Kindle版もあります。
「おばあちゃんを悲しませたくないので殺そうと思いました」。非行少年の中には、時にとてつもない歪んだ考え方に基づいて行動してしまう者がいる。しかし、そうした少年でも「幸せになりたい」という思いは共通している。問題はその「幸せ」を求める方法が極めて歪んでいることであり、それは非行少年に限らないのだ。彼らの戦慄のロジック、そしてその歪みから脱却する方法を、豊富な臨床例と共に詳述する。
『ケーキの切れない非行少年たち』のシリーズ3作め。
著者は、児童精神科医として経験を積み、その後、少年院で法務技官としてさまざまな「問題を起こした少年たち」に接してきました。
勤務先の少年院で、もっとも手がかかる、ちょっとしたことでもキレて、机やいすを投げ飛ばし、大勢の職員を相手に大暴れする子どもに、神経心理学検査の一つである、Rey複数図形の模写をやらせてみたそうです。
その子が黙々と模写した図が、あまりにもお手本と比べて違って(歪んで)いるのをみて驚き、「この子には世の中のことすべてが歪んで見えている可能性がある」と考えたのです。
2作めでは、この言葉が印象的でした。
では、本当に支援が必要な人たちとは、どんな人たちなのでしょうか。ずばり申し上げますと、私たちがあまり支援したくないと感じる人たちなのです。
著者は、この3作めで、理不尽な行為で、他人を傷つけてしまう人たちの背景について考察しています。
人はみんな「幸せになりたい」という気持ちを持っている。
ただし、その「幸せ」の定義は人それぞれです。なかには、自分の幸せを達成するために自分自身や他者を傷つけたり、反社会的な行為をやってしまったりする人もいます。
人は「幸せ」になりたいから、結果的に他人が不幸になることでもやってしまうのです。人は「幸せ」を感じたいから誰かに意地悪なことをしてしまうのです。
「みんな幸せになりたい。だけど、そのやり方がよくないのだ」
そう考えると、みなさんの周りにいる意地悪をしてくる人たちを多少は理解でき、ほんの少しだけでも寛容な気持ちになれるのではないでしょうか。
しかし、同時にそれはその人が歪んだ幸せを求めている、ということでもあります。無条件に幸せを追求してもいいと言えるのは、その行為が他者を巻き込んで不幸にしないときに限られるでしょう。幸せを追求しすぎて結果的に自分だけが不幸になってしまうのは自業自得ですが、他者を巻き込んでしまうことは本来、許されることではありません。ところが、他人を不幸の渦に巻き込んででも自分の幸せを求めすぎてしまう人がまさに、「歪んだ幸せを求める人たち」
なのです。
”ケーキの切れない非行少年たち”も、結局は自分が幸せになりたいから非行をやって被害者を作ってきたのです。しかし、これは決して他人事ではありません。皆さんも知らず知らずのうちに歪んだ幸せを求めて、自分ばかりか他者をも巻き込んで、結果的に幸せから遠のいている可能性もあるからです。
読みながら、桜庭一樹さんのこの本で読んだ話を思い出しました。
あたしは、昨日の夜、神となった兄、友彦としょうもない話をしたことを思い出した。友彦が<当たったらヤバイクイズを知っているかい?>と、またじつに優雅な微笑みを浮かべて私に話しかけてきたのだ。夕食を摂っているあいだの、短い、あたしたちの会話タイムでの出来事だった。友彦は、
<いいかい、なぎさ。当てるなよ>
<な、なんで?>
<これに答えられた人間は史上にわずか5人しかいないんだ>
さんざんあたしを脅して、困っているあたしに向かって楽しそうに長い髪を揺らし、話しだしたのだった。
<ある男が死んだ。つまらない事故でね。男には妻と子どもがいた。葬式に男の同僚が参列した。同僚と妻はこんなときになんだけどいい雰囲気になった。まぁ、ひかれあうってやつだ。ところがその夜、なんと男の忘れ形見である子供が殺された。犯人は妻だった。自分の子供をとつぜん殺したんだ。さて、なぜでしょう?>
<な、なぜって……>
知るかぁ、と思ってあたしが目をぱちくりしていると、友彦は満足そうにうなずいて、
<きょとんとしてるな、我が妹よ>
<うん、もちろん>
