
- 作者: 清水義範
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2014/01/17
- メディア: 単行本
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内容(「BOOK」データベースより)
文章は、ちょっとした工夫で印象がガラリと変わる―文体模倣の名手が、「笑わせる」「泣かせる」「怖がらせる」「怒らせる」「和ませる」文章を書くために必要な発想とテクニックをつぶさに伝授。小説、エッセイ、新聞記事など様々な実例をもとに読み手の感情を揺さぶることのできる文章と、できない文章の違いを明快に解き明かす。ユーモア満載で描かれた異色の文章読本。
僕はこういう「文章読本」を見かけると、つい、手にとってしまいます。
読んだだけで文章がうまくなる、という経験は、残念ながらないのですが、「文章が上手な人は、どんなことを意識して書いているのか?」というのは、読んでいるだけで、けっこう「面白い」ので。
清水義範さんは、パスティーシュ(他の作家や試験問題の文章、マスメディアの表現など、さまざまな文体を駆使して書かれたもの)文学の日本の旗手として知られており、これまでも何冊か「文章」や「表現」「小説」についての本を書いておられます。
私は、読んでみると、ああ、こういう文章って世の中にあるよなあ、という感じの、広い意味の模倣をしてみた。たとえば、学者の書いた論文集の序文の文体。新聞に載っている投書の文体。碁の観戦記の文体。政府公報の文体。
そのような、誰が書いたのか作者名を知っているわけではないが、読めば、あるある、こういうのって、と思えるような、要するに無名の人の模倣をしたのだ。するとそいういうものも、世間は清水のパスティーシュだと受け入れてくれた。この世にあるありとあらゆる文章で、清水が真似できないものはない、なんて言われ、好意的に受け止められた。
その一方で、清水さんは、とくに何かの真似をしているわけでもないオリジナルの文章を書いても「パスティーシュ文学の傑作!」なんて本の帯に書かれて、もどかしい思いをされていたそうです。
この「心を操る文章術」は、文章によって、読む人にある種の感情(「笑わせたいとき」「泣かせたいとき」「怖がらせたいとき」など)を湧き上がらせたい場合の書き方について、過去の文学作品や清水さん自身の作品を題材に書かれており、読み物としても十分に楽しめる内容になっています。
「笑わせる文章」について。
だが、そうした笑わせる文章を書く時の、根本的な心構えはどうあればいいのだろう。言いかえれば、笑わせる文章を書くコツは何なのか。
それは、書いている人の心にゆとりがあることではないか、と私は思っている。つまり、人間の愚かさや未熟さに気がついてはいるのだが、そのことに寛容でニコニコしていて、時にはわっはっはと笑うような、人間好きの精神を持っていれば、楽しく笑える文章が書けるのである。ここまでにも私は、これを書いている時はゲラゲラ笑ってしまった、という告白をしているが、笑いながら書いた文章は他人とも笑わせるのでだ。ムカムカと怒りながら書いているのでは、人を笑わせることはできない。根本に人間への肯定があるってことが、ユーモアの本質なのである。
だが、私のその考え方とは逆のことを言う人もいる。そっちの意見も重要なので紹介しておこう。
私は、漫画家のやくみつるさんと対談をしたことがある。そしてそこで、ユーモア論を交した。その時、私がここに書いたような、人間好きのユーモアについて語ったら、やくさんはぼくは逆だなあ、とおっしゃった。
つまり、やくさんは、人間の愚かさをあざ笑い、叱りつける精神で漫画を描いているというのだ。言ってみれば、人間嫌いから生まれるユーモアだ。余裕たっぷりに威張っている人間を見れば、挑発し、相手の正体をあばき、こっぴどく叩きのめす笑いである。
それもあることを私は知っている。やくさんの作風を見ても、その意地悪心はよくわかる。からかい、引きずり下ろす笑いだ。
そう、ゆとりから生まれる笑いではなく、怒りから生まれる笑いもあるのだ。ブラックユーモアなどもそれである。
「笑い」といっても、一筋縄ではいかないというか、「人間好き」から「笑い」と生みだす人もいれば、「人間への苛立ち」から、「笑い」を生みだす人もいるんですね。
もちろん、こういうのって、それぞれを使い分けている人もいると思うし、やくみつるさんも「意地悪ではあるけれど、逃げ場がないような責めかたはしていない」のですよね。
逆に、「いいひとの、良すぎる話」には、笑えないところもありますし。
また、著者は、ゴーゴリの『外套』や、ゲーテの『若きヴェルテルの悩み』という歴史的名作を例示しながら、「泣かせる文章」について、こう仰っています。
悲しい話は、くどくど語ってはいけない。老婆の繰り言ではないのだから。乾いた文章で端的に語ったほうが、その悲劇性がよく伝わるのである。
感情に流されて書く譫言(うわごと)のような文章は、人を泣かすことができないのだ。
ああ、これはよくわかる。
「泣かせようとする文章や映像」のなかには、クドくなりすぎているというか、あまりに制作側の「泣かせようという意思」が溢れ過ぎていて、かえって引いてしまうものが多いのです。
そら泣け、ほれ泣け、と言われれば言われるほど、「悲しい話なんだろうけど、ねえ……」と、「泣かせようとしている人のしたり顔」ばかりが浮かんでしまうこともあります。
本当に悲しい話なら、むしろ、淡々と。
その一方で、著者は、こんなことも書いておられます。
人を泣かせる文章は、書いてる人も泣きそうな気分で書かなければならない。ジーンとして、胸が痛いくらいの気分で、でも私はこれを伝えたい、と思って書いていく。本当の涙はこぼさないとしても、心の中では泣きながら書くのだ。それこそが、普通の人が泣かせる文章を書く時の何よりの心がけだ。
書いている人は涙を流しながら、それでいて、乾いた文章で端的に語るというのが、「泣かせる文章の秘訣」なのだそうです。
文章と書いている人のあいだの距離感というのは、なかなか難しいものがありますよね。
「何を書いたら良いのか、わからない」とか「文章の書き方そのものから教えてほしい」という人には、あまり実践的な「文章術」ではないと思います。
とりあえず文章を書くことはできるのだけれども、なんかちょっと書いている自分と読んでいる人に「温度差」を感じる……
そういう人は、ぜひ一度読んでみることをおすすめします。
清水さんや筒井康隆さんの文章を読んだからといって、筒井さんみたいに書けるわけじゃないんですけどね、それはもう、どうしようもないことではあるのだけれども。