琥珀色の戯言

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【読書感想】ヴィルヘルム2世 - ドイツ帝国と命運を共にした「国民皇帝」 ☆☆☆☆

内容(「BOOK」データベースより)
1888年にドイツ皇帝として即位したヴィルヘルム2世(1859~1941)。統一の英雄「鉄血宰相」ビスマルクを罷免し、自ら国を率いた皇帝は、海軍力を増強し英仏露と対立、第一次世界大戦勃発の主要因をつくった。1918年、敗戦とともにドイツ革命が起きるとオランダへ亡命、その地で没する。統一国民国家の草創期、ふたつの世界大戦という激動の時代とともに歩んだ、最後のドイツ皇帝の実像。


 「最後のドイツ皇帝」ヴィルヘルム2世とは、どんな人物であり、どんな皇帝だったのか?
 なぜ、第一次世界大戦は起こったのか?

 実際、ヴィルヘルム2世は人間としてきわめて興味深い。彼には固定的なイメージがある。何よりもあの髭である。威厳を自己主張するかのごとく、ピンと両端を撥ねあげた髭は、彼の異名「カイゼル」(ドイツ語で「皇帝」を意味する名詞だが、しばしば固有名詞扱いされてヴィルヘルム2世を指した)にちなんで「カイゼル髭」と称された。そこから彼の人物像を連想する向きは多い。すなわち、封建的権威を振りかざし、尚武的な男性像を奉じ、ドイツ至上主義に凝り固まった排外主義者、という像である。
 しかし実は、こうしたイメージは彼の一面をなすにすぎない。実際のヴィルヘルム2世は、はるかに多面的で矛盾に満ちた人物であった。詳しくは本書の以下の論述に譲るが、彼の実像が固定的なイメージとあまりに食い違っていることに、唖然とする読者は少なくないはずである。


 僕はあの「カイゼル髭」のイメージもあって、ヴィルヘルム2世というのは、謹厳でマッチョな、いかにも「専制君主的な人」だと思っていたのです。そんなにこの皇帝に詳しいわけではなかったのだけれど。
 ヴィルヘルム2世は、イギリス王室から嫁いできた立憲君主的な価値観を持つ母親と、その母親に影響された父親とソリが合わなかったそうです。
 その一方で、謹厳で融通がきかない、古いタイプの「皇帝」である祖父には「見込みがあるヤツ」として可愛がられ、期待されていたのです。
 しかしながら、後年、ヴィルヘルム2世は、「自分のルーツは母方の実家のイギリスにある」とも述べています。
 どっちなんだよ!という感じなのですが、この本を読む読者は、何度もヴィルヘルム2世に、「どっちなんだよ!」と呟くことになるでしょう。
 能力に自信があり、自己顕示欲が強いのだけれど、いざ決断を迫られると、優柔不断になり、そこから逃げ出してしまう。
 良くも悪くも「人間らしい」のだよなあ。
 平和な時代に生まれていれば、頼りないけれど、大過なく任期をつとめた皇帝になれたような気もします。


 尊大な態度と奇矯な行動が目立ったヴィルヘルム2世なのですが、その個性は、ドイツ(第二帝政)国民にとっては、ひとつの象徴ではあったのです。

 忘れてはならないのが、映画と写真である。ヴィルヘルム2世は——ここでも封建的、尚武的な彼の通念的イメージと食い違うのだが——これら当時のハイテク・メディアに強い関心を抱き、また実際おおいに活用した。国家行事では、会場の一隅にカメラを据えさせたし、またしばしば自らも被写体になった。こうして、治世を通じて制作された彼の映像の数は何と320点にものぼるそうである。というわけで、ある研究者はヴィルヘルムをさして「世界最初の映画スターの一人」と評したが、あながち的外れではない。
 もっとも、写真はそれよりはるかに多く、12000枚を彼は所有していた。大部分は軍服姿でポーズをとる彼を写したものだが、旅行、外国訪問、軍事演習の場での横顔を捉えたものも少なくない。彼は出先にお抱えの写真師を同行させたからである。こうした写真のなかには一般販売に回されたものも多い。
 おかげで今日、われわれはヴィルヘルム2世のいろいろな横顔に接することができるのだが、それ以上に重要なのは帝国のプロパガンダ手段としての意義である。皇帝としての彼を映し出すこれらメディアは、国民との接点を増やし、距離を縮めるうえできわめて効果的であった。当時のドイツでは、これらのメディアを使った大衆娯楽が生まれつつあったからである。

