琥珀色の戯言

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【読書感想】ビスマルク - ドイツ帝国を築いた政治外交術 ☆☆☆☆



Kindle版もあります。

内容(「BOOK」データベースより)
一九世紀ヨーロッパを代表する政治家、ビスマルクの業績は華々しい。一八七一年のドイツ帝国創建、三度にわたるドイツ統一戦争での勝利、欧州に同盟システムを構築した外交手腕、普通選挙社会保険制度の導入―。しかし彼の評価は「英霊」から「ヒトラーの先駆者」まで揺れ動いてきた。「鉄血宰相」「誠実なる仲買人」「白色革命家」など数多の異名に彩られるドイツ帝国宰相、その等身大の姿と政治外交術の真髄に迫る。


「鉄血宰相」ビスマルクは、1815年生まれのドイツ(プロイセン)の大政治家です。
 今年、2015年は、ちょうど生誕200年にあたるんですね。

 
ドイツ帝国を成立させた」という偉業や「鉄血」のイメージもあり、僕がイメージするビスマルクは、マッチョで独裁的な人物でした。
 一度決めたことは絶対に曲げない、頑固な信念の人。

 
 この本は、長年ビスマルクの研究をしてきた著者によるものなのですが、ビスマルクという人物・政治家への評価というのは、ドイツ史、あるいは世界史のなかで、かなりの変動があったそうです。

 ビスマルクの父フェルディナントは単純で朴訥とした、人のよい性格をした人物で、祖先の例に倣って騎兵将校を努めた後は農場経営に勤しむ、一介の平貴族・田舎ユンカーといったところであった。


(中略)


 彼の母親ヴィルヘルミーネは、代々学者を輩出するメンケン家の出身であり、彼女の父親プロイセン王フリードリヒ大王に仕え、その後二代の王の官房顧問官を務めるなど、プロイセン王室であるホーエンツォレルン家やベルリンの知識人サークルに対してそれなりに影響力を有する人物であった。ベルリンの知的・文化的な環境のなかにあって「官僚の世界」で育った彼女は、先のビスマルクの書簡に見られるように、知的で聡明ではあったものの、神経質で虚栄心が強く、家庭的な女性とはいえなかった。
 つまり、ビスマルクは極めて対照的な両親の下に生まれたことになる。ドイツの歴史家L・ガルの表現を借りるならば、彼の生い立ちは、父親が体現する「伝統的・貴族的・農村的」な世界と、母親が体現する「市民的・官僚的・都市的」な世界の狭間に置かれ、その苦悩から両親に対して屈折した感情を抱き、どこか素直になれず内面的に疎遠になってしまうのである。


 ビスマルクは地方の地主貴族(ユンカー)出身で、行政官を目指したものの、紆余曲折があって挫折し、一度は実家の農場経営を継いでいます。
 でも、田舎にいると、それはそれでなんだかおさまりが悪くて、今度は政治家を目指して議員となります。
 父親に「共感」しているつもりだったのに、父親と同じことを繰り返すことには耐えられなかったのです。
 政界入りした時点でのビスマルクの立ち位置というのは、保守的な王権重視派だったんですよね。
 時代の趨勢としては、自由主義者たちが幅をきかせつつある中で、貴重な「保守政治家」として信頼をかちえていったのです。


 後世からみれば「大きな成功を収めた」ビスマルクなのですが、著者は、その政治人生が良く言えば「臨機応変」、悪く言えば「場当たり的」だったことを紹介していくのです。
 いまの日本に生きている僕は、これを読んで、ビスマルクって、中曽根康弘元総理っぽいタイプだったのかな、と感じました。
 中曽根さんも首相在任中は「風見鶏」とか「田中角栄さんに頭が上がらない」なんて言われていましたが、後世からの評価は「大物保守政治家」なんですよ。
 ある人物の「歴史的評価」というのは、必ずしも、リアルタイムの印象とは一致しないのです。
 アメリカのレーガン大統領も、在任中は「元ハリウッド俳優の強気なオッサン」だったのに、今は「アメリカが良かった時代の象徴」みたいな扱いになっていますし。


 ちょっと脱線してしまいましたが、ビスマルクの有名な「鉄血演説」について、著者はこんな話を紹介しています。
 この「鉄血演説」は1862年9月30日に下院予算委員会で行われたものです。

(前略)


 ウィーンの諸条約によって定められたプロイセンの国境は、健全な国家の営みにとって望ましいものではありません。現下の大問題が決せられるのは、演説や多数決によってではなく――これこそが1848年と1849年の大きな誤りでした――鉄と血によってなのであります。


