お知らせ:『Dybe!』さまに寄稿させていただきました。
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以下が今回のエントリです。
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内容紹介
神の啓示の言葉を集めたコーランによれば、異教徒は抹殺すべき対象である。彼らを奴隷化することも間違っていない。ジハードは最高の倫理的振る舞いである。その意味で、カリフ制を宣言し、シャリア(イスラム法)によって統治し、ジハードに邁進する「イスラム国」は、イスラム教の論理で見れば「正しい」のだ──。気鋭のイスラム思想研究者が、コーランを典拠に西側の倫理とはかけ離れた「イスラム教の本当の姿」を描き出す。
「イスラム国」は、2017年にイラクのモスルとシリアのラッカという二大拠点を失い、その勢力は弱体化していると伝えられています。
まあ、「世界」が本腰を入れれば、こうなるよな、と僕は思ったのですが、著者は「イスラム国」という地域が失われても、「イスラム国」が主張していたイスラム教の理想が全世界のイスラム教徒をひきつけつづけることには変わりはない、と述べています。
イスラム教徒にとっては国境も国民国家も民主主義もグローバル化も、所詮は「人間の産物」にすぎません。しかしイスラム教はそうではありません。イスラム教徒にとってのイスラム教は、神が人間に恩恵として与えたものです。神の恩恵であるイスラム教が、人間の産物である民主主義に優越するのは、彼らにとっては「当然のこと」です。私たち人間には「確かな真実」がわからないのに対し、神は全知全能だからです。私たちは未来の世界について想像することしかできません。しかしイスラム教徒にとっては、いつか神の法が世界を統治する日が必ずやってくるというのが確定された未来です。なぜなら彼らは、全知全能の神が世界をそのように創造したと信じているからです。
世界には様々な価値観を持つ人がいます。その中には私たちにとって好ましく、憧れの対象となるような人々もいれば、全く関わりたくないような人々もいます。私たちは一般に、それを「多様性」という言葉で肯定的に受け入れます。しかし世界にはこの「多様性」を否定的に捉え、世界はひとつの価値観に収斂されなければならないと考える人々もいます。イスラム教という宗教は後者に属します。イスラム教徒ではない人にとってあまり嬉しいことではありませんが、それが事実です。イスラム教徒は従来の国家や地域の枠組みを越えた地球規模の拡大を目指すという意味では確かにグローバル化を志向しますが、それは私たちの考えるグローバル化とは全く異なるものなのです。
私はイスラム法の文献読解とフィールドワークを通して、イスラム教徒自身がイスラム教をどのように認識し論じてきたかについて研究してきました。本書はそれらを踏まえた上で、現代のイスラム教徒にとって世界はどのように見えているか、そしてそれは私たちの世界認識とどのように異なっているかと、具体的な事例から解き明かす試みです。
僕はけっこうイスラム教やキリスト教に関する本を読んだり、日本で生活しているイスラム教徒、あるいは、中東のイスラム教徒のなかで生活している日本人が書いたものに触れたりしてきました。
それらのなかでは、「イスラム教は基本的に平和な宗教であり、異教徒に対しても(とくにキリスト教やユダヤ教については)比較的寛容で、自爆テロを起こすような人々は、過激な狂信者なのだ」と言われていることが多いんですよね。
しかしながら、イスラム教徒が多い国では、「イスラム原理主義者」たちが支持されて政権を握ったり、アンケートでアルカイダのテロを支持する人のほうが多数派だったりしているのも事実です。
2017年6月、オーストリアのイスラム教指導者たちがイスラム過激派テロに抗議する「反テロ宣言」に書名し、「イスラム教は平和の宗教であり、イスラム過激派やそのテロ活動はイスラム教の教えとはまったく一致しない」と高らかに宣言しました。ヨーロッパのイスラム教指導者たちがこうした宣言を行うのは、初めてのことです。
この宣言は冒頭で、「人を殺した者、地上で悪を働いたという理由もなく人を殺す者は、全人類を殺したのと同じである」というコーラン第5章32節を引用し、「イスラム国」は「我々の平和的宗教であるイスラム教を自身の政治的目的を達成するために悪用している」と非難しました。
しかしこの宣言にあるように、本当に「イスラム国」を初めとするイスラム過激派はイスラム教に反しているのでしょうか。
「イスラム国」の指導者バクダーディーは、2014年7月カリフとして初めて行ったモスルの大モスクでの説教において次のように述べています。
「神は我々に神の敵と戦うよう、神の道においてジハード(聖戦)をするよう命じられた。それは宗教(イスラム教)を成就させるためである。至高なるお方(神)はこうおっしゃった。『あなたがたには戦いが定められた。だがあなたがたは戦いを嫌う(コーラン第2章216節)』。至高なるお方はこうもおっしゃった。『騒乱がなくなるまで戦え。そして宗教すべてが神のものとなるまで(戦え)(コーラン第8章39節)』」
結論からいうと、この説教内容はイスラム教の教えに反してなどいません。なぜならこの説教が典拠としているのは「神の言葉」とされるコーランであり、コーランの章句に立脚していればそこから導かれる複数の解釈はすべて等しい価値をもつ、というのがイスラム教の教義だからです。どの解釈が最も正しいのか、あるいは間違っているのかを判断、決定する権威者や機関はこの世には存在しません。人間には本当のことはわからず真実は神だかがご存知、というのがイスラム教の大原則であり、解釈が複数存在する場合にどの解釈を採用するかは個人の選択に委ねられています。
つまり共にコーランに依拠してはいても相反する主張をしている「反テロ宣言」とバクダーディーの説教との勝負は、イスラム教の論理では引き分けとなるのです。「反テロ宣言」で引用されているコーラン章句が否定のできない「神の言葉」であるように、バグダーディーの説教で引用されているそれも「神の言葉」なのです。