 第二帝政期の間に、ドイツは国家連合から統一国民国家へと変貌していくことについては前にふれた。その過程でヴィルヘルム2世が果たした割合は、彼が国家の首長であっただけに、決して小さくはなかった。
 この関連で思い起こされるのは、ヴィルヘルムには「艦隊皇帝」「旅行皇帝」など、メディアが奉った渾名が少なくないことである。これらは、往々にして否定的、批判的な意味合いでつけられたものではある。だが、そうであっても、渾名がつくこと自体、彼の存在が大衆の関心の的であったことを示している。さらに言えば、いずれにも「皇帝」がついているのは、帝位の存在感を高めたいとする彼のもくろみが当たったことを示しているようである。


 なんのかんの言っても、注目される人ではあったし、この「皇帝」の存在が、ドイツ国民にとっての共通の話題になったことは間違いないようです。


 実務では、ヴィルヘルム2世がやる気になって、自分に都合のよい空想の産物のような政策を立案したり、他国に対する態度をコロコロ変えたり、メディアに不用意な発言をしたりすればするほど、周りの政治家や官僚、軍人たちは困ってしまう、という状況だったみたいです。
 ちょっと前に『上司は思いつきでものを言う』という本がベストセラーになりましたが、ヴィルヘルム2世も思いつきでものを言う人でした。その迷惑度は「上司」の比ではありません。
 

 ヨット旅行といい、海軍といい、ヴィルヘルムは海に強い愛着を示した。ところがその彼が、実はすぐに船酔いする質だったのは皮肉である。

 こういう、ちょっと笑ってしまうような「噛み合わなさ」が、ヴィルヘルム2世という皇帝にはあったのです。

 第一次世界大戦が終わった後、ヴィルヘルム2世は大戦勃発の張本人と目された。イギリスでは戦後すぐに総選挙が行われた際に、「カイゼルを縛り首に!」というスローガンが選挙公約に謳われた。次章で述べるように、連合国側では、廃帝となったヴィルヘルムを戦争犯罪人として訴追しようという動きもあった。
 しかし以上見てきたように、大戦にいたる過程を通してヴィルヘルムは武力解決に消極的であった。開戦前夜には実際、戦争を回避したいと、ロシアやイギリスに対して工作にも動いた。歴史家のなかには、ヴィルヘルムは当時のドイツ政府内で大戦に反対した例外的な一人だったという意見すらある。そこまで言えるかどうかはともかく、ヴィルヘルムが少なくとも開戦の「主犯」でなかったのはまちがいなかろう。
 さらにそれ以前からも、ヴィルヘルムは対外政策では武断主義にはあまり与しなかった。政府や外務省が他国を挑発するような外交攻勢を敢行したときも、彼が穏便な方途を唱えることが少なくなかった。たしかに、それは確たる信念というより、むしろ彼の性格の弱さのゆえであった。そしてまさしくそれゆえに、周囲の反対を押しきって自己の穏便論を押し通すだけの意志力は、ヴィルヘルムには欠けていた。
 だからといって、ドイツの外交の失敗や、ひいては世界大戦という未曾有の事件について、彼が大きな責めを免れるというものではない。日々の政策決定の現場から外されたとはいえ、君主としての彼は依然として人事権を握っていた。それによって、彼の意向は間接的にドイツの外政に影響したといえる。さらに、外交問題にしばしば積極的な発言を行って介入した。彼の大言壮語や不用意な発言が国際社会を混乱させたことは一再ではない。忘れてはならないのは艦隊建造への執着である。これがイギリスとの疎隔の最大原因だったのに、彼は最後まで頑として放棄しようとしなかった。

 
 第一次世界大戦でドイツが破れ、退位してオランダに亡命したヴィルヘルム2世は、亡命先でもそれなりの処遇を受けて、何不自由なく暮らしながらも、自分が帝位を追われたことに対してはずっと不満を抱き、復位をうかがっていたそうです。
 それが実現しなくて良かったのではないか、と思いますし、同時代の処刑された権力者たちと比較すると、恵まれた晩年だったようにみえるのですが、本人から見た世界は、別のものだったのです。

 この新書を読むと、ヴィルヘルム2世というのは、「遠くから観るには、面白い人だった」のは間違いなさそうです。
 トランプ大統領も、後世からは、こんなふうに評価されることになるのだろうか。


皇帝フリードリッヒ二世の生涯(上)

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