<わかんないんだな?>
<……悪かったわね。わかんないよ、ぜんぜん>
<よかった、なぎさ。君は正常な精神の持ち主だ>
<はぁ>
友彦はにこにこして、楽しそうに、
<この問いは一説によると、異常犯罪者の精神鑑定に使われる質問なんだ。普通の青少年はほとんど、99.999……パーセント、答えられない。この史上でこれまでに答えることのできた人間はわずか5人。それは……>
友彦は、ここ十年ほどのあいだに起こった有名な猟奇事件の犯人である子供たちの名をつぎつぎに挙げてみせた。あたしがぽかんとして見ていると、
<答えられたら、ヤバイクイズ。これにて終了。我が妹は正常なり、ではね、なぎさ>
ぽかんとしているあたしを残して、襖を閉めてしまった。
僕はこの答えがわからず、しばらく考えてギブアップしてしまったのです。
ちなみにこの「問い」への答えは「子どもが死んだら、あの同僚の男と葬儀でまた会えると思ったから」。
配偶者の死の直後に心惹かれてしまう倫理的な問題はさておき、大部分の人の感覚としては「いくらなんでも、そのために、自分の子どもを殺してしまうなんて、代償が大きすぎる、ありえない」ですよね。会うための方法は他にもいくらでもあるでしょうし。
でも、こういう発想に至ってしまう人が実際にいるのです(とはいえ、この作品はあくまでも「小説」で、これと似た話を何度か読んだこともあるので、都市伝説的なものかもしれませんが)。
現実の犯罪に関する報道でも「なんでその動機で、そんな酷いことができるんだ?」と、多くの人が感じたことがあるはず。
著者は「怒りの歪み」「嫉妬の歪み」「自己愛の歪み」「所有欲の歪み」「判断の歪み」という「歪んだ幸せにつながってしまう5つの要素」について、実例を挙げながら紹介しています。
僕があらためて考えさせられたのは、「他人から見た世界というのは、こちら側からはある程度想像することはできても、それが正しいかはわからない」ということなのです。
そんなの「常識」だろう、とか「みんなそう思うはず」というのは、こちら側の思い込みでしかない場合が、多々あります。
拙著『ケーキの切れない非行少年たち』(新潮新書)でも示したように、悪口を言っていないのにそう聞こえた、睨んでないのに睨まれた、と訴える少年には、たくさん出会いました。その女性と目が合ったので自分を誘っているように見えた、自分に微笑んでくれているように見えた、などの理由で不同意わいせつに及んだ少年たちもいました。
価値観とか判断基準そのものがズレてしまっていたり、本人の思い込みが激しかったりすると、「こちらの常識が通用しない」のです。
彼らには、本当に「世界がそう見えている」のだから。
そんな「認知や判断の歪み」が理由であっても、被害を受けた側は身体的にも精神的にも損なわれてしまいます。
自己理解と他者理解のズレは学生たちにも多々みられます。大学の心理系の学科で典型的なのが”自分はこころを病んだから同じような人の気持ちがわかる。だから助けることができる”といったもので、それを理由に心理系を志した学生もいます。しかし、気持ちが分かるのと相手を支援できるのとは異なります。同じような体験をした人の気持ちが分かるのは事実かもしれませんが、支援するには時に攻撃的になるクライエントに対して冷静に対応できる別の力も必要で、それがないとクライエントをいっそう不安定にしてしまう可能性もあるのです。
いわゆる「メンヘラ」どうしのカップルが、お互いに助け合ってうまくいくか、というと、必ずしもそうではない。
むしろ、お互いに試し合い、傷つけ合ってしまう。
自分がつらい経験をした人というのは、「相手の気持ちも自分と同じはずだ」と感情移入しすぎたり、相手の感情を決めつけてしまったりすることも多いのです。
実際は、似たような境遇であっても、それぞれの人のものの見方や考え方が、同じになるわけではないのに。
「認知のズレ」というのは「ケーキの切れない非行少年たち」だけのものではありません。
