- 作者: 樫原辰郎
- 出版社/メーカー: 白水社
- 発売日: 2014/02/15
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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Kindle版もあります。
- 作者: 樫原辰郎
- 出版社/メーカー: 白水社
- 発売日: 2015/01/19
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内容(「BOOK」データベースより)
せまい路地の奥に足を踏み入れた“僕”は、館長や専務、ボーメさんら原型師たちとともに、めくるめく日々を過ごしてゆく―。大阪芸術大学出身の映画監督がディープに描く、「おたく」な青春グラフィティ。
「海洋堂」をご存知でしょうか?
僕自身は「フィギュアは嫌いじゃないけど、高いお金を出して買うほどでは……」という程度のつきあいで、「海洋堂」といえば、「チョコエッグ」のフィギュアをちょっと集めていたことがあるくらいなんですよね。
それでも、会社の名前は知っていましたし、そのリアルな造型には「すごいなあ……」と感心していました。
誰が、これをつくっているのだろう?と。
2年前、『カンブリア宮殿』で、海洋堂が採り上げられました。
そのなかで、司会の村上龍さんは、海洋堂のことを「オタクのハプスブルグ家」と評していたのです。
参考リンク:海洋堂は「ブラック企業」なのだろうか?(琥珀色の戯言)
この番組で海洋堂の内側をみて、僕はこの会社に強く惹かれました。
僕自身は手先が不器用ですし、原型師さんたちのようなフィギュアへの愛着もないのだけれど、「オタクが、オタクとして生きていける場所」としての海洋堂には、すごく魅力があったんですよね。
自分にはここまでのことはできないだろう、と思いつつ。
この本は、1980年代、ガレージキットのブームが起こり、「マニアが集まる模型店」から、「日本を代表するフィギュアメーカー」への階段をぐんぐん上がっていく海洋堂と、そこに集まった人々の姿を、当時、その場所にいて、海洋堂のスタッフとして過ごしてきた著者が描いたものです。
海洋堂は、1964年(昭和39年)に京阪土居駅前に誕生した模型店である。
昭和39年といえば、東京オリンピックが開催され、東海道新幹線が開通した年で、高度成長期のど真ん中である。
ちなみに、国産のプラモデルが誕生したのは昭和33年。テレビや洗濯機のような電化製品と同じく、プラモデルも高度成長時代に売り上げを伸ばした産業だった。
オーナーの宮脇修は高知県出身、海洋堂を開くにあたって、故郷で学んだ手打ちうどん屋にするか、プラモデル屋にするかで悩んだという(どっちにしても店名は海洋堂と決めていたらしい)。豪放磊落でおしゃべりが好きな宮脇の性格は、客商売には向いていたのだろう。創業十数年のこの時点で、海洋堂は地元の少年たちが出入りする模型屋として、京阪沿線に根をおろしていた。
宮脇の長男である修一は、高校に進学せずに親の店を手伝っていた。物心ついたときから模型に囲まれて育ってきたので、根っからの模型の申し子であり商売人の息子でもある。
海洋堂と、原型師たちが世に出るきっかけになったガレージキットは、1980年代のはじめから飛躍的な進化をとげていきました。
なぜ、80年代だったのか?
著者は、その理由について、このように考察しています。
ガレージキットの歴史は、怪獣やSF特撮映画に出てくるメカを作ることでスタートした。
なぜ、怪獣/特撮物というジャンルだったのだろう?
