琥珀色の戯言

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【読書感想】元社長が語る! セガ家庭用ゲーム機 開発秘史 ☆☆☆☆

内容(「BOOK」データベースより)
セガ入社以来ゲーム機開発に携わり、SG‐1000から、メガドライブセガサターンと家庭用ゲーム機の開発責任者を務め、ドリームキャストを最後に撤退する時には社長として後始末を付けた。そんな著者が、現場からの視点で開発の歴史を綴る。採算を度外視し、最先端のテクノロジーを積極的に取り入れた先鋭的なハードウェアでファンを魅了しつづけた、セガ家庭用ゲーム機開発の裏には何があったのか。ソフトウェア開発の難しさ、開発現場の思いと営業の思惑との齟齬、豪快なオーナー社長が通信に見た夢、強力なライバル企業たちとの奇妙な関係など、全てをその目で見てきた元社長の口から、ゲーム機開発の裏側が赤裸々に語られる!


 著者の佐藤秀樹さんは、1950年の生まれで、1971年にセガ・エンタープライゼス入社。SG‐1000、メガドライブセガサターンと家庭用ゲーム機の開発責任者を務め、ドリームキャストを最後に家庭用ゲーム機から撤退する時には代表取締役社長だった方です。
 まさに「セガの家庭用ゲーム機事業のはじまりから終わりを見届けた人」とも言えます。

 この本は、その「レジェンド」の回顧録としては、あまりにもざっくばらんで、長年『BEEP!』を愛読し、ファミコンも持っていたけれど心情的にはセガを応援していた僕は、ちょっとがっかりもしたんですよね。
 開発責任者の家庭用ゲームへの思い入れの差が、任天堂ソニーセガの勝敗を分けたのではないか、という気もしました。

 セガは、もともとアーケードゲーム中心のメーカーだっただけに、開発者たちも、家庭用ゲームよりもアーケードを重視していたところがあったようです。
 

 (家庭用ゲーム機「SG-1000」が発売された1983年)当時、コンシューマーの需要は、まだそれほど大きくなかった。セガにとっては業務用が保守本流なのだ。業務用のビジネスは、まだうまくいくかどうかわからない。SC−3000は1台の販売価格が3万円で、出し値が2万円。2万円を1万台売ったって2億だ。業務用の機械、たとえばダービー(競馬のメダルゲーム)を1台売ったら1500万円。粗利で500〜600万円になる。それに比べたら、全然、傍流というか、支流にもならない程度のものだ。
 だから、家庭用の開発部門の陣容は非常に貧弱だった。人をまわしてくれと要望しても、やってくるのは部署で要らない人間ばかり。一種の吹きだまりだ。そういう連中がほとんどで、人数もSC−3000やっているころは5、6名程度だった。開発関係を私がやって、それを管掌していたのが、任天堂から引き抜かれてきて当時は専務だった駒井徳造さん。駒井さんの下にもう1人いて、社内のこの3人と、社外のフォスター電機を使って進めていた。SC−3000もそれなりに数が出そうだねということで、営業の人間だとか、製造管理とかで、ちょこちょこと人を集めたけれど、それでも10人に満たなかったと思う。


 セガは、ずっとハード事業にこだわってきた会社なのだけれど、「家庭用ゲームの自社開発力」では任天堂にかなわなかったし、サードパーティを集める力は、ソニーに圧倒されていたのです。

SG-1000が)16万台も売れたのは、任天堂ファミコンの余波のおかげ、としかいいようがない。

 というのも、SG-1000はソフトが面白くなかった。
 たとえば、1983年には「ボーダーライン」「N-SNB」「コンゴボンゴ」「スタージャッカー」「チャンピオンベースボール」「シンドバットミステリー」といったゲームが出ているが、どれもぱっとしない。 この中でセガ自身が作ったものは「スタージャッカー」くらいだった。ほとんどは、業務用を元にして、SG-1000への移植を外注に出したものなのだが、あがってきたものはどれも出来が悪かった。
 音の同期が取れていないため、セガからライブラリを提供した、などというのはまだましな方だ。なかには、ショー当日の朝、10時ぐらいから始まるというのに、9時くらいに来て「できました」みたいなこともあった。
 枯れ木も山の賑わいというが、枯れ木ばかりの枯れ山だ。


