琥珀色の戯言

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【読書感想】言語の本質-ことばはどう生まれ、進化したか ☆☆☆☆


Kindle版もあります。

■本書の内容■
日常生活の必需品であり、知性や芸術の源である言語。
なぜヒトはことばを持つのか? 子どもはいかにしてことばを覚えるのか? 巨大システムの言語の起源とは? ヒトとAIや動物の違いは?

言語の本質を問うことは、人間とは何かを考えることである。
鍵は、オノマトペと、アブダクション(仮説形成)推論という人間特有の学ぶ力だ。認知科学者と言語学者が力を合わせ、言語の誕生と進化の謎を紐解き、ヒトの根源に迫る。


 産まれたときには泣くことしかできなかった子どもは、どのようにして「ことば」を覚えていくのか?
 僕も自分の子どもたちがはじめて「ことば」を口にしたときの驚きと感動は忘れられません。
 「ママ」の次に、風呂場でいきなり「アンパンマン!」が出てきたときには、「なぜ『パパ」より先に『アンパンマン』なんだ?ずっと複雑そうな言葉なのに……」と不思議な気持ちになりました。
 片言で、単語だけを並べ、何を言っているのか解読するのに困っていたのが、いつのまにか自分以上に難しい言葉を口にするようになっているのです。

 「人はどのようにして言葉を覚えていくのか?」というのは、現在でも未知の部分が大きいのだそうです。
 実際、毎日顔を合わせて話しかけていた自分の子どもたちでさえ、まだ喋らないねえ、と不安になってくるなかで突然言葉を口にして、あっという間に会話ができるようになっていきました。
 

 認知科学では、未解決の大きな問題がある。記号接地問題という。私たち人間は、知っているそれぞれのことばが指す対象を知っている。「知っている」というのは、単に定義ができるということではない。たとえば、「メロン」ということばを聞けば、メロン全体の色や模様、匂い、果肉の色や食感、味、舌触りなどさまざまな特徴を思い出すことができる。もちろん、これは「メロン」を写真で見ただけではなく、食べたことがあれば、である。
 しかし、実物を見たことも食べたこともない果物はどうだろう。「○○」という名前を教えられ、写真を見せられる。すると、その果物の外見はわかり、名前を覚えることができる。「甘酸っぱくておいしい」のような説明が書いてあれば、それも覚えることができる。しかし、○○のビジュアルイメージを「甘酸っぱくておいしい」という記述とともに記憶したら、○○を知ったことになるだろうか? イチゴの味を知っていて、「イチゴは甘酸っぱくておいしい」と思っていたら、○○の味もイチゴの味と考えてしまうかもしれない。
 記号接地問題は、もともとは人工知能(AI)の問題として考えられたものであった。「○○」を「甘酸っぱい」「おいしい」という別の記号(ことば)と結びつけたら、AIは○○を「知った」と言えるのだろうか?


(中略)


 しかし、記号接地問題は、人工知能の問題だけではないかもしれない。ヒトはことばを覚えるのに、身体経験が必要だろうか? ことばを使うために身体経験は必要だろうか? 言語はどこまで身体とつながっている必要があるのだろうか?


 人は感覚や体験を「ことば」にすることができるけれど、共通の「ことば」を使うことによって、理解できる面がある一方で、同じことばでも、同じ解釈をしているかはわからないのです。
 僕の感覚の「イチゴの甘酸っぱさ」と、これを読んでいる人の「イチゴの甘酸っぱさ」は、「まったく同じ」ではない。
 
 僕はAI(人工知能)にずっと興味があって、関連する本を読んできたのですが、ほとんどの人間はいろんな色や毛並み、体形のものがいるなかで、これは「犬」だと判別することができるのです。
 ところが、人工知能にとっては、「どこまでが『犬』なのか?」というのは長年「難題」でした。
 しかしながら、「ディープラーニング」という手法によって、画像から「これが何であるか」を判定する精度は格段に向上することになりました。コンピュータの処理速度の進歩を基盤に、「たくさんの具体的な事例の学習を積み重ねることによって(経験を積むことによって)」、人工知能の画像認識能力は格段に飛躍したのです。


ja.wikipedia.org


 人間は、AIを人間に近づけようとしてきたけれど、思考ルーチンを試行錯誤するよりも、より多くのデータから経験を積み重ねるほうが、現時点では、効果的だと考えられるようになりました。
 人間は「考える」生きものだと言うけれど、人工知能の研究によって、これまで人間が「深い思考」だと認識してきたものは、再定義されつつあるのかもしれません。人工知能を研究することによって、人間は、あらためて、人間というシステムやプログラムを解析することになったのです。

 著者たちは、言語の研究において、「オノマトペ」を手掛かりに、言語の本質に近づこうとしており、この新書には、そのアプローチがわかりやすく書かれています(とはいえ、ずっと「オノマトペ」の話を読むのは、ちょっとつらいところもありました)。