それには歴史的な必然があった。冒頭で書いた、ビデオデッキの普及である。精密な模型を作るには詳しい資料が必要となるが、それまでは、ろくな資料がなかったのである。特にゴジラのような怪獣などは、子供向けのムックに掲載されたスチールなどしか資料がなかった。さもなければ名画座で上映されるのを見に行くか、TVでの放映をじっと待ち、目を皿のようにして見つめるかだ。
だが、巻き戻しや一時停止といった機能のあるビデオの出現によって、モデラーが作りたいと思っていた怪獣やメカのフォルム、ディテールを細かく観察できるようになった。
TVや映画で怪獣を見て育った世代は、リアルな怪獣の模型=玩具を切実に欲していたのだ。
60年代後半、TV番組『ウルトラマン』の大ヒットによって巷にはソフトビニール製の怪獣人形が溢れたが、それらはどれも子供用に可愛らしくディフォルメされ、映像で見る怪獣の縫い包みとはほど遠い形状だった。似ていないだけではなく、迫力もない。怪獣のビニール人形はヒットして飛ぶように売れたが、子供らの多くは心の中で、もっと映像に近い、リアルで迫力のある怪獣を手に持ちたいと思っていた。
そして迎えた80年代、かつて本物に似ても似つかぬ怪獣人形で遊んだ子供らは学生や社会人になり、自分たちの手でリアルな怪獣を作り始めたというわけだ。
昔から、市販の怪獣人形に対して、「自分が欲しい『本物の怪獣』は、こんなのじゃない!」と思っていた人は、少なからずいたのです。
ところが、当時は怪獣に関する資料といえば、雑誌などの写真しかなく、それでは、立体的なイメージをつかむのは、けっこう難しかった。
そうなんですよね、いまとなっては、「観たい番組は、録画して何度も観られるし、大概のものはTSUTAYA(のようなレンタルDVD店)に行けば、いつでも借りられる」のだけれども、僕が子供の頃は、ある番組が放送される時間に家に、テレビの前にいなければ、観られなかったのです。
よほど運良く、それが再放送されることがなければ。
再放送されても、その場かぎりで、何度も見返すことはできなかったのだよなあ。
ビデオデッキで「録画」できるようになったこと、また、ビデオソフトが一気に増えたことが、ガレージキットにとっては、大きなブレイクスルーになったのです。
ひとつの技術が、こんなふうに繋がって、新しい世界を生み出していく。
この本を読んでいると、初期の海洋堂には、現在のような大きな、ちゃんとした会社になるという野心があったようにも思えないのですよね。
今では信じられない話だが、初期の海洋堂の商品は、ボール紙の箱にマジックで手書きの商品名を書いただけのものだった。一個何千円もするようなキットをそんな状態で売っていたのだから、いい度胸をしていたというか、中身には自信があったというか……
むしろ、マニアたちが「つくりたいものをつくって、それが売れたら御の字」という、殿様商売だったのです。
だからこそ、当時の海洋堂には勢いがあったし、金銭的な見返りがなくても、すごい技術を持ったマニアたちが集まってきたのでしょう。
著者は、はじめて、「海洋堂」に足を踏み入れたときのことを、このように回想しています。
埃臭い空気、そして言葉では言い表せないような独特のケミカルな臭いがツンと鼻を突く。どこから見ても倉庫だったが、中に入っても、やっぱり倉庫だった。倉庫の中は広い。凄く広かった。その広さに圧倒された。戦後すぐに建てられたような、古くて巨大な倉庫の壁面に、ずらっと上のほうまでプラモデルの箱が高く積み上げられていた。
ここで地震に遭ったら、プラモデルに埋もれて死ぬのか?
入ってすぐ右側には、ミニサイズのスロットカーを走らせるための巨大なサーキットがあった。こんな巨大な模型のサーキット、見たことない。しかし、その立派なサーキットにはうっすらと埃が積もっており、潰れた遊園地のような悲しげな風情を醸し出している。
壁に山高く積み上げられたプラモデルも、最近のものはなく、古い商品ばかりのようだ。もしかして、ここは廃墟か?
埃っぽい空気にのどをやられたのだろう、女友達が咳をした。
僕らの他には客もいない。ここは、やはり、廃墟なのか? 僕は、子供の頃に、潰れたボーリング場に忍び込んだ時のことを思い出していた。
だがしかし、廃墟ではなかった。倉庫の中央にガラスケースを並べたカウンターがあり、その中に人がいた。
なんと女性連れで海洋堂に潜入するとは!
