琥珀色の戯言

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【映画感想】ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ ☆☆☆☆

ストーリー
理不尽な世の中の代弁者として、時代の寵児となったジョーカー(ホアキン・フェニックス)。彼の前に突然現れた謎の女リー(レディー・ガガ)とともに、狂乱が世界へ伝播していく。孤独で心優しかった男の暴走の行方とは?誰もが一夜にして祭り上げられるこの世界――彼は悪のカリスマなのか、ただの人間なのか?衝撃のラストに備えよ。

2024年映画館での鑑賞15作目。
休日の夕方からの回を鑑賞。観客は20人くらいでした。

wwws.warnerbros.co.jp


前作『ジョーカー』は、ホアキン・ファニックスさんの壮絶な演技もあって、「伝説的な作品」となりました。

この映画に影響された人々が反社会的な騒動を起こすのでは、と不安視もされ、それがまた人々の興味を煽り、作品の評価も高く、興行成績も良かったのです。


僕も観て、なんだかうまく感想を書けなかったのを思い出します。
fujipon.hatenadiary.com


今回、待望の続編、『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』が公開されました。

タイトルの「フォリ・ア・ドゥ(Folie à deux)」は、フランス語で「2人狂い」という意味で、ひとりの妄想がもうひとりに感染し、2人ないし複数人で妄想を共有することがある感応精神病のこと。

だそうです(『映画.com』より)

eiga.com


ところが、前作の高評価、高収益に比べて、この続編に関しては、厳しい声がネットでは目立っていました。
なんかミュージカル映画になっている、とか、期待していた続編と全然違う、とか。
興行的にも、ヨーロッパではまずまず健闘しているものの、アメリカでは期待はずれ、2週目以降も数字を落としているそうです。

ホアキン・フェニックスさんは続投しているのに、なんでこんなに評判が芳しくないのだろう、そもそも、『ジョーカー』のミュージカルって、どんな風になるのか?

期待半分、不安半分。
特にコロナ禍以降、観客の期待に応える、後味の良い娯楽映画を観る機会が増えて(大規模に公開される作品は「わかりやすい」ものが多くなったとも思います)、久々に「これはひどい」と呆れるような映画を観ることができるのでは、という暗い期待もありつつ近所のシネコンに行ったのです。
確かに、最初の週末から上映回数減ってるな……


今回は極力ネタバレなしで感想を書きますが、確かに「期待していた続編じゃなかった」のは間違いありません。
あの第1作から、映画『バットマン』への流れだと、今作では「いかにして、ジョーカーは、『無敵の人たちのヒーロー』として、悪のカリスマになっていったのか」が描かれているのだろうと思っていたのです。

ところが、見せられたのは、「何を考えているのかよくわからない、共感も感情移入もできない人たちが、一貫性のない支離滅裂な行動をやり続ける話」で、いつ「物語」がはじまるのか、と思ったら、エンドロールがはじまっていた、そんな作品でした。

うーむ、レディ・ガガ、要らなくね?
こういう脚本があって、レディ・ガガをキャスティングしたのか、まずレディ・ガガの出演ありきで、見せ場を作るために、こんな映画になってしまったのか?

レディ・ガガさんは、別に演技が下手とか、そういうんじゃなくて、もちろん歌は上手いし、リーという役に説得力を持たせられたのは、彼女が演じたからではあると思います。

ホアキン・フェニックスさんは冒頭のシーンの痩せ細った肉体だけで、すごい説得力を見せてくれます。思い返してみると、アーサーがマーレーを撃ったシーンというのは、いまの名優ホアキン・フェニックスが、伝説の名優ロバート・デ・ニーロを撃ったわけで、すごく象徴的なシーンではありましたね。

登場人物が、やたらとタバコを吸いまくるのもすごく印象に残りました。
最近は映画で成人のキャラクターでさえタバコを吸うシーンもそんなに見かけなくなったのですが、非喫煙者の僕がみても、この映画の登場人物たちは、実に旨そうにタバコを吸うんですよね。
ゴッサム・シティって、拘置所でこんなにタバコ吸い放題なの?と疑問になったのですが、精神的な疾患を抱える人たちの病院機能がある拘置所に判決が出るまで収監されているみたいです。とはいえ、病院でこんなにタバコにフリーダムなのも、それはそれですごい。