しかし一方で私たちは「反テロ宣言」には納得し同意できるものの、バグダーディーの説教には納得も同意もできません。なぜなら前者は私たちの常識に近いため理解可能であり、後者はそれとは隔絶しているため理解不可能であるわけです。私たちはイスラム教の教義や論理について全く知らないにもかかわらず、私たちの価値観に反しない理解可能なイスラム教徒だけが「正しい」イスラム教だと決めつける傾向にあります。
これは、確かにその通りだと思うのです。
イスラム教が生まれた時代背景やムハンマドがそれを広めていった過程を考えると、けっして「平和最優先で他者を傷つけることを許さない宗教」ではないんですよね。
それが良いとか悪いとかいうのは、それぞれの価値観であり、「こちら側」の都合にしかすぎない。
非イスラム世界からみて「わかる」あるいは、「自分たちに火の粉が降ってこない」穏健なイスラム教徒が正しいと思ってしまいがちなのだけれど、彼らにとっては、神は絶対であるがゆえに、「神の言葉に対するそれぞれの解釈の正誤を判断することは、人間にはできない」のです。
西欧社会基準の「正しさ」で、イスラム教徒が「仕分け」されていること自体に、憤りを感じている人も少なくないようです。
もっとも、キリスト教にも多くの「原理主義者」と呼ばれる人たちがいて、進化論を否定したり、子供を学校に行かせなかったりしているんですよね。
斬首や鞭打ちのような「残酷な」刑罰や男女の不平等は、西欧文明化された社会に生きている僕のような人間には、野蛮で間違っているように思えるのだけれど、彼らのなかには、「神の言葉に従っているだけ」と考えている人も多いのです。
だからといって、こちら側も、「じゃあ、イスラムの伝統にのっとって、男女差別も奴隷制度も『あり』でいいよ」というわけにはいかない。
イスラム教徒の側も、圧倒的な軍事力・経済力を擁している西欧キリスト教社会を敵に回して徹底的に戦う、というのは非現実的だと考えている人が多いだけで、過激派が「間違っている」と見なしているわけではありません。
「他者の価値観を押しつけられる」というのは、それだけで、かなり大きなストレスになります。
私たちは、イスラム教徒が1日5回礼拝をすることを妨げようとはしません。日本でも在日イスラム教徒や観光客の便宜のために、空港や商業施設に礼拝用の部屋を設置するところが増えてきました。しかし私たちは、ジハードの義務を遂行すべく武器をとって異教徒を攻撃する人のことはテロリストだとして糾弾します。礼拝もジハードも同じようにコーランで規定された義務なので、イスラム教の理屈においては等しく正しいのですが、私たちは私たちの理屈に基づきジハードだけを非難します。
「ジハードだかなんだか知らないがテロは許さない」といったり、「過激な解釈をするイスラム教徒とは一緒に暮らせない」といったりするのは、私たちの自由です。私たちには私たちの論理があり、その論理に従った持論を唱える権利もその論理で保証されています。しかし「ジハードはイスラム教の教義ではない」といったり、「過激な解釈をするイスラム教徒はそもそもイスラム教徒ではない」といったりすることは、明らかに越権行為です。イスラム教の教義の何たるかを議論すべきはイスラム教徒自身であり、特定のイスラム教徒に「お前はイスラム教徒失格である」などと宣言することはまさに「イスラム国」がやっていることそのものです。
私はイスラム教の研究者で、イスラム教について大学で教えたり、メディアで解説したり、ものを書いたりするのが仕事ですが、それらを続ける中ではっきりとわかったことがひとつあります。それは、日本人のイスラム教に対するアレルギーは非常に強い、ということです。日本人の中にはイスラム教について単に知らないとか関心がないというよりは、それについては知りたくない、積極的に遠ざけたいという反応を示す人が少なくありません。
その理由のひとつは、イスラム教が日本人の考える宗教の枠組みの外にあるように感じるからかもしれません。日本人は概ね、宗教というのは個人の心の内面に関与し世界平和に貢献するものだと考える傾向にあります。しかしもし、宗教というのは個人の心の内面「だけ」に関与し世界の平和「だけ」に貢献するものだと規定してしまうと、個人の行動に関与し世界を戦いへと駆り立てるような宗教は「宗教ではない」ことになります。
イスラム教はまさしく信者の行動を規定し、イスラム教による世界征服を目的とする宗教ですから、日本人的感覚で見ると「そんなものは宗教とはいえない」「そんな宗教は不要である」、といったリアクションが直ちにひきおこされます。日本の中東イスラム研究者や日本人イスラム教徒らが「イスラム教は平和の宗教」と連呼する理由のひとつは、そう宣伝しないと日本人にはイスラム教が理解できないし、受け入れられないと考えているからです。しかしいくら日本人感覚にあわせてイスラム教をわかりやすいかたちに「改竄」しようとしても、イスラム教の真理は変わりません。
実際のところ、イスラム教の「原理原則」としては、著者が述べていることが正しいのだと思います。
その一方で、イスラム教そのものも、誕生してから長い時間が経っているし、西欧文化の影響を強く受けてきている今のイスラム教徒たちは、「自分たちも人生をそれなりにうまく生きていくためには、妥協して共存していったほうがいい」と考える人が増えているとは思うんですよ、やっぱり。
だからこそ、「本物のイスラム法に則った社会」を求めて、イスラム国に憧れる若者たちも出てきているわけですが。
論理は論理として、「じゃあ、自爆テロをやるのも仕方がないね」とは言えないわけで、結局のところ、お互いの「正しさ」に、いかにして折り合いをつけるか、あるいは、棲み分けをするか、という話になってくるのかな、とも思うんですよ、現実的には。
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