琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

【読書感想】今を生きる思想 ハンナ・アレント 全体主義という悪夢 ☆☆☆☆


Kindle版もあります(Kindle版は紙の本より安く買えます)。

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約100ページで教養をイッキ読み!
現代新書の新シリーズ「現代新書100(ハンドレッド)」刊行開始!!

1:それは、どんな思想なのか(概論)
2:なぜ、その思想が生まれたのか(時代背景)
3:なぜ、その思想が今こそ読まれるべきなのか(現在への応用)

テーマを上記の3点に絞り、本文100ページ+αでコンパクトにまとめた、
「一気に読める教養新書」です!
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全体主義に警鐘を鳴らし続けたハンナ・アレント

人々を分断し、生活基盤を破壊し尽くす「全体主義」。
ごく普通の人間が巻き込まれていく、その恐怖を訴え続けたアレント
格差が拡大し、民族・人種間の対立が再燃し、
テクノロジーが大きく進化を遂げる今日の世界、
形を変えたディストピアが、再び現れる危険性はあるのか――。
全体主義のリスクから逃れるために、人間には何ができるのか。

スリリングな論考です。


 現代(2022年)を生きている人々にとって重要な思想を(紙の新書で約100ページくらいにまとめた講談社現代新書の「現代新書100(ハンドレッド)」。これまでは200ページくらいが新書のボリュームの常識とされていたのを打ち破る発想で、最初に発売された2冊、この本と『ショーペンハウアー』の値段が安いKindle版はAmazonKindleランキングでも上位に入っています。


book.asahi.com


 とりあえず、100ページくらいなら、1時間くらいで読めるな、と読み始めてみたのですが、全体のボリュームは一般的な新書の半分くらいなのですが、内容は濃いというか、けっして「簡単」ではありません。読みやすく「超訳」したものではなく、専門家がハンナ・アレントの思想のなかで、「全体主義」に関するものをしっかりまとめている印象でした。

 ただ、僕はこれまで、「人物とその思想を一冊にまとめた、これまでの新書」をそれなりの数読んできたがゆえに、ハンナ・アレントの生涯の伝記や、人としての興味深いエピソードにはほとんど触れられていないことに困惑したのも事実です。
 大学の一連の講義の中の1回分だけをいきなり受けたような感じでした。

 僕はそれなりに、ハンナ・アレントに関する本や映像作品に触れてきたのですが、すぐに思い出せるのは、『アイヒマン裁判』で被告席に立った、ナチスアイヒマンを「凡庸な悪」と評したことでした。
 アレントは、そのことによって、同胞のユダヤ人たちや世界中の人々から批判されたのですが、「多くの人間を虐殺したアイヒマンが凡庸である=誰でも権力者の命令と自分が免責される(であろう)状況があれば、残酷なことを「仕事」として行うことができる」という考えは、多くの人に影響を与え、「自分もあの状況なら、同じことをやっていたかもしれない」と自問させたのです。

 逆に、この「アイヒマンは凡庸な悪」というインパクトがある言葉ばかりが一人歩きしてしまい、僕はそれだけでアレントを理解したような気持ちになっていたな、と、この新書を読んで反省したのです。

 この新書では、ハンナ・アレントが定義した「全体主義」についての解説が書かれているのですが(というか、そのことだけを100ページ使って説明しています)、読んでいると、「全体主義というのは、あのドイツ・ナチスの時代にだけ限定的に出現したものではなく、これからの世界も、新しい全体主義に飲み込まれる危機にさらされている」と考えずにはいられなくなります。

 国民国家の解体の中から生まれてくるのが「大衆」である。


(中略)


 国民国家を構成する階級の解体は、一人一人バラバラにされた人間を大量に生みだす。職業や経済生活上の所属集団から切り離された個人は、お互いに対する関心を持たない。誰からも配慮されず、誰にも気を配らない生活は、やがては自分自身に対する関心をも希薄化させるだろう。かくして「自分自身など何者でもない、いつでもどこでも取り替えのきく存在だ」という感情が一般化していく。そのように互いに無関係で無関心な人間の集合がアレントの言う「大衆」である。彼らは「民衆」や「人民」などと同義で肯定的に用いられる日本語の「大衆」よりも、英語の「マス」(mass)が意味する「塊」や「集積」に近い。互いに無関係な人間が寄せ集められ、塊のように積み重なっている。物理的に近接していても、お互いのことを知らないし関心をもたない。隣にいた誰かがいなくなっても気にも留めない。満員電車や都会の雑踏でわれわれが日常的に目にしている光景から、貨車に押し込められて絶滅収容所へ送られるユダヤ人との間の距離はそれほど遠くないかもしれない。


