琥珀色の戯言

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【読書感想】対局する言葉 ☆☆☆

対局する言葉

対局する言葉

内容(「MARC」データベースより)
羽生マジックと呼ばれる独特な手を繰り出す史上最強棋士と、翻訳不可能といわれた「フィネガンズ・ウェイク」を完訳しジョイス語と呼ばれる言語空間を創り出した今世紀最大の作家の鮮やかな出逢い。


 書店の新書コーナーで見かけて購入したのですが、これ、1995年に出版された、羽生善治さんと英文学者・翻訳家の柳瀬尚紀さんの対談本の復刊なのです。
 本のオビには今の羽生さんの写真が使われているし、羽生さん関連の本はとりあえず手にとってしまう僕は、家に返って「まえがき」に「平成7年」と書いてあるのを読んで、「えっ?」と思いました。
 そりゃ、柳瀬さんはもう亡くなられているし、「まえがき」も確認すればわかりますけど、これ、新刊と間違えて買ってしまって、「1995年?」と面食らってしまう人もいるはず。
 最近の本、とくに新書には、こんな感じで、けっこう前の本を復刊であることをわかりにくくして出しているものがけっこうあるんですよ。
 これはこれで、「若い頃の羽生さんが、どんなことを考えていたのか」がわかる、興味深いところがある対談なのですが、僕はずっと「ああ、なんか損した気分だ……」と思っていたのです。
 柳瀬さんが羽生さんの大ファンであるということは伝わってくるのですが、あまりにもその「好き」が溢れすぎていて、柳瀬さんは話していて楽しそうだけれど、ちょっと何言っているのか僕にはよくわかんないな、というところも多いのだよなあ。
 ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』を「読んでいるのが当たり前」という人じゃないと、柳瀬さんの話を理解するのは難しいのではなかろうか。


 羽生さんは20数年前、七冠達成前の20代に、どんなことを考えていたのか。

羽生善治一年中、二十四時間ずうっとひたすら将棋を指し続けるわけではないですから、必ずしも実生活の経験が全く無縁とは言えないと思うんです。ただ、いままではあまりにも精神論的なものが強かったと思うんです。日本はなんでもそういうのがあるので……。そういう精神論はあまり好きじゃないんですよ。だから、なんの関係もないとは言わないけれども、あまりにも精神的なものに傾き過ぎているんじゃないかな、という気はしているんです。


柳瀬尚紀はいはいはいはい。『フィネガンズ・ウェイク』なんだな、やっぱり。日本はさておいて世界レベルの話をしますと、例えば小説というものにはストーリーがなければだめである、というふうな文法があったわけですよ、ずうっと。おそらく現代の小説の読者も90パーセント以上はそう考えている。ところがこれはもう本当に、相当に時代後れな話なんです。有名な谷崎と芥川の論争があるんですけれども、芥川は筋のない小説ってものも成り立つ、というようなことをあのときすでに予感して書き送っています。
 それでジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』は、少なくともこの人物はだれで、例えばどんな会社に勤めていて、どういう女房がいてとか……、それすらもない。


羽生:それすらもない(笑)。


柳瀬:ない。で、なにがあるかというと、言葉があるんですね。言葉しかないんですよ。先ほど言った、紙というものの平面に印刷されている言葉しかなくて。例えば極端に言えば、いったいジョイスは『フィネガンズ・ウェイク』で何を言おうとしているんだろうという問いかけも、「あんたなに、もうそんな時代遅れなこと言わないでくれ」というぐらいに拒否される。ただここに言葉があって、ひたすら言葉がいつまでもある、という世界なんですよね。


羽生:はい。でもそれはすごい。


柳瀬:そうしますと、言葉が無限に組み合わさって——そこで語呂合わせの重要さとか、掛け言葉の重要さが出てくるんですが——、ある言葉がそこに置かれることによって、その言葉がある言葉を拉致してきて勝手にストーリーをつくっていくわけなんですね。しかしその拉致されてきた言葉も、また別の言葉を拉致してきますから、するともう勝手につくっていくわけです。

 
 最近は「将棋は単なるボードゲーム」だと公言する若手棋士も少なくないのですが、そういうことを言える雰囲気をつくったのは羽生さんなんですよね。
 「単なるボードゲーム」だからこその美しさというのもある。
 まあでも、このやりとり、とくに柳瀬さんの言葉は、僕には「わかったような、わからないような……」という感じです。この対談、こういう話が多くを占めているのです(しかもこの部分は、どちらかというと、わかりやすいほうだと思います)。
 自分の親くらいの世代の権威のこういう話を、うまく受けて対談を成立させている羽生さんは、20代半ばくらいにしてすでに、対局だけでなく、対談でも名手だったのです。


 この本を読んでいると、羽生さんの考えというのは、若い頃からブレていないというか、未来を見据えていたのだな、と感心せずにはいられません。

羽生:全体的な傾向とすると、最近は早い時期に勝負どころを迎えるんですよ。いままでだったら、それこそ七十手目、八十手目、いわゆる中盤戦の終わりから終盤が勝負という感じだったんです。でも、いまはもっともっと手前の二十手目、三十手目あたり、まだ手掛かりがなくて、感覚的なものでも処理ができないし、論理的に読んでいく手でも処理ができないという場面で指した、選んだ一手が勝敗を分けていた、ということは最近の傾向としてよくあるかもしれないですね。


柳瀬:できるだけ早く手掛かりを見つけようとする動きはありますが、名人を含めたいまの若い棋士たちの間に。


羽生:ええ。これはやっぱり、学習能力じゃないですけど、まだそういうことを始めたばかりの段階だと思うんですよ、プロの世界でも。ごくごく初期の段階から考えていくというのは。
 ですから二日制のタイトル戦でも、最近は一日目もものすごく大事になってきました。あまりゆとりもなくなってしまいましたけど、それこそ昔の三十時間とか十時間でやってた時代というのは、相当ヒマだったはずですけどねえ、はっきり言って(笑)。


柳瀬:それは面白いな。


羽生:いまのプロの人でも、そういう傾向についていけないとか、まだそういう動きに慣れていないとか、感覚的にちょっとまだ違和感を抱いているとか、そういうことはあると思います。自分もそうですけど。ただ、将来的には必ずそういうふうになると思います。あと五年、十年しますと。


 コンピュータが「選択肢が狭くなる終盤は絶対にミスをしない」ということもあって、人間どうしの将棋でも、終盤のレベルはどんどん上がってきています。
 その結果、終盤ではほとんど差がつかなくなり、勝負のポイントが、どんどん前倒しになってきているのです。
 羽生さんは、「コンピュータ以前」に、そういう時代の流れを感じ、対応してきたのです。


 とりあえず、1995年の羽生善治さんと柳瀬尚紀さんに興味がある方にはおすすめです。
 でも、こういう「昔の本を新刊のように見せかけている新書」って、僕は嫌いです。
 中身に自信があるのなら、ちゃんと復刊であることを明記して並べておいてほしい。


フィネガンズ・ウェイク 1 (河出文庫)

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決断力 (角川新書)

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