 オノマトペ? そう、「げらげら」とか「もぐもぐ」とか「ふわふわ」とか、日本人の生活になくてはならない、あのコトバである。実は、「オノマトペ」は今、世界的に注目されている。それも「ちょっと変わったおもしろいコトバとしてではない。言語の起源と言語習得の鍵を明らかにする上で大事なコトバ、「言語とは何か」という哲学的大問題を考える上で大事な材料として脚光を浴びているのである。著者たちもおもしろ半分でもなく、ウケ狙いでもなく、「オノマトペ」を学術的に重要なテーマとして、いたって真剣に、地味に研究してきた。


 この本を読むと、ある「ことば」に対して受ける「印象」というのは、人や言語、民族が違っても、共通点が多いということがわかります。

 オノマトペのアイコン性は、それを構成する音にも認められる。音のアイコン性は「音象徴 sound symbolism」と呼ばれる。過去20年ほど国内外で研究が活発になり、その仕組みがかなり明らかになってきているが、まだわからないところもずいぶん残されている。
 日本語のオノマトペはとりわけ整然とした音象徴の体系を持つ。すぐに思い浮かぶのは、いわゆる「清濁」(有声性)の音象徴だろう。「コロコロ」よりも「ゴロゴロ」は大きくて重い物体が転がる様子を写す。「サラサラ」よりも「ザラザラ」は荒くて不快な手触りを表す。さらに「トントン」よりも「ドンドン」は強い打撃が出す大きな音を写す。sやzやdのような濁音の子音は程度が大きいことを表し、マイナスのニュアンスが伴いやすい。


(中略)


 ほかにも「ブルドーザー」「バズーカ」「ゴジラ」「どんぶり」「仏壇」「ゾウ」「ブリ」はいずれも大きなものを表すが、日本語話者の耳には、いかにも濁音がぴったりと感じられるのではないだろうか。「プルトーサー」「パスーカ」「コシラ」「とんぷり」「ぷつたん」「そう」「ぷり」では、どこか物足りない。ゴキブリも「ゴキブリ」という名前のせいで、余計に嫌な生き物に見えているかもしれない。
 清濁の音象徴は、ポケモンポケットモンスター)の名前研究でも報告されている。体長の長いポケモンや体重の重いポケモンに濁音が多いほか、進化が進むにつれて名前に濁音を持ちやすくなることがわかっている。たとえば、「ヒトカゲ」というポケモンは進化すると「リザード」に名前を変える。濁音が一つから二つに増えている。濁音と大きさ、強さの関係は、まさに「ゴロゴロ」で見た音象徴である。


 世の中には、「ポケモンの名前」を学問としてこんなふうに研究している人がいるんだなあ、と感慨深いものがあるのです。
 なんとなく「濁音が多い名前のほうが強そう」みたいなイメージは多くの人が持っていると思うのですが、それを「なんとなく」では済ませない人がいるのです。
 オノマトペとか名前の音象徴の「なんとなく強そう」とか「重そう」な語感というのは、日本語に限定されたことではなく、他の言語にも共通点があって、それらの事例も紹介されています。意味はわからない外国のことばでも、その音から受ける印象(大きさや起こったことの善悪)は近いものが多いのです。

 記号接地問題は1990年前後に、記号をその定義とともにコンピュータに与え、操作をさせて問題を解決させるAIの記号処置アプローチへの批判として提起された。身体感覚や経験につなげられていない(接地していない)記号同士を操作して言語の本当の「意味」が学習できるのか、という問題がAIに投げかけられたのだ。しかし、これは人間の問題でもある。子どもはアナログ的な世界から始まり、どのようにデジタルで、一つひとつが抽象的な意味を持つ記号の巨大な体系を、身体の一部のように自然に操作できるようになるのか?
 この問題を解決するためには、人間の持つ、知識を自律的に拡張していく学習の力を考える必要があると考えた。人間の子どもには、ものすごい学習能力がある。知覚経験から知識を創造し、作った知識を使ってさらに知識を急速に成長させていく学習力が人の子どもにはある。これを筆者たちは「ブートストラッピング・サイクル」と名づけた。そこからさらに、ブートストラッピング・サイクルを駆動するのはどういう推論の力なのかという問いも生まれた。
 筆者たちは、論理を正しく推論する能力ではなく、知識を想像力によって拡張したり、ある現象から遡及して原因を考えたり、一番もっともらしい説明を与えようとする人間の思考スタイルこそが、その駆動力なのではないかと考えた。このような推論はみな、アブダクションという推論様式に含まれる。「アブダクション推論」がアナログの世界をデジタルの記号につなげ、記号のシステムを作り、それを成長させ、洗練させていくと筆者たちは考えるのである。


 この引用部だけを読んでも、何のことだが、よくわからないのではないかと思います。
 もし、ここまで読んでみて、この本に興味を持った、あるいは「なんで人間の子どもは『いつのまにか喋るようになる』のだろう?」とあらためて疑問になった方は、この新書を手にとってみてください。もちろんこれもひとつの「仮説」ではあるのですが、「わからないことを再確認し、あらためてその謎を探ろうとする、好奇心という人間の底力」を感じます。


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