(著者は、雑誌で紹介されていた海洋堂のガレージキットの写真を観て訪問したそうで、ちょっとしたギャラリーみたいな感じを想像していたようです)
そして、このカウンターの中にいた人こそが、のちの「センム」こと、海洋堂二代目、宮脇修一さんだったのです。
この「廃墟のような場所」についての文章を読んでいるだけでも、なんだか、僕の子供心みたいなものがワクワクしてくるのを感じるのです。
こういう「秘密基地」みたいなところ、いくつになっても、憧れてしまうところがあって。
一緒に行った女友達は、異様なところに連れてこられ、のどまでやられて、かわいそうではあるけれど。
著者自身もガレージキットを作っていて、かなりの技術もあったこともあり、この「海洋堂ホビー館」で、いつの間にかアルバイトをすることになります。
そしてそこには、さまざまな「原型師」たちが生息していました。
ある時期からは、関東からやってきた原型師の田熊勝夫もホビー館に住んでいた。田熊君は、茅場町にあった初代ホビーロビーに、フルスクラッチしたサンバルカンのフィギュアを持ち込み、あまりに出来が良かったので、そのまま原型師デビュー、海洋堂の社員になってホビー館に住み込むことになった。
アマチュアからいきなり業界最大手でプロになるという、ある意味で夢のようなエリートコースを歩んだ田熊青年だったけど、創生期のガレージキット業界は貧しかったので、田舎から出てきた彼を待っていたのは、大阪の衛星都市にある巨大で埃くさい倉庫の二階のタコ部屋のような場所だった。
あの頃のホビー館によく似た建築物を、十数年後になってテレビのニュースで見ることになる。1995年に地下鉄サリン事件を起こしたオウム真理教の施設、サティアンである。大勢の人間が居住できる施設であり、工場であり倉庫でもあるオウムのサティアンと海洋堂ホビー館は凄く似ていた。どちらも一般社会から切り離された空間である。
「サティアン」かあ……
そこにあったのは、ガレージキットへの「信仰」みたいなもの、あるいは、世の中の「普通」に馴染めない人たちにとっての「居場所」だったのかもしれませんね。
僕にとってすごく印象的なのは、いまとなっては、オタクの中の「ハプスブルク家」、すなわち「オタクエリート」とさえみなされる海洋堂の原型師たちの生き様でした。
今池さんにしろ、シゲちゃんにしろ、原型師としての活躍期間は長くない。
他にも、ある時期を境に止めてしまった原型師は大勢いる。もちろん、力及ばなくて辞める人間がほとんどだが、井上アーツや原詠人といった、ムーブメントそのものを牽引していたような実力派も、ある程度の作品を残したところで活動を停止している。皆、続けていれば、経済的成功もあったかもしれない人たちだ。事実、井上さんなどは、マルサに踏み込まれるほど稼いだ時期がある。
シゲちゃんに関して言えば、『ファミ通』の表紙になった作品は、初期のガレージキットよりも完成度が高い。造形家としての腕は上がっているのだ。なのに、自分の作品を商品にすることはせず、海洋堂の宣伝と企画開発に専念した。やりたいことをやり尽くして辞めた今池さん以上に謎めいたところがある。
おそらく、ガレージキットというのは初期のパンクロックみたいなもので、青春の初期衝動とともにあるものなのだ。だから、やるべきことをやったという自覚のある人間は、自らの意志で一線を去るのだ。
当時はガレージキットでは食えなかったから……というわけでもないようなのです。
その時代にも、フリーの原型師として、かなり稼いでいた人もいたそうです。
僕が2年前、『カンブリア宮殿』で観た、ボーメさんをはじめとする海洋堂の原型師さんたちは、みんな「好きなことで食べていけるのだから、ありがたい」と、原型師を「天職」と考えているように見えました。
ところが、この本を読んでいくと、海洋堂の創生期に活躍した「凄い原型師たち」の多くは、途中で「作れなくなる」あるいは、「作らなくなってしまう」のです。
むしろ、ずっと作り続けているボーメさんのような人のほうが、少数派なんですね。
紆余曲折を経て、結局、誰よりも長く原型師を続け、結果的にビッグネームになってしまった人がいる。それがBOMEさんだ。現代アートの巨匠、村上隆氏のプロデュースで世界的規模のアーティストになってしまい、フランスではムッシュボームとか呼ばれている。
もともとは、海洋堂初期の常連である。小学校の頃から海洋堂に入り浸り、トレードマークの帽子と眼鏡からボーメと名づけられた。この頃はすでに帽子をかぶっていなかったが、海洋堂では一度つけられたニックネームは永遠不動なので、ずっと、ボーメと呼ばれていた。一部の親しい人間はボーさんと呼ぶ。発音は、坊さんと同じ。
ボーさんほど人見知りの激しい人間を見たことがない。事実、僕が海洋堂に出入りしはじめた頃は、口も開いてくれなかったのだ(本人は覚えていないようだが)。今思うと、単純によく知らない人間と喋るのが怖かったのだと思う。親しくなるとズケズケと喋るようになったので、実は良い人なんだとわかったが、最初は今池さん以上に怖い人に見えた。