「鉄と血によって」――すなわち軍事力でもって(普(プロイセン)墺(オーストリア)両国を取り巻く)ドイツ問題という「現下の大問題」と解決しようと主張したのである。当該箇所を見ればわかるように、彼は決して「鉄と血によって」軍制改革、さらには予算の問題を解決するとしたわけではない。このときの主眼は、予算案の否決を何とか阻止することにあり、自由主義派に対して妥協する用意がある意思を示すことにあった。そのために、わざわざアヴィニョンから持ち帰った(平和のシンボルである)オリーブの枝を示すという芸当すらやってみせたのであった。そして、自由主義派が強く解決を望んでいるドイツ問題をあえて引合いに出すことで、こうした「現下の大問題」を前に軍制改革や予算といった問題では妥協できるはずだと主張したかったのである。
 だが、事態はビスマルクの思惑とは正反対の方向に進んだ。「鉄と血によって」――この明快な表現とその響きは、「演説や多数決」への蔑視と相俟って、彼らに暴力的な支配を連想させるには十分なものがあった。下院の自由主義派はこの演説に敏感に反応し、激しく反発し、新聞等を通じて広く世に知らしめ、世論を騒がせたのである。ビスマルクの周囲の保守的な人間ですらこの演説には鼻白むほどであった。


 現代人にとっては、良くも悪くも「歴史に残る演説」となった「鉄血」なのですが、当時は「問題発言」とみなされ、ビスマルクは大バッシングを受け、「炎上」してしまったのです。
 そうか、1862年のプロイセンの人々のとっても、「そんなマッチョな考え方には、ついていけない」と思われていたのだなあ。
 もっとも、著者が述べているように、ビスマルクは、「鉄血」を強調したかったというよりは、「血と鉄で解決しなければならない諸外国との問題があるのだから、軍制改革や予算案で内輪喧嘩している暇なんて無いですよ」という議会対策的な「比較の対象」として「鉄と血」をもちだしてきただけ、だったようです。
 ところが、言葉のインパクトから「鉄血」に注目が集ってしまい、ビスマルク自身も、「鉄血宰相」として、歴史に名を遺すことになったのですから、不思議なものですね。


 普仏戦争でフランスのナポレオン3世を破り、ドイツ帝国を成立させたビスマルクなのですが、当時のドイツはフランス、ロシア、オーストリア、イギリスなどの国に囲まれていました(それは「当時」に限らない話ではあるのですが)。
 そのなかで、ビスマルクは宿敵であるフランスを孤立させ、極力ドイツが戦争をしなくても済むように、状況をコントロールしていきました。
 ただし、その時代の国際情勢は刻々と変化していったため、ビスマルクは「急場しのぎ」で、各国への接し方を変えていきました。

 こうした「急場しのぎ」の対応の結果、ヨーロッパには「ビスマルク体制」と称される国際秩序が姿を現した。それは、フランスを外交的に孤立させた、ドイツを中心とした同盟網であった。だが同時にそれは、ドイツの安全保障を確保するために同盟や協定が複雑に入り組んだ同盟システムであり、フランスを孤立させた点を除けば、ビスマルクが当初想定していたイメージとは大きくかけ離れたものであった。以前、ドイツの歴史家W・ヴィンデルバントがこの同盟システムを最初から一貫した統一的なシステムと評価したことがあったが、これに異論を唱える歴史家は数多く、今日ではすでに見てきたように、二度の三帝協定崩壊という事態に急ごしらえで対処した「急場しのぎシステム」としてビスマルクの同盟システムを評価するのが一般的である。


 ビスマルクの業績は、内政よりも外交のほうが大きかった、と多くの研究者は考えているようなのですが、その外交も「予定通り」だったわけではないのです。
 あまたの想定外の事態をビスマルクは「急場しのぎ」で、なんとか切り抜けていました。
 「鉄血宰相」は、「臨機応変(悪くいえば「急場しのぎ」)」の天才でした。

 確かに、ビスマルクは「鉄血演説」に即していくかのように三度の戦争を主導した。だが、彼は最初から戦争を志向していたわけではなく、情勢の変化を巧みに利用して自身とプロイセンを取り巻く困難な状況を打開する一つの選択肢として戦争が続いたにすぎない。統一戦争期も含め、彼の一連の外交政策を丁寧に見ていけば、彼のことを武断的であったと結論付けることは到底できない。それに彼の内政外交のどれ一つとってみても、彼が当初思い描いたとおりに実現できてはいない。


 それでも著者は、ビスマルクを「19世紀最大のドイツの政治家」だと考えているのです。
 議会や新聞のような近代的な手段をうまく利用して政治をすすめていったことや、「状況の変化に敏感に反応して対処できる政治的反射神経のよさ」を称賛しています。
「急場しのぎが上手い」のは、政治家にとっては、大きな武器になります。
 政治家の力が求められるのは「急場」が多いのですから。


 本当はマッチョではなかった、「鉄血宰相」。
 政治っていうのは、一筋縄ではいかないものなのだなあ、とあらためて感じます。

 

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