 インターネット社会というのは、ネットで話題の有名人や「大義」にこだわり続ける人が大勢いる一方で、いま、そこにいる見知らぬ隣人への関心が薄れています。「自分自身は取り替えのきく存在だ」という認識は、僕自身も持っています。

 階級社会の解体によって自分の足場を根こそぎ奪われた大衆は、自分自身の経験すら信ずることができない。たとえ物理的には近くにいても、互いに無関係、無関心であるという意味で孤立した個人は、お互いの間で共通の「世界」を形成することができない。自分がその「世界」に所属している。その「世界」の中で生きているという実感がもてなければ、自分自身が見たこと経験したことも「本当」のものとは思えなくなる。「世界」の中での居場所を失った大衆は、自分がもはや適合できなくなった世界、自分にとって「嘘の世界」から逃避しようとするだろう。
 全体主義は、そうした大衆の想像力に訴えて、この世界と彼らの境遇にそれなりに首尾一貫した説明を与える。「この世界がこんなに生きづらいのはユダヤ人や一部の特権階級のせいであり、彼らこそこの世界の背後で一切を牛耳っている張本人である。だから彼らを打倒すれば、今のあなたの境遇は根本から変わるはずだ」というかたちで、どんなに荒唐無稽なものであれ、そうした説明を信ずるのは大衆が愚かだからではない。むしろ彼らに想像力があり、自らが依拠できる一貫した指針を求めているからである。この点で、愚かな大衆に対するデマや洗脳による支配であるという批判は全体主義の本質を見誤っている。大衆が自分自身の経験のリアリティを取り戻すことができなければ、全体主義の誘惑に抗することは困難だろう。

 事件によって何らかの被害を被った者ならば、勇気を奮って証言するかもしれないが、その場合には、「証人は自分の利益から事実を歪めているのだ」と誹謗や中傷を受けることになる。いずれにせよ、多くの者にとって「不都合な事実」を説得力を持って語ることは非常に困難である。かりに証人が他人に理解してもらえるよう熱弁をふるったとしても、それは政治的な説得の能力、彼の弁士としての能力を証明することにはなっても、彼が証言する事実の真理性、証人としての誠実さの説明にはならない。
 不都合な事実を政治の場で否定するのは簡単である。ことさら証言の真実性、証人の誠実性を問題にしなくても、こう言えば足りる。「それは貴方の意見でしょう」。かくして事件の有無についての問題は「見解の相違」という「意見」の問題に解消されてしまう。


 正直なところ、「一般的な新書の半分くらいの分量だから、読みやすい」というわけではありません。内容は精読してもなかなか頭に入ってこないし、僕自身、一読して理解できた、とは全然思えないのです。
 ただ、「読みやすい、わかりやすいけれど、内容はアバウト」というわけではない、「本気で学びたい人のために、きちんと書かれた本」ではありそうです。
 この本の形式だと、どこまでがアレントさんの思想で、どこからが著者の「解釈」だかわかりづらい、とは感じたのですが、「バカだから、全体主義の思想に侵され、誰かや何かを盲信してしまう」のではなく、「自分などどうでもいい存在である」という無力感や不安から、「確かそうなもの」に惹きつけられるというのは、わかるような気がします。
「それは貴方の意見でしょう」
 それが「論破」したことになってしまう社会は、全体主義に近づいているのかもしれません。

 ボリュームが少なくみえる本ではありますが、ハンナ・アレントについての予備知識がないと読みこなすのは難しいし、これ一冊だけで、ハンナ・アレントを理解できる、とは思えません。
 それでも「アイヒマンは凡庸な悪だと言った人」までで「知っているつもり」になっていた僕にとっては、「もっとちゃんと、繰り返し、少しずつでも深く学ばなくてはいけないな」と思い知らされる本でした。


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