こんなことがあった。その日は休日で、兄ちゃんも出かけてしまったので、原型室にいたのはボーさんと僕の二人だけだった。僕は、ゴジラを削り、ボーさんは何かを塗装していたと思う。窓の外で人の気配がした。見ると、館長が数人の女の人を連れている。どうやら、近所のスナックの女の人を呼んで、ホビー館の中を案内していたらしい。
三十代の半ばくらいの女性が窓から中を覗き、目があったので、「こんにちは」と挨拶した。女の人もこちらに会釈して、そのまま立ち去った。館長の自慢気な声だけが聞こえていた。
女の人達が去った後で、ボーさんが僕に言った。
「モドキ! お前、よう初対面の女の人と喋れるな!」
喋れるもなにも、こんにちはしか言ってないのに! これが同世代の女の子なら多少の緊張はあるかもしれないが、相手は三十過ぎの、当時の僕からしたら、オバちゃんである。何を緊張することがあるだろうか。当然のごとく、僕はボーさんに言い返した。
「ボーさん、それはおかしい。いくらなんでも、人が来たら、挨拶くらいするのが普通やろ。ていうか、あんたも二十歳過ぎた大人やねんから、挨拶ぐらいせんとアカンで!」
「いや、それが! 俺にはできんのや!」
どうやら彼は、館長の奥さんこと海洋堂のオバちゃんと、事務室にいる経理のママさん以外の女性とは会話ができないらしかった。そろそろ五十路という歳になった今では、かなりの社交性を身につけたようだが、ボーさんは独身のままだ。
ボーさんが高千穂遙原作のアニメ『ダーティペア』のメインキャラ、ユリとケイの二体を同時進行で作っていたことがあった。二つセットにして販売する予定だったのである。だが、二体同時進行と言いつつ、ケイのほうは順調に進んでいるのにユリのほうがなかなか進まなかった。
傍らからボーさんの机を覗きこむと、後はディテールを仕上げて表面処理をするだけのケイと、まだラフなラインしかできていないユリが二体並んでいる。ボーさん自身は遅れているユリを放置して、一生懸命ケイを作り込んでいるのだ。この頃、シゲちゃんの下で広告を作っていた僕は、宣伝担当としての意見を述べた。
「ボーさん、これ同時に発売するんやから、ユリも早う作ってや」
「別にええやんけ! 俺はケイを先に仕上げたいんや!」
「ほんでも、セットで出すんやから、一緒に写真載せたいやん」
すると、ボーさんは僕を睨んでこう言った。
「わかってくれ! 俺はボーイッシュな女の子が好きなんや!」
わかってくれと言われたが、普通の感覚ではわからない。『ダーティペア』について説明すると、ケイが赤毛のショートヘアで、ユリは黒髪のロングヘアだ。作中ではどっちもアグレッシブなキャラクターとして描かれているが、まあショートのケイのほうがボーイッシュといえばボーイッシュではある。ボーさんはケイのほうが好みなので優先的に進めていたらしい。
「知らんがな、そんなこと……」
結果的にユリもケイも無事完成し発売されたけど、僕はこの時のボーさんとの会話で、原型師という人種のモチベーションの秘密に触れたような気がした。
好きなものしか作れない。
もちろん、創生期の海洋堂に参加し、いまも作り続けている人は、ボーメさんだけではありません。
しかし、数々の才能がひしめいていた海洋堂、あるいは日本のガレージキット、フィギュア界で、生き残り、ビッグネームとなった人のひとりが、この「女の人と喋れない」「自分の好きなものしか作れない」ボーメさんだったというのは、なんだかとても象徴的なことのような気がするのです。
御本人は、「好きなことをやってきただけ」なのだろうけれど、ひとつのことを、これだけの時間、好きでいられるというのは、すごく難しいことなのではないかなあ。
そして、ボーメさんも、もう少し前の時代に生まれていたら、いまのように原型師としての名声に包まれることはなかったかもしれません。
オタクが、オタクとして生き続けるというのも、けっこう難しい。
一生、ロッカーとして生き続けることが難しいように。
多くの原型師たちが、モチベーションを失ってしまって海洋堂を辞めていきました。
海洋堂は「オタクのハプスブルク家」ではあるけれど、名門の一員でいるというのは、それなりのプレッシャーもあるし、結果も求められるものです。
海洋堂が会社として「まとも」になっていくプロセスでは、多くの落伍者も出たことでしょう。
ボーメさんには、実力とともに、仕事への誠実さがあった。
どんなにケイが好きでも、ユリも締め切りまでにそれなりのクオリティで完成させられるくらいの。
この本で描かれているのは、著者が海洋堂で仕事をしていた時期、海洋堂が東京に進出し、フジテレビの「夢工場」で大きな仕事を請け負い、やり遂げるくらいまでの時期です。
「チョコエッグ」で、大きな注目を集めたり、ボーメさんが村上隆さんとコラボレーションして、アートの世界で注目されたり、といった時期のことは、書かれていません。
逆に言えば、著者は「自分で見たこと、体験したこと」以外は書かない、という姿勢を貫いているんですよね。
それが、僕にはすごく好ましかったし、読んでいて、「もしかしたら、自分もこんな場所にいたかもしれないな……」と、楽しく時間を過ごせました。
当時を知る人による、貴重な資料であり、また、面白い読み物だと思います。
オタクには、オタクの青春みたいなものがある。
それを「青春」とか、呼びたくも呼ばれたくもないけどね!