私が医学部6年生の頃、医師国家試験に向けて寸暇を惜しんで勉強していたときの話です。合格率こそ9割近くあるのですが、6年生にもなると、あと少しで医師になれるので医学生はみんな死に物狂いで勉強し始めます。1割が落ちるとなると誰もが決して気が抜けません。覚える量が膨大で、大学受験の比ではありません。おそらく人生で最も過酷な試験だったと思います。
そんな状況下で同級生のある友人が、当時付き合っていた女性の両親から国家試験の半月前に旅行に誘われました。「勉強ばかりで大変だからたまには気分転換を」と言われたそうです。二人は親公認で付き合っていたので、その友人と彼女、そしてその両親の4名で1泊2日の旅行に行ったのです。彼は「こんな忙しいときに……。でももう予約したっていうから行かないといけない」とかなり苦しそうにぼやいていました。普通に考えても、例えば大学受験の共通テスト前や2次試験の半月前に旅行に誘う親などほぼいないでしょう。その彼女の両親には悪気はなく、よかれと思って誘ったのでしょうが、万が一それで彼が国家試験に落ちたらどうするのでしょうか。その後、彼は無事に国家試験には合格しましたが、両親に旅行を延期するように提案するなど彼への配慮ができなかった彼女に対しては愛想をつかしたのか、その後、別れてしまいました。
僕も受験してから30年くらい経つのに、国家試験前のピリピリとした感覚を思い出します。
「9割受かる試験」だと他人は言うけれど、だからこそ「落ちるわけにはいかない」というプレッシャーもありました。
この彼女の両親にも、彼女にも悪気はなかったはずで、「配慮不足」ではありますが、「その友人もちゃんと事情を話せばよかったのではないか」という気もします。
「国家試験がいかに重いものか」は、それを受ける立場になってみないと、想像できない。「普通の親は、受験の半月前に旅行に誘わない」というのは、「医学部に子どもが行くような家庭にとっての常識」でしかないのかもしれませんし。
こういう「認知や価値観のズレ」が、仲違いのきっかけになることは、「普通の人」どうしでも、頻繁に起こるのです。
私がかつて医師になる前に働いていた会社の飲み会での話です。同じ席の上司が社内人事のことで細かいことを愚痴っていたことがありました。その頃、中国で天安門事件などが起こり、世界情勢も荒れていました。私はそういった愚痴が馬鹿らしく思え、酔った勢いでその上司にこう言ったことがあります。
「世界では大変なことが起きているのに、そんな小さなことを言ってどうするのですか」
するとその上司は、はっきりとこう言いました。
「そんなことはどうでもいい。自分にとっては目の前の会社のことが大切なのだ」
それを聞いてハッとしました。確かにその通りだと思いました。人は自分の身近なことが一番大切なのだ。毎日付き合っていかねばならない目の前の人間関係が一番大切なのだ、と。
生きていく上で、幸せを求めていく上で、目の前の人間関係が最も大切だと思います。いくら世界情勢が落ち着いたとしても、本人にとって職場の人間関係がうまくいっていない、家庭内がうまくいっていないとなれば、幸せから遠のいてしまい、歪んだ幸せを求める結果につながるかもしれません。多くの人たちにとって、日々の幸せや満足感はそれぞれの身近な生活環境から得るものであり、遠い世界の他国の情勢よりずっと大切なのです。身近にいる人たちとの関係性を最も大切にし、そのための持続可能な努力をしていくことこそが、幸せにつながる近道ではないかと感じます。
そして努力するのも今です。我々はどうしても先のことを考えすぎて、今日明日のことが見えなくなってしまいがちです。不安が先立ち、目の前の相手との時間よりも仕事が頭をよぎったり、今できることを先延ばしにしたりと、今に集中できない方も多いのではないでしょうか。
実際は、ほとんどの人が、何らかの不安を抱えながら生きているわけで、だからこそ、天下国家を語ることで「現実逃避」したり、自分を立派に見せようとしたりしている面もありそうです。
SNSとかで他者を責めている人が、みんな完璧な人間なはずもない。
その一方で、目の前の人間関係こそが煩わしく、目を背けたいものだから、もっと大きな「正義」を語ることに逃げてしまうところもあるのかな、と僕は考えずにはいられませんでした。自分のことも鑑みつつ。