琥珀色の戯言

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【映画感想】スオミの話をしよう ☆☆☆

豪邸に暮らす著名な詩人・寒川の新妻・スオミが行方不明となった。豪邸を訪れた刑事の草野はスオミの元夫で、すぐにでも捜査を開始すべきだと主張するが、寒川は「大ごとにしたくない」と、その提案を拒否する。やがて、スオミを知る男たちが次々と屋敷にやってくる。誰が一番スオミを愛していたのか、誰が一番スオミに愛されていたのか。安否をそっちのけでスオミについて熱く語り合う男たち。しかし、男たちの口から語られるスオミはそれぞれがまったく違う性格の女性で……。


suomi-movie.jp


2024年映画館での鑑賞14作目。
平日のお昼前からの回を鑑賞。観客は30人くらいでした。

期待していたほど、あるいは、三谷映画の全盛期に比べたら集客力はかなり落ちていると思いますが、それでも、公開初週はイオンシネマの最も大きなシアター1で上映されていますし、けっこうお客さんいるなあ、やっぱり、「一般大衆」には根強い人気があるなあ、と感じました。長澤まさみさんをはじめ、豪華キャストも出演していますし。

三谷幸喜さん、5年ぶりの監督作品。映画そのものよりも、三谷さん本人のテレビでのプロモーション活動のほうが話題になっている気もしますが、とりあえず観てきました。
三谷幸喜さんの映画、とくに近作に関しては、ネットでは「どうディスるか」という雰囲気になっている感じで(まあ、ネットでの感想というのは、総じて、そういう「貶して目立とうとする」立場の人が優勢になりがちではありますが)、あまり先入観を抱かずに映画館で、と思っていたのです。

率直な感想としては、「本人不在で、いろんな人からみたひとりの人間の多面性を描く」というスタイルは、もうやり尽くされたというか「古い……」そして、良くも悪くも「三谷幸喜さんらしい」というか「舞台でこれをやったら、観客は終演後スタンディングオベーションで称えたのだろうな」という映画ではありました。

いろんな「スオミ」を長澤まさみさんが演じていて、ストーリー云々ではなく、むしろ、「長澤まさみの演技の幅広さと存在感の大きさと魅力」を観客に見せること、それが唯一にして最大の三谷さんの目的ではないか、と思うのですが、三谷さんが狙っているほど、長澤さんの魅力が伝わってこないのです。

けっこうムリをしているのが伝わってくるコスプレショー(NHKの朝のドラマとかで、ベテラン女優が高校生役とかをやることがありますよね。あんな感じです)、そして、ポリコレ的というか、女性のジェンダーロール(相手の男が望むように振る舞う)への問題意識を描写しているのか、それとも、ネタとして「振り幅」を演じさせているのか、「女性の本性はわからない」という男性目線での感覚を純粋に見せようとしているのか、正直、よくわからない。いや、長澤まさみさんって、魅力的だけど、よくわからないよね、というのを共有するための映画なのだろうか、うーむ。

登場してくる「スオミをめぐる男たち」も、設定が突飛すぎて無理があるし、笑わせようとしているのか、監督としては時代に寄せているつもりなのか、よくわからないのです。
なんかこう、どこかで見た三谷幸喜作品のパッチワークみたい。
以前のように、豪華キャストをこれでもか、と注ぎ込むような群像劇を撮れるような時代でも映画界の状況でもない、ということではあるのでしょうけど、これなら舞台でやれば良いのでは(一部、舞台では難しそうなシーンも存在しますが、ただでさえ節約しているようなのに、あえてそこで予算を使う必要があるのか、かえって謎でした)。

一言で言うと、「古い」。
三谷幸喜監督は、ずっと同じような映画を作り続けているけれど、観客は慣れてしまって「またこのパターンかよ!」「どうせ最後は伏線を回収して『ちょっと良い話』で終わるんだろ」と、前半から予期し、ダレてしまう。

僕は長年、三谷幸喜さん自身によるエッセイや映画撮影についての本も読んできたので、こういう「どの世代の人が見てもわかりやすくて、ちょっと笑えて泣けて考えさせられて、俳優さんたちの見せ場がある作品」が三谷さんの理想であり、撮りたいものなのだろうな、とも思っています。

三谷さんは、理想の作品に、古典として語り継がれているアメリカ映画『スミス都へ行く』を挙げておられるのです。


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長澤まさみさん、という「撮りたい俳優」を得て、三谷さんが「自分にとっての長年の理想の映画」を撮ったら、今の観客にとっては、ひどく時代錯誤な古くさい映画に感じられるものになってしまった。

僕だって、いま『風と共に去りぬ』や『天井桟敷の人々』や『市民ケーン』を観たら、「面白い!」というよりも、「昔はこういう映画が高評価されていたんだなあ」と「学習」しているような気分になってしまいます。

中学生のときに観て、ラストに涙した『風の谷のナウシカ』でさえ、いま観たら「懐かしさと古さ」を感じずにはいられません。そもそも、コンテンツというのは、過去の名作の要素を取り込みながら新しいものが作られていくわけですし。

これまで読んだことがない人でも、いまガルシア=マルケスの『百年の孤独』の文庫を手に取れば、『百年の孤独』は初読でも、これまで触れてきた「『百年の孤独』のマジック・リアリズムに影響を受けた作品」の何かを思い出さずにはいられないはず。

三谷さんは、自分の中の「金字塔」というか「普遍的な名作」を形にしようとして、それは、ある程度実現されたのでしょう。
しかしながら、観客はもう『スミス都へ行く』では、冗長すぎて満足できない。
YouTubeNetflixも、倍速で観る人が増えている時代です。

舞台であれば、生身の人間どうしの緊張感があるけれど、映画では、上演中に役者がセリフを間違うこともないし、アドリブもない。

長澤まさみさんの魅力を十分に描けているか、と言われたら、そうでもない気がするのです。面白い映画ではないが、長澤さんが主演だから「入場料返せ!」とまでは思わずに済む、というレベル。

でも、日頃映画を見ない人が、「とりあえず映画館で2時間、久しぶりにアニメじゃない『映画』を観た!」というきっかけになるだろうし、そういう観客にとっては「映画(邦画)を観るという行為そのものに満足できる」のかもしれません。

みんながそんなに映画館で尖った映画、『デッドプール&ウルヴァリン』のような現代的で露悪的なメタバース映画を観たいわけじゃない。
前衛的で豪華・高価な料理店よりも、いつもの定食屋のほうが、居心地はいい。

僕もそれなりに歳を重ねてしまったので、同じように歳をとってきた三谷さんが、「古い」と言われることを承知の上で、あえて「すごくクラシカルな、昔の名画のような作品をいま、劇場公開した」気持ちと狙いは、想像できるのです(当たっているかはわからないけど)。
逆に「三谷幸喜だからこそ、多くの人に届く形で、こういう映画を大規模に公開することが許される」のです。

主観的には、長澤まさみさんに特に思い入れがないこともあり、「今回もいつもの三谷映画だったなあ、それも、近作はどんどん熱量が落ちてきているのがわかるというか、映画を撮り続けるために撮る、って感じだな」というのが率直な感想です。
ギャラクシー街道』『記憶にございません!』よりはマシですが、三谷幸喜ファン、長澤まさみさん大好き、出ていれば幸せ、という人以外には「ネット配信待ち」かな。倍速で観たくなりそう。

三谷さんは劇場公開される映画へのこだわりが強い人だとは思うけれど、NetflixとかAmazon Primeとかで、お金をしっかり使った豪華キャストの連続ドラマを作ってみてほしい。
今の日本で、そういう「オールスター作品」を作れるネームバリューとノウハウを持っているのは、なんのかんの言っても、三谷幸喜のストロングポイントなのだから。


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