 もうすぐ70歳になろうとしている著者にとっては、「もう時効だろう」ということで、歯に衣着せずに話しておられるのだと思いますが、長年のセガファンだった僕は、これを読んで、「ああ、この人たちは、自分たちで『つまらない』と思っていたものを知らん顔して売っていたのか……」と、今さらながら、ムカついたんですよ。
 当時の僕らはセガのゲームに期待し、世間がファミコン一色のなかで、応援していたのに……
 任天堂のゲーム開発者であれば、たぶん、いま、同じように語る機会があっても、「自分たちとしては、やれるだけのことをやったものを売っていた」と言うのではなかろうか。それが、100%の真実ではないとしても。
 セガは、業務用では高性能のハードで、高品質のゲームを出すことにこだわっていたため、ハードの性能が劣る家庭用ゲーム機では、「まあ、スペックが劣るハードだから、しょうがないよね」と妥協してしまう傾向があった、とも著者は述べています。
 「セガは何でも自分でできてしまうのでサードパーティが入ってきにくかった」という話も出てきます。
 セガは、家庭用ゲーム機を長年売っていながら、家庭用ゲーム機のメーカーとしての覚悟や矜持が足りなかったのです。
 

 この本、読めば読むほど、「セガは、負けるべくして負けた」と認めざるをえないのです。


 著者は、サターンとプレイステーションが覇権を争っていた時代、半年に一度くらい、ソニー久夛良木さん(プレイステーションの生みの親)と2人きりで食事をして、さしさわりのない範囲で情報交換をしていたそうです。

 そんな中で久夛良木さんに、「秀樹ちゃんね、俺に勝てるわけないじゃない」といわれた。「半導体どっから買っているの? 日立から買っている。ヤマハから買っている、CD-ROMはどうしている? みんな買っているでしょ。日立から買うってことは、日立も利益出しているでしょう。カスタム品にしても何にしても、うちは自分で作っちゃう。工場もあるもんね」。
 ソニーは全社の売上が3兆円ある。さまざまなハードを作っているから、CD-ROMを自前で手配できる。中新田あたりにどでかい工場があって、そこでオーディオ機器を作っている。半導体の工場も持っている。そこのラインにのっけてしまえばコストのストラクチャーが全然違う。
「だから秀樹ちゃん。もう半導体なんかやめなさい」といわれた。ソフトだけやるのであれば、ソニーとしてもそれなりに優遇するから、と。


 セガも、コストダウンのためにさまざまな努力をしていたことを著者は証言しています。
 しかしながら、家庭用ゲーム機に必要なパーツのほとんどを社内で調達できるソニーに比べると、外注するしかないセガは、あまりにも不利でした。
 そして、セガには、宮本茂さんも横井軍平さんも、岩田聡さんもいなかったのです。
 ゲームソフトも、ひととおりのものは自社内で開発できてしまうがゆえに、サードパーティに思い切って「任せる」ことができなかった。

 セガの場合は、アメリカでジェネシスがもたらした「成功体験」があったがために、「やればできるはず」と、なかなかハード事業からの撤退に踏み切れなかった、という面もあったそうです。
 成功体験は、ときに、より大きな失敗の原因になってしまうことがあるのです。


 カセットビジョンの頃から、日本の家庭用ゲーム史をリアルタイムでみてきた僕にとっては、ものすごく興味深かったし、懐かしい気分にもなりました。
 それと同時に、「セガの家庭用ハードが敗れたのは、必然だったのだな」と、ようやく合点がいったのです。
 頭ではわかっても、「こんなに面白いのに、なんで任天堂ソニーに勝てないんだろう」と思っていた頃の自分を消し去ることはできないのだけれども。


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