正直なところ、この映画に関しては、突然はじまる歌のシーンや、登場人物の心の動き、行動の変容など、終始「なぜそうなるのか、よくわからなかった」のです。
これは全部妄想なのではないか、と感じたのは前作も同様なのですが、前作は、主人公・アーサーの追い詰められていく過程や自分が置かれた環境への怒りが積み重なっていくのが僕にもある程度納得できたんですよ。
同じ立場になったら、自分も「撃つ」かもしれない。あるいは、こういう人たちを自分は無意識に踏みつけてきて、いつか復讐されるのかもしれない、と。

ところが、この『フォリ・ア・ドゥ』には、ひたすら困惑させられるばかりでした。
いくらなんでも、こんなことできないだろ、妄想なんじゃない? 
「炎上ビジネス」が当然の選択肢になってしまった世の中だとしても、このアーサーでは、みんなついてこないんじゃない?

そもそも、人を殺す、というのは「普通の精神状態」でやることではないし、そこに「責任能力の有無」を問うことに意味はあるのか。
責任能力がない」「多重人格だから」無罪、あるいは減刑、なんていうのは本当に「正しい」のか?


まあでも、世の中って、理不尽なものではありますよね。
自分は誰からも相手にされない、何も持っていない、という男が、ひどい犯罪をやったら、「あなたを理解したい」といういう女性から手紙が来て「獄中結婚」とかしてしまう。
僕なんか、こんなに不満たらたらで、理不尽に思えるクレームを浴びまくりながら、なんとか仕事をして「普通の範疇の人間」のフリをして暮らしているのに、モテないし、誰にも認めてもらえない。
6人殺したら英雄なのに、夜中の緊急呼び出しに寝過ごしたり、ひどいブックマークコメントに反撃したら「人非人」なのか?
実際は、僕のような「なんとか普通の範疇の端っこにぶら下がろうとしている人たち」もまたストレスを感じまくっていて、それがトランプ大統領を生んだり、各国で極右政権を誕生させたりしているのも事実なのですが。

自分がジョーカーに殺されるかもしれない、というリスクよりも、自分が気に入らない有名人や権力者を、ジョーカーが「成敗」してくれる「面白いショー」が続けられることを望む人は少なくないのです。
アーサー(ジョーカー)は、人々の心を操ったのか、それとも、人々がジョーカーを作り出し、使い捨てにしたのか。

「炎上商法」すら時代遅れというか、燃えているあいだだけみんなが話題にし、祭り上げて、旬が終わったら、良くて大バッシング、多くは無視。
「ガーシー」が、いま、何やってるかなんて、みんな知らないよね。国会議員にまでなったのに。

「将来、誰でも15分間は世界的な有名人になれるだろう」
アンディ・ウォーホルの予言を思い出します。


人間なんて、自分自身でも、自分が何を考えているのかわからないんだよ、という話なのか、観客の無責任さを糾弾しているのか、もはや、現実とフィクションとエンターテインメントの境界はなくなった、あるいは、現実こそが最大のエンターテインメントになったのが現代社会なのだ、ということなのか。


インターネット社会と「無敵の人」の闇の物語を見にいったつもりが、アメリカン・ニューシネマっぽい、こちらが考えすぎてしまう映画を久々に観ました。
この映画がアメリカでの興行成績がいまひとつで、ヨーロッパではけっこうヒットしているっていうのもわかるような気がします。
こういう「曖昧さ」「答えを出さない作品」は、ヌーヴェルヴァーグっぽさもありますし。

観終えて、僕は『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Airまごころを、君に』を思い出してもいたのです。
あの映画のなかで、『エヴァ』というコンテンツに群がり、消費する人々が実写で出てきたシーンがありました。
もしかしたら、この『フォリ・ア・ドゥ』は、前作『ジョーカー』で社会的、あるいはそれぞれの人々に「影響」を与えてしまったことへの、制作側からの「落とし前」であり、「そろそろ現実に戻ったほうがいいよ」という冷水だったのかもしれません。

あと、「◯谷◯◯さん……」と、ちょっと思いました。


率直にいうと、「なんじゃこりゃ」なんですが、「なんか久々にわけがわからない映画を観たな」と、ニヤニヤしながらシアターを出てきました。
今の時代に、こんな映画をつくったのは、けっこうすごい挑戦だし、観ないで「つまらないみたい」というよりは、どうつまらないのか、興味を持った人には、ぜひ観て実感してほしいのです。
このつまらなさは、今の時代の映画では、貴重だよ。


fujipon.hatenablog.com
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