで対応する対策がとられることになった。いわゆるファミコンのバージョン問題である。なかには、不具合の修正が新たな不具合を生む結果となった場合もあり、そのつどLSIのバージョン番号が改定された。このバージョン問題はすべて量産後に発生したため、開発の手から生産管理現場に所属する技術部で不具合の原因究明、プログラムによる対応方法などが決定され、開発に連絡され、ゲームの開発に反映する仕組みも確立されていった。
ファミコンのバージョン問題を管理する仕組みは、1984年初めには社内にできあがっていたが、その後任天堂以外の会社からファミコン本体を使用したゲームソフトを発売したいという要請がなされるようになった。ファミコンバージョン問題は外部には公表されていなかったため、社外のゲームソフト会社では市販されているファミコンで試験が完了すれば量産できると考えられていた。ところがもしそのまま発売が行われれば、ファミコン本体のバージョン違いのため、発売されたゲームソフトは不良品と断定される恐れがある。その対策として考えられたのが社内、社外を問わずすべてのゲームソフトは発売前に工場の技術部門が管理しているバージョンが異なるファミコンで動作を確認すること、またファミコンのプログラムを行う上で必要な不具合回避プログラムを技術部門から提供するという管理システムである。
契約面から言えば、任天堂以外の企業がファミコン本体を使用したゲームソフトを販売するためには、「ファミリーコンピュータ」という商標の使用許諾を含む契約を任天堂と行う必要がある。その契約の中に、上記ファミコンのバージョン対策情報の開示および技術部門での動作試験の義務化が含まれた。また、ゲームソフトを開発している任天堂以外の多くの企業はゲームソフトの工場生産の経験がなく、新たに工場生産を始めるためには人材面、資金面でも難しい問題を抱えることになると判断され、多くの企業は契約の締結と同時に任天堂に生産委託(OEM生産と呼ばれていた)と行う道を選択した。この結果ファミコンのLSIが抱える数々のトラブルを回避することが可能となり、商品としての信頼性の向上に大きく貢献することとなった。
最低数以上の商品を発注しなければならないため初期にお金がかかり、生産数も任天堂の意向が反映される。品切れになってもすぐに再生産できず、当然のことながらマージンも取られるということで、この「ファミコンカセットの生産方式」へは、当時かなりの批判がありました。
それがのちに、プレイステーションでソニー陣営に多くのメーカーが流れていく原因になったとも言われています。
しかしながら、任天堂にとっては、この「囲い込み」は「バージョン問題対策」でもあったんですね。
ユーザーの知らないところで、何度も細かいソフト、ハードのモデルチェンジが行われていたのならば、すべてのバージョンでの動作確認を行うのはかなり大変なことだったでしょうから。
現在のように、ネット経由でアップデートすることはできない時代の話ですし。
発売後の不具合を予防するという意味でも、任天堂による「管理」はメリットが大きかったはずです。
理不尽に思われていたことでも、当時はそれなりの「理由」があったのです。
そして、ファミコンは、その洗礼を受けた子どもたちと、それ以前の世代に、大きな違いをもたらしたのではないかと、著者たちは考えています。
振り返れば、1980年代は日常生活が急速にデジタル化されている中で、世代間のデジタル・ディバイドが進んでいった時代でもあった。家庭でファミコンが子どもたちの圧倒的な支持を得ていた同じ時期に、家庭用ビデオデッキ(VTR)も急速に浸透している。内閣府の消費動向調査では、1978年には1.3%だった世帯普及率が、1983年には11.8%と初めて1割を超え、1991年には71.5%にまで上昇している。ゲームソフトを買えば飽きるまでゲームが遊べるファミコンと、録画すれば放送スケジュールに縛られることなくテレビ番組を楽しめる家庭用ビデオデッキは、人々の生活やコンテンツの消費スタイルを大きく変化させた。そして、このことは後の情報家電との接し方についても大きな影響をもたらしたと言える。
ファミコンが「ファミリーコンピュータ」と呼称される所以は、テレビ画面とコントローラーを介した情報のインタラクティブなやりとりを、ゲームという娯楽を通して行わせているからに他ならない。一口にテレビゲームを遊ぶと言っても、そのためには
テレビの画面を見て、瞬時に情報を判断し、必要な選択を行って、コントローラーを操作し、結果を確認する」という、高度で複雑な情報処理能力が継続して求められる。初期の家庭用ビデオデッキでは、本体のダイヤルを操作して曜日と録画開始時刻、終了時刻をセットしていたが、1980年代中盤になると赤外線リモコンを用いて操作するようになっていった。そこには、テレビの文字情報を見ながらリモコンを連続操作して録画予約を行うという、ファミコンと同じ情報「操作」の循環が存在する。なかでも、ファミコンにおけるコントローラー操作、特に「ゲーム&ウォッチ」から継承されてきた「十字キー」と複数のボタンを組み合わせて選択と決定を繰り返す情報操作法は、現在においてもテレビのコントローラや携帯電話をはじめとして非常に多くの情報機器の標準的な操作方法になっている。
こうして、1980年代以降、子どもたちが最先端のコンピュータデバイスを難なく操作するのに対して、多くの大人たちがそれに困難を覚えるという情報機器リテラシーに対する世代的ギャップが生まれていく。その発端となったのがファミコンであった。
ファミコンが「ファミコン世代」にもたらしたのは「新しいゲーム体験」だけではなかったのです。
考えてみれば、ファミコンとビデオデッキが普及する以前は、夜眠れないときに子どもができる遊びって、本を読むかラジオの深夜放送を聴くくらいしかなかったのですよね。
ファミコンのおかげで、「孤独な夜」は失われた。
そして、ファミコンのおかげで、「こちらから、テレビ画面の上のものを操作する」ということが、ファミコン世代にとっては当たり前のこととなったのです。
いまでは当たり前すぎて、何の感慨もなくなってしまったけれど、十字キーの右を押せばキャラクターが右に動き、Aボタンを押せばジャンプするということさえ、テレビゲームが生まれた時代には、驚きだったのに。
最近の子供たちは、「生まれたときからそれが当たり前のこと」になっています。
かなり「学術的」な内容で、定価も高めなので、よほどのゲーム好き、あるいは研究者向けの本ではありますが、「テレビゲームの時代」を生きてきた僕にとっては、ひとつの「総括」として、興味深い一冊でした。
1985年、『スーパーマリオブラザーズ』発売目前のインタビューで、任天堂の山内前社長は、こう仰っていたそうです。
任天堂というのは、独りぼっちの企業なのです。独りぼっちの路線を歩んでいるのだということを最近つくづく感じます。
あの日から30年。
「独りぼっちの企業」がつくってきた道は、独りぼっちだった大勢の子どもたちが歩んでいくうちに、こんなに大きくて長